究極の真理に取り憑かれると死ぬ
先ほどこんな記事を上げた。
ここでは、上記のような極端な結論に至ってしまう私の精神状態など、個人的な部分について述べたいと思う。初めは一つの記事だったが、趣旨があまりにも異なるので分割した次第だ。自分語りパートだと思ってもらって差し支えない。
正しさはそこに無ければ無いですね
健全な人間なら「世の中に100%正しいことなんてあるわけないだろ」と吐き捨てるだろう。100%の正しさが絶対に必要なものであるかのように論じる私を奇妙に思うだろう。これが幼い頃より、人という不確かで流動的な存在よりも、一貫性のある物質や現象や原理といったものに興味を持ち、ヒトよりモノにばかり好奇心を消費した人間の末路である。
では私のような思考が極めて特殊かというと、全然そんなことはない。究極の真理はどこにあるのか? この問いは決して新しいものではないし、同様にその答えも使い古されたものだ。
創世の神秘は君も我も知らない。
その謎は君や我には解けない。
何を言おうと幕の外のこと、
その幕が降りたらわれらは形もない。
この万象の海ほど不思議なものはない、
誰ひとりそのみなもとをつきとめた人はいない。
あてずっぽうにめいめい勝手なことは言ったが、
真相を明らかにすることは誰にもできない。
-オマル・ハイヤーム 「 رباعیات (ルバーイヤート) 」 第七、八歌
オマル・ハイヤームは11~12世紀のペルシャの哲学者であり詩人であるが、イスラムの世にありながら無神論者であり、三次方程式を幾何的に解いた数学者でもあった。我々より900年も前に真理に対する人間の至らなさに直面していた彼が、導き出した答えは明白なものだった。
宇宙の真理は不可知なのに、なあ、
そんなに心を労して何の甲斐があるか?
身を天命に任せて心の悩みを捨てよ、
振りかかった筆の運びはどうせ避けられないや。
-同、三二歌
いつまで一生をうぬぼれて居れよう、
有る無しの議論になどふけって居れよう?
酒を飲め、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかして過ごしたがよかろう!
-同、一四三歌(最終歌)
そう、究極の真理はどうでもよいのだ。
ほとんどの人間は意識的にしろ無意識的にしろ、この問題をどうでもよいと思って放棄している。解決しない問題を「どうでもよくする」という選択肢を持つこと。酒を飲んで考えないようにすること。大人になるとはそういうことだ:
そっか、究極の真理なんてどうでもよかったんだね。じゃあ大人になっちゃえばいいんだ。やったねそひかちゃん。これで安心して生きていけるよ。
#いいえ
私の心は大いなる不安(Big fuan)で一杯だ。これを書いている今でも、薄氷の上に立っているような気分がする。いつか見に行った諏訪湖の御神渡りで、一人凍った湖面を歩いたときの様に。私の足元で、ぴきゅん、ぴきゅんと氷の割れる音がしている。この不安から逃れるためなら、何をしても構わないとさえ思う。
私は究極の真理に基づいていたい。究極の真理という無限に広く無限に厚い土台の上に立っていたい。一度その安心感を想像してしまったら、不安定な現実世界が怖くて仕方ない。だからあえて言わせてほしい。
俺の足元は薄氷だけど、お前は?
……思えばこの一年、私は心の中の「安心」を失ってばかりだ。「ある」と無自覚に思っていたものが実は「ない」のだと知る度に、私の足元の氷は薄くなっていった。特に酷かったのは、自分が常に仮面を被っていたことに気づいた時だった。
みんなに見えている「自分」がどこにも居ないと知って、また一つ、私は信じられるものを失った。自分自身すら騙し、己の存在を騙っていた。全ては仮面だったのだ。
いつか来るさ
誰もが
仮面を取る朝が
ノリアキがそう歌うのは、fakeではない「君の本当のキー」があることを信じて疑わないからだ。
今の私に、それを信じる力は残っていない。