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AIの発展に伴ってクリエイターが考えるべきことをつらつらと


はじめに

AI。特に画像生成AIが、昨今話題になっている。
Xにおいては今年の2月頃から「#NOMORE無断生成AI」のタグと共に、絵師を中心として画像生成AIの規制を訴える声が大きくなった。
彼らの主張をまとめると「画像生成AIは著作権を無視して莫大な画像を学習しており、それによって様々なな不利益が生み出されている。現状の画像生成AIは規制すべきだ」といったところだろうか。

僕個人の意見としては「やるならもっと頭を使え」である。

確かに、画像生成AIによって不利益を被った人間はいる。悪質な狙い撃ちLoRAにより有名絵師の名を騙ったり、センシティブな画像を生成されたり。それについては法律に基づいて処罰されるべきだと思っているし、今後そのようなことが起きないよう著作権法の見直しや新しい法律の制定などを急いで欲しいとも思っている。
だが、それ以上に見受けられるのが生成AIそのものへの稚拙なヘイトだ。多少の理論武装はしてあるものの、一皮剥けば感情論のソレらに同情こそすれ正当性があるとは思えない。

ひとえに頭が悪い。
学級会と揶揄されるのもむべなるかな。

なので「やるならちゃんとやれ。法律を調べて、主張をまとめて、ロビイングに勤しめ(Xでポストしろってことじゃないぞ!)。生成AI使用者を攻撃するな、デマを広めるな、ブロック推奨してエコーチェンバーを形成するな」と言いたいのだ。

さて、これだけではただのヘイトスピーチでありAI規制派と同じになってしまう。よってここからはAIの発展していく中、創作活動に熱中するクリエイターは何を考えてどう立ち回ればいいのか、僕自身の考えを挙げつつ考察していこうと思う。
もちろん、この考えを押し付けることはないので、これをたたき台として己の知識や経験からしっかりと考えを形成して欲しい。

一章:AIの発展に対する心構え

Point1:AIは退化しない

まず第一に、ここまで広まった技術は消滅しないということ。

画像生成AIの技術が無くなることは決して有り得ない。もはや我々はこの技術がある前提で動かなければならないということを、覚えて欲しい。
もしかしたらバッシングの嵐で生成AIの学習が難しくなったりするかもしれないが、それでもゼロにはならないだろう。

話は変わるが、ラッダイト運動というものがある。
詳しくはWikipediaでも見てもらいたいが、つまるところ新技術によって失われた雇用の復讐だ。
よくXではAI規制派のことを現代のラッダイト運動、ネオ・ラッダイト運動とする言説が流れてくるが、実はそんなことも無いと僕は思っている。
ラッダイト運動は産業革命によって機械に代替され、賃金を獲得できなくなった労働者が生存を賭けて起こしたものである。翻って今のAI規制派は、その大多数が将来への危機感(というか不安と恐れ)で好き勝手に喋っているだけだ。

こんなものラッダイト運動未満である。モック・ラッダイト運動だ(モックの意味が分からなければChatGPTに聞くのがよろしい)。先人のプロレタリア達に顔向けできるものじゃない。

そして本家本元の運動が失敗に終わったのだから、モック・ラッダイト運動が成功の目を見ることはまずもって無いだろう。

Point2:今はAI過渡期

第二に、今は過渡期であるということ。

黎明期は過ぎたが、一般社会に普及したとは言えない。道具は最低限揃った、じゃあ何やろうか。そういう最適解の無い不安定な状態である。
もちろん、そんな時期なので失敗も多い。いや、失敗とさえ分からないものだ。まだ結果すら出ていないサービスが多々あるのだから。だからみんな、とりあえず出来ること、やりたいこと、良さそうなことに全力を挙げて邁進している。とにかくやってか考える、そういう時期なのだ。
そしてこれまでのハイテク産業の歴史を見ても分かるように、最後には広く普及するだろう。この前のWWDCでもiOS18にChatGPTが搭載されると言われたし、スマホと同じくらいには普及するかもしれない。
ちなみに画像生成AIに関しても、Appleはメールから趣旨に合わせた画像を生成したり、オリジナルの絵文字を生成できるようにする予定だし、Geminiにも引き続き搭載されるらしい。どんどん身近になっていく。

一章の総括

さて、この二つを鑑みれば自ずとクリエイターのやるべきことが見えてくる。すなわち「適応」だ。

将来的にChatGPTを活用する前提で動く。
将来的に画像生成AIが普及する前提で動く。
とはいってもそこまでセカセカ走り回る必要もない。正直、心の準備だけしておけばどうとでもなる。だがもし余裕があるなら、今のうちから触れておこう。いざ普及した時にスムーズだ。そのくらい軽く考えて欲しい。

というかそもそも、人によっては適応の必要すらないのかもしれない。趣味でやる分には好きにすればいいのだから。
ただもし貴方が何某かの創作活動によって金銭を得たいと考えるのならば、遅かれ早かれ適応しなくてはならないだろう。

ここまでで、クリエイターである貴方が将来どう立ち回るかをある程度決めたと思う。適応するにせよ、拒絶するにせよ、だ。
次からはその先、芸術(アート)と娯楽(エンタメ)の話に移ろう。

二章:芸術(アート)/娯楽(エンタメ)

芸術(アート)の定義


芸術(アート)とは、クリエイターの自己表現である。以下の特徴を持つ。
・芸術的価値が尺度である。
・数より質を重視する。
・個性的であるほど良い。
・名作ほど高い値がつけられる。
・芸術家(アーティスト)は己の世界を表現することが至上命題である。

娯楽(エンタメ)の定義

娯楽(エンタメ)とは、消費者へ向けた無形の商品である。
・商業的価値が尺度である。
・質より数を重視する。
・大衆的であるほど良い。
・名作ほど量産される。
・娯楽家(エンターテイナー)はより多くの消費者に買ってもらうことが至上命題である。

僕はこのように定義している。

多くの場合、創作物は芸術/娯楽の両方の性質を持っている。そしてその偏りは千差万別だ。また、偏りが強いほど評価される傾向にあると思う。
芸術の極限に近づくほど世界観は難解を極め、極小数の人間から無上の評価を得られる。
娯楽の極限に近づくほど作品はテンプレ的で流行りの要素盛り沢山になり、不特定多数の人間から金を吸い上げる。

どちらが良いとか悪いとかではない。そういうものだ。

余談になるが、中には二つの比率が黄金比的にガッチリと噛み合った作品がたまにある。それがいわゆる世紀の大傑作だ。ワンピースとかがこのカテゴリに入る。

さて、クリエイターも多くの場合、この二つを混合した存在だ。純度100%の芸術家/娯楽家はそうそう居ない。

で、この混合がクセものである。

クリエイター特有の悩みは、この混合比率を自覚できていないことから発せられる。

「もっと売れたい」「でも個性を潰したくない」「もっと面白いものを作りたい」「でも尖り過ぎると売れないかも」「こんなテンプレ作品のどこが良いんだか」「こんな前衛的な作品がなんで売れてるんだ」ーーetc。

この手の悩みはクリエイターとして活動する上で避けては通れないものである。各々悩み抜き、天啓を得たり開き直ったり不貞腐れたり諦めたりして突破することになるわけだが、この二極軸の考え方はきっと悩みへの手助けになると思う。

まず、自分がどの程度の芸術家/娯楽家なのかを知ろう。簡単なチェックリストを作ってみたので、参考にして欲しい。

クリエイターズ・チェックリスト

〈芸術家チェック〉

  1. 流行りものは嫌いだ

  2. 人と価値観が合わないことが多い

  3. 自分は個性がある方だと思う

  4. マイナーな作品が好き

  5. 金の為に活動してるわけじゃない

〈娯楽家チェック〉

  1. 流行のものは好きだし常にチェックしている

  2. 自分の価値観は変じゃないと思う

  3. 個性に自信が無いしあまりこだわっていない

  4. マイナーな作品はあまり知らない

  5. 創作活動で金を稼ぎたい

当てはまった方はそのままに、当てはまらなかった方の数を逆に追加すると、それが貴方の芸術/娯楽比率である。と思う。僕は9:1だった。

ある程度貴方が芸術優位か娯楽優位か分かったところで、次は代表的な悩みに対して道標を立てておく。ぜひ苦悩の一助に使って欲しいが、最終的にどうするかは貴方である。

悩みの道標

「売れたい」
芸術優位:
貴方は売れようなどと思ってはいけない。好きに作ることが、一番の売れ筋である。

娯楽優位:
研究し、学習し、出力すべし。売れなかった作品は忘れて、次の作品に打ち込もう。

「個性を潰したくない」
芸術優位:
貴方の個性を阻む障害を打倒しよう。それが叶わないなら、それでも抑えきれないくらいの個性を発揮しよう。

娯楽優位:
素直に周りの評価・批評に従うべし。型に嵌めても滲み出てくるのが個性である。

「もっと面白いものを作りたい」
芸術優位:
人生全てがインプットである。新しい物を絶えず経験し、蓄え、創作活動に昇華しよう。

娯楽優位:
売れた物こそ面白い物である。故にもう一度同じことを言う。研究し、学習し、出力すべし。

「尖り過ぎると売れないかも」
芸術優位:
無用な心配である。

娯楽優位:
流行や倫理観の移ろいを敏感に感じ取ろう。炎上だけには気をつけて。


「こんなテンプレ作品のどこが良いんだか」
芸術優位:
全くその通り。だが敵を知ることも重要なので、冷静に研究しつつ怒りと情熱をぶつけてやろう。

娯楽優位:
それは貴方が最も言ってはいけないセリフである。売れているならそれが面白いと、まずは認めよう。


「こんな前衛的な作品がなんで売れてるんだ」
芸術優位:
売れるかどうかは時運にもよる。そして創作を続けていれば、きっと貴方にもその時が来る。負けずにいこう。

娯楽優位:
それは貴方が最も研究すべき作品である。その作品がなぜ売れたか理解できた時、次に売れるのは貴方である。


全てが正しいとは言わない。所詮は実績の無いガキの言葉だ。
ただ僕自身が悩み抜き、ある程度の解答を自分の中に持った後に「ああ、あの時はこういう言葉が欲しかったな」というものを詰め込んだ。
助けになれば幸いである。

二章の総括

さて、今こうして「AIにはどうするべきか」「クリエイターはどうするべきか」という二つの情報が揃った。次はその融合、「クリエイターはAIをどう扱うべきか」である。

三章:クリエイターはAIをどう扱うべきか

さて、まずは創作活動にAIがどう役に立つのかを考えていこう。今回は絵・小説・音楽を取り上げる。

絵といえばやはり画像生成AIである。AIを使えばあら不思議。とりあえずの完成品が出てくる。あとは指とか細かいところを手作業で直せば、人目に晒せる程度の作品は作れる。僕は練習の為に多少模写をしたところで飽きたクチだが、たまにDALL-E-3を使って小説のキャラ画像を作ったりしている。そのうちローカル環境も構築しようかなとも考えている。

次は小説。これは専門なので詳しく解説できる。僕が主に使うのはGPT-4oとClaude3.5 Sonnetだ。設定の構築にはGPT、文章表現にはClaude3.5と使い分けている。更に言えばClaude3.5をカスタムしたボットを小説生成用、評価用、編集用と用意している。これのおかげで0→1のアイデアさえ出せれば三日かそこらで短編が一本出来上がる。正直かなり楽しいのでオススメだ。ここら辺の話は過去の記事で詳しくやっているので、そちらを参照のこと。

最後は音楽。ほとんど触っていないのと音楽制作の知識不足なために一番語れることが少ない。なので消費者としての感想になってしまうが、Sunoの音楽はかなりクオリティが高かった。アレはオススメ。以上。

そして何故この三つを取り上げたのかというと、これらを組み合わせれば大抵の創作物は作れてしまうからだ。
小説のようにプロットを生成して、さらにコマごとに絵を生成すれば漫画になる。生成した絵を動かして(そういうAIもある!)、音楽をつければ映画やアニメになる。
口で言うほど簡単ではないが、原理上はそういうことだ。

さて。ここまでの話は正直なところ、けっこう夢物語な節がある。

画像生成AIは言わずもがな、音楽生成AIもソニーやらなんやらから現在提訴されている。小説に関してはまだ表立った動きは無いが、芥川賞を取った作品がAIを使ったことに対する反応やAI規制派に感化されつつあるWeb小説界隈の人間など、水面下で拒否反応が育てられつつある。

「問題ある技術だから禁止せよ」の声が着実に増しているのだ。

これは良くない。

なぜなら一章で語った通り、技術は退化しないのだから。AI規制派による不安と怒りの呟きは、つまるところ何の変化ももたらさない。無意味なのだ。
時代は変化する。価値観は移ろいゆく。乗る乗らないは勝手だが、変化を止めることだけは誰にも出来ない。例え国が禁止しても、アンダーグラウンドでギーク達が遊ぶのだから(恐らくそっちの方が危険)。

そして二章で語った芸術/娯楽のアンビバレンツな二軸。ここにあってAIはどのような意味を持つのか。
芸術において、それは新たな表現の可能性である。
娯楽において、それは効率化を促すツールである。
どちらにしろ、活用すべきだと僕は思う。

もし貴方がAIを使ったことで非難されたとしよう。
その場合、貴方が取るべき最良の行動は無視である。

現状(2024/07/07)、生成AI含めて一般に使用できるAIは適法である。使っただけで罰せられることは無い。仮に何かの間違いで今後生成AIが禁止になったとしても、日本では遡及立法と遡及処罰が禁止されているので安心していい(悪質な使い方してたら別の法律で処罰されるかもしれないが)。

つまるところ、使うだけ得であり、使った分だけ将来的なイニシアチブを取れるのだ。

だから、声を大にして言う。
あらゆるクリエイターはAIを活用すべきなのだと。

全体のまとめ

AIは道具だ。ビビるな。直視しろ。使いこなせ。

おわりに

質問などあればご自由に。可能な限り答えます。
至らない部分は指摘してくれれば追記します。


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