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硫黄島異聞‐なぜ彼は愛馬から落ちたのか。あるいはバロン西とウラヌス号、アスコツト号の話‐⑫

終 章「1945年 再び硫黄島」


 サイパン、グアム、レイテ――南方諸島が次々と陥落し、現地の将兵たちが壮絶な玉砕を遂げるなか、残る硫黄島には二万人の守備隊がかき集められた。
『小笠原兵団』と名付けられた守備隊を率いる最高指揮官は、栗林忠道(くりばやし・ただみち)中将である。

 栗林中将はかつて騎兵隊に所属し、軍馬と騎兵の絆を謳(うた)う『愛馬進軍歌』の制作にも関った陸軍の古参だ。
 西と同じ騎兵上がりの軍人というだけでなく、彼は東京オリンピックで馬術選手の監督役として名前が挙がっていた人物でもあった。
 それが巡りめぐって西の上官になるとは、なんという運命の皮肉だろう。

 二万人の守備隊と言えば聞こえはいいが、硫黄島に送られた将兵は寄せ集めに過ぎない。そのなかでも西や栗林中将のように、元は騎兵だった人間が多いのは偶然ではないだろう。
 この島は、時代に取り残された者たちへ与えられた死に場所だ。
 端から勝てる見込みはなく、当初から〝敵の攻撃に何日持ち堪えられるか〟が防衛計画の要点になっていた。
 それが本土防衛の最後の砦とされる最前線――硫黄島の実態だった。

     ***

 アメリカが硫黄島へ攻撃を開始したのは、年が明けた1945年のことだ。
 三日間に渡る執拗な艦砲射撃と絨毯爆撃により、海岸付近の拠点は瞬く間に壊滅していった。
 そして2月19日、ついにアメリカ軍は硫黄島への上陸を開始する。

 押し寄せるアメリカ上陸部隊に、小笠原兵団は粘り強く抵抗した。
 西の指揮する戦車第26連隊も、内地に引き入れた敵部隊と激しい戦闘を繰り広げる。
 しかしアメリカの主力戦車M4シャーマンと、すでに旧式である九七式中戦車とでは戦力差があり過ぎた。奮戦むなしく、敵の上陸から10日と経たないうちにほとんどの車輌を失ってしまう。
 本土を駆けずり回ってかき集めた戦車が一輌、また一輌と損耗していくごとに、西は無力感を味わった。

 戦車連隊に残された抵抗手段は、捨て身の肉薄攻撃しかない。
 本土決戦用に開発された十キロ爆雷を背負った兵士が敵戦車の懐へ飛び込み、相手もろとも自爆するのだ。その隙に他の者が擱座(かくざ)した車輌を奪い取って反撃を試みる。まさに決死の特攻作戦である。
 特攻隊は闇夜に乗じ、時には死体に紛れて肉薄攻撃を敢行する。
 この攻撃は敵にかなりの損害を与え、一時は進攻を押し止めるかに思われたが、それも長くは続かなかった。
 日本兵が死体に紛れて攻撃してくると気づいたアメリカ軍は、火炎放射器で草木ごと死体を焼き払って進軍するようになっていた。

 いよいよ手詰まりになる一方、連隊本部壕には周囲から落ち延びてきた残存部隊が集まっていた。残された者たちは、みんな運命共同体の仲間だ。西は来るものは拒まずに受け入れた。
 潔く自決するという選択肢は、西の頭にはなかった。あるのはただ最期の瞬間まで生きようとする意志だ。
 いつの間にか戦いの目的は、敵を倒すことから一日でも長く生き延びることへ変わっていた――。

 抵抗を続ける各部隊へ硫黄島司令部からの総攻撃命令が下されたのは、敵の上陸から三週間以上が経過した3月16日の夕方だ。
 翌3月17日深夜零時をもって、全軍は最後の反撃を行うという。
 しかし総攻撃を行おうにも、もはや戦車連隊にはロクな武器弾薬が残っていない。

 斥候に出した部下が、海岸付近に放棄されたとある壕の噂を聞きつけてきたのは、丁度その頃であった――。

     ***

 ――過去の思い出話を語り終えると、西中佐は煙草の火をもみ消した。

 周りの反応は様々だった。
 感じ入ったように聞き入る者、嘘か真か疑問を浮べる者、黙ったまま静かに頷く者――この話を聞いて彼らが何を思うかは、西中佐のあずかり知らぬところである。

「これがウラヌスの鬣(たてがみ)だ」

 西中佐がおもむろに懐から茶色の毛を取り出すと、部下たちは「おおっ」と感嘆の声を上げた。しげしげと興味深そうに見つめながら、なかには有り難がって拝む者もいる。

「俺に取って、他の何よりもご利益があるお守りだ。例え敵の銃弾に倒れても、ウラヌスが俺の魂を導いてくれる」
 
 西中佐の言葉に、部下たちが神妙に頷く。これが最後の訓示になるかもしれない。終わりの足音は、すぐそこまで迫っている――

「――敵襲っ!」ふいに叫び声が上がった。切羽詰った様子で駆け込んできた斥候が、粟を食ったように報告を飛ばす。

「アメリカ兵だ。こっちへ向かって来るぞ――」

 素早く立ち上がった西中佐のもとへ、軍靴を鳴らして押し寄せるアメリカ兵の鬨の声が聞こえてくる。
 
 夜明けの迫る森のなかに、数え切れないほどの銃声が轟いた――。
 
     ***

 1945年3月21日。
 大本営は硫黄島からの訣別の電文を受け、3月17日の総攻撃をもって小笠原兵団は玉砕を遂げたと発表した。
 
 大本営の伝える戦死者のなかには、西竹一の名も刻まれていた。

 それから間もなくして、後を追うようにウラヌス号も静かに息を引き取ったという。

 当初は5日間で陥ちるとされた硫黄島で、小笠原兵団は実に一ヶ月以上も組織的な抵抗を続けた。
 記録によれば、硫黄島に配置された二万人の守備隊のほとんどが戦死している。
 太平洋戦争、及び第二次世界大戦では世界中で五〇〇〇万から八〇〇〇万人もの尊い命が失われたとされる。
 そのなかには、ベルリンオリンピックで目覚ましい活躍を遂げたドイツの馬術選手たちも含まれている。

 総合馬術の覇者ルートヴィヒ・シュトゥッベンドルフ大尉は、第一騎兵連隊長として各地を転戦した。1941年6月のバルバロッサ作戦(独ソ戦)に参加するも、一ヵ月後に戦死している。彼の愛馬ヌルミ号も主人と運命を共にした。

 障害飛越で金メダルを獲得したクルト・ハッセ中尉は第47装甲軍団に配属され、味方からも死地として怖れられた東部戦線に従事し、1944年1月に命を落としている。

 ドイツの馬術完全制覇に貢献したコンラート・フォン・ヴァンゲンハイム中尉も悲劇的な最期を迎えた。
 やはり東部戦線に配属された彼は、1944年にソ連軍の捕虜となり、スターリングラードの捕虜収容所へ送られた。そして終戦から八年が過ぎた1953年、収容所内で首を吊っている姿が発見される。
 失意のうちに自殺したのか、または何者かに殺害されたのか、真相は明らかになっていない。

 彼らの最期はオリンピックでの輝かしい栄光とは対照的に、悲しいものであった。

 しかし、激動の時代を乗り越えて明日へと向かう人々もいた。

 バロン西とも交流があった竹田宮殿下は、皇籍を離脱して竹田恒徳(たけだ・つねよし)を名乗り、戦後のスポーツ発展に貢献した。
 IOC理事に就任した彼は、日本へのオリンピック招致に尽力し、1964年の東京オリンピック開催における立役者の一人となった。
 四半世紀の時を越えて、西の夢見た東京オリンピックは現実になったのだ。

 アスコツト号の管理者であった尾形景造も、戦後に新たな時代を切り開いた一人である。
 尾形藤吉(おがた・とうきち)と名を変えた彼は、数々の功績から「大尾形」として称えられ、日本競馬に大きな足跡を残した。
 1959年にはハクチカラ号を連れてアメリカに遠征し、日本馬初の海外重賞制覇という偉業を成し遂げている。
 この偉業の影には、西とアスコツト号が標(しる)した世界への想いがあったことは想像に難くない。

 引き継がれる夢がある。
 語り継がれる想いがある。

 バロン西と彼の愛馬たちが残した偉大なる蹄跡(ていせき)は、今の時代へと確かに受け継がれている――。

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