硫黄島異聞‐なぜ彼は愛馬から落ちたのか。あるいはバロン西とウラヌス号、アスコツト号の話‐⑬【完】
エピローグ「はるかなる蹄音」
大本営発表による『硫黄島、玉砕』が報じられてから数日後。
日本兵の抵抗が続く硫黄島で、西はまだ生きていた。
アメリカ軍の攻撃を辛うじてしのいだ西は、生き残った部下と共に連隊本部壕へ引き返した。しかし、一昼夜かけて戻ってみれば、本部壕は敵の砲撃に吹き飛ばされていて跡形もない。
それでも諦めず、西たちは兵団司令部のある北海岸を目指して移動する。だが、またもアメリカ軍に発見されてしまう……。
それからのことはよく覚えていない。
銃撃戦をくぐり抜けたあと、西は数名の部下と洞窟や塹壕に身を潜めながら、海沿いに北部へたどり着こうとしたのだが――
波が岩肌を洗う音が聞こえる。
海辺には部下たちの亡き骸が転がっていた。
西も体に何発もの銃弾を浴びている。血を失い過ぎたせいか、すでに体の感覚がなくなっている。
飢えと疲労で頭がぼんやりして、総攻撃の日からどのくらい時間が経ったのかも分からなかった。それでも朝日を見た回数からすると、今日はおそらく3月22日になるはずだ。
アメリカ軍の猛攻に一ヶ月も耐え抜いたことになる。我ながら、よく持ったものだ。
「俺は……最期まで堂々戦えたかな……?」
思えば西は、ベルリンで愛馬の背から落ちたあの日から、ずっと泥沼のなかを彷徨っていた気がする。
それでも西は、自らの人生――運命から逃げはしなかった。
必死に生きた。必死に戦った。
生きて、生きて、生き抜いて。
最期まで諦めずに、堂々と立ち向かったのだ。
次第に意識が遠のいてゆく――。
眠るように目を閉ざした時、どこからか懐かしい音が聞こえた。
蹄鉄の足音だ。
ハッとして目を開いた。地に倒れる西のそばに、ウラヌスの鬣(たてがみ)が落ちている。それに導かれるように、顔を上げる。
「ウラヌス……なぜお前がここに……?」
目の前にウラヌス号が立っていた。
愛馬は着いて来いとでも言うように、森の方へ歩いてゆく。
西は立ち上がって後を追った。不思議なことに、痛みや疲労は感じなかった。それどころかまるで若返ったように体が軽い。
先を進む愛馬に続いて、木立を通り抜ける。
「これは――」
気がつけば、西は馬事公苑のなかにいた。
大歓声に包まれて、競技場には大勢の人馬が轡(くつわ)を並べている。そのなかにはヴァンゲンハイム中尉やドイツ選手たちの姿も交じっていた。
風に万国旗がはためく。抜けるような青空に盛大な祝砲が鳴り渡る。
オリンピックだ。
西は再び、この場所へ還ってきた。
「お前たちが、ここへ連れてきてくれたんだな……」
馬術会場の入り口には、ウラヌス号とアスコツト号が待っている。
万感の想いを胸に、西は愛馬の背に股がった。
「さあ、ゆこう――」
西は愛馬と共に、夢の舞台へ向かって駆けてゆく。
それは今際のきわに西が見た幻だったのか。それとも、愛馬たちが彼の魂を導いたのか。
人馬の響かせる蹄音は、はるか遠い彼方へと駆けていった。
どこまでも、どこまでも――――
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