特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第4回|井上義和・坂元希美
(構成:坂元希美)
④特攻文学的な“刺さるポイント” キーワードは3つ!
★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ映画鑑賞後にまた読みにいらしてください。
負い目から未来へと乗りゆく者たち
坂元 《ゴジラ-1.0》のキーワードの1つは「未来」ということでしたね。
井上 山崎貴『小説版ゴジラ-1.0』(集英社オレンジ文庫)では、「未来」という言葉が4カ所出てきます。これが海神(わだつみ)作戦というゴジラとの戦いを、参加者自身にとって意義あるものにする非常に重要な言葉なのです。
堀田の「この国の未来を切り開く」や野田の「未来を生きるための戦い」は、敷島にとっては自分の大切な家族を守る、「この子」を守るという当事者性を帯びたミッションに読み替えられることで、己を鼓舞してゴジラと戦うモチベーションになる。
山崎監督は、とてもうまくこの言葉を組み込んでいると思いました。
坂元 未来が具体的に落とし込まれたわけだ。敷島が「俺の戦争が終わってないんです」と言ったのは、過去の負い目を乗り越えられないということですよね。彼が戦うモチベーションは、その決着を付けることから「あの子の未来を守ってやりたい」に変わる。実質的に、この台詞によって彼の戦争(過去の戦争)は終わったとみていいですね。
井上 そうですね。別の角度から言えば、「あの戦争」をもう一度やり直す、ということでしょう。大義を信じられなかった「あの戦争」、多くの命を粗末にした「あの作戦」。敷島の場合はそれに加えて仲間を見殺しにした「あの自分」。とても我が事として直視できない。そんな後悔だらけの「俺の戦争」を、今度こそ、真に意義ある戦いにしたい。その転轍機として「未来」という言葉が大変有効に使われているということですね。
しかも、それまで父親になることをずっと避けてきた敷島が、「未来」という言葉を手に入れることで明子の父親になる。「俺はお前のお父ちゃんだ」という台詞です。
「お父ちゃん」という言葉の使い方も素晴らしい。ここぞという絶妙なタイミングで出してくる。
坂元 このあたりは、涙腺に対する怒濤の波状攻撃でしたね。「父になる」というテーマは回を改めて取り上げましょう。
井上 たぶん、海神作戦から涙が流れっぱなしで(笑)、何が何だかわからなくなっています。だからぜひ、小説版で振り返りをしていただきたい。自分を感動させた物語上の仕掛けがわかります。繰り返し強調しますが、僕は《ゴジラ-1.0》で一番大事なキーワードは「未来」だと思っています。「明子の未来」が見えたからこそ敷島はお父ちゃんになり、震電で飛ぶ迷いを断ち切ることができたのですよね。
坂元 未来を子どもや若者に託すというところでは、新生丸の艇長・秋津淸治が見習いの水島四郎に「この国はお前達に任せたぞ」と、はっきり言います(149頁)。
井上 そこも重要なシーンですね。秋津が軍隊時代に何をやっていたのかは描かれていませんが、おそらく海軍の下士官で、実際に船を操縦する部署で働き、修羅場をくぐり抜けてきた。それに対して、水島は軍国少年として育ち、戦場に出ることに憧れていたけれども、そうなる前に日本が負けてしまった。秋津からは「小僧」と呼ばれ半人前扱いされ、戦争に行けなかった悔しさと重ねられて屈折を抱えている。それが海神作戦から、自分もこの国を守りたいと「未来の物語」に参加したいと変わります。
坂元 「戦争に行きたかった」軍国少年から、「この国の未来」にコミットする大人になろうとするのですね。
井上 はい。水島だって成長している。ところが、秋津は「お前は乗せねぇ」と突き放す。それまで新生丸では水島を何度も危険な目に遭わせているし、秋津はそれを何とも思っていなかったのですよ。でも、「未来を生きるための戦い」には、年端もいかない少年を道連れにするわけにいかない。水島の成長を認めればこそ、です。それで「この国はお前達に任せたぞ」とタスキを渡すことにした。これがまた泣かせるではないですか!
「あの戦争」をもう一度やり直す資格をもつのは大人です。子供や若者に対して「未来を生きるための戦い」を戦う背中を見せる責任が、大人にはある。
坂元 ここ、戦前と戦中世代と言いますか、終戦時の年齢によって戦後に抱えるものが違うことを端的に見せたとも思いました。
戦争を終わらせるって、こういうこと?
坂元 これで新生丸の4人は、同じ「未来の物語」に乗ったわけですね。
井上 敷島は自分だけ逃げて仲間を見殺しにしてしまい、その過去の負い目に押しつぶされて現在を生きることができなかった。だから「俺の戦争を終わらせる」にはゴジラに特攻して死ぬしかないとまで思い詰めていたのに、だんだん未来の日本ために力を合わせて戦う(未来を生きるために戦う)ことにその可能性を見出していく。
未来を守ることで過去を乗り越える、というのはアクロバティックな「超」論理に見えるかもしれません。けれども、例えば生き残りの負い目(survivor’s guilt)を抱えた戦中世代のなかには、「仲間の死を無意味なままで終わらせてたまるか」と戦後日本の復興と繁栄のために懸命に働いた人たちがたくさんいました。彼らを突き動かしたのは「仲間の死を犬死にさせないために、生き残った自分たちが何をなすべきか」という問いです。
《ゴジラ-1.0》でも「このままでは死んだ仲間に顔向けできない」という想いが男たちを支えていたはずです。「戦争を終わらせる」という言葉には何重もの意味が込められている。本当によくできた脚本だと感じ入りました。
坂元 「戦争を終わせる」という軸が最後までブレず、起承転結がとてもはっきりしていて、観客に伝わりやすいですよね。映画というエンターテインメントが必要とする大きなカタルシスを用意できています。しかも死んだと思っていた典子も無事だったことがわかり、駆けつけた敷島に問いかけますよ。
井上 個人的には、海神作戦で皆が「未来の物語」に乗った時点でもう満足してしまったんですが、敷島はしっかり脱出して生還し、明子と典子との再会を果たすというハッピーエンドでしたね。
遠くの未来として仰ぎ見ていたものが、手に届く希望として眼前に現れた。過去と未来のあいだの空中戦から、「いま・ここ」の現実に着地できたわけですから、手に汗握っていた観客は安堵したでしょうね。
坂元 大戸島の生き残りの元整備兵・橘宗作が爆撃ボタンの説明後にひそひそと教えていたのが、脱出装置だったのですよね。脱出装置の有無こそが「命を粗末にした」「死ぬための戦い」との大きな違いなのだとしっかり観客に見せました。
私は典子が帰ってこないバージョンがあってもいいかもしれないと思いました。血のつながっていない典子と明子という母子が戦後をなんとか生き抜いて、これからは血のつながっていない父子で、なんとか生き抜いていく未来。
井上 敷島が明子のところに帰ってきて「お母ちゃんの分まで、2人で頑張って生きていこうな」と。確かに、それもありかもしれません。復活してまた日本に襲来するゴジラに対して、成長した明子が「母の仇を討つ」ために立ち上がるとか(笑)。
坂元 ハッピーエンド大団円は、どうも「全米が泣いた」っぽくもあり……だからこそアメリカでの評価も高いのかもしれませんが。でも、空襲や原爆投下で生死がわからなくなった人、遠い戦地で消息不明になった兵士や軍属、あるいは現代でも自然災害で行方不明になった人がひょっこりと帰ってくることは現実に無くはないですし、とてつもない驚きと喜びをもたらすはずです。
そう考えると、典子もまた生還して未来の物語へと乗り込んでいくラストは、あるべきカタルシスなのかもしれません。ただし、ゴジラ映画ならではの不穏な要素も示されていましたけれども。
持てる能力を発揮しチームで戦う民間人
坂元 私は“チームで戦う”というところにも注目しました。太平洋戦争では、単に集められた人の塊で、曖昧な大義のもとで人心が離れがちになるのを命令で辛うじて縛り付けていた。要するに、チームではなかったと思うのです。海神作戦は共通の目的をきちんと持ち、しっかり手を握りあって“チームになる”というプロセスが描かれていて、その強さと前の戦争との違いを強調していたような感じがします。
井上 国は大事なことを隠すし、命令ばかりするくせに無責任で、現場に丸投げするだけの存在としてネガティブに描かれています。海神作戦は国が関与しませんから、誰も嘘をつかないし、命令もしない。それでいて民間の力を結集できている。
坂元 強制されて戦うのではなくて、自発的にやればこんなに能力を発揮できるのだと。さらにチームになれば、そのポテンシャルはさらに高まるのだと彼らは実感するわけですね。
井上 参加者に矜持を持たせ、士気を高める見事な仕掛けです。前回も話しましたが、雪風の元艦長・堀田が「我々は民間の力だけであの怪物に立ち向かわなければなりません」と言っていますね。しかも、この作戦に参加するのは強制ではない。「これは命令ではありません」と言われて、自発的に志願していくところは“刺さるポイント”です。
坂元 特攻文学的“刺さるポイント”としては、「未来」を自分の言葉できるのは、そのために我が身を危険にさらす覚悟を決めたときであり、しかも他からの強制ではなく「自発的に行動」したとき、というところですかね。
井上 ちょっと先走ったことを言えば、「未来」と「死」と「父」という三つの言葉がカチッとはまることの意味をよく考える必要がある。『特攻文学論』を書いたときには、明確には考えていませんでしたが、ここには特攻文学の神髄が含まれている予感がします。回を改めて議論しましょう。山崎貴という脚本家の凄みに触れることになると思います。
《永遠の0》にはなかった「未来」というキーワード
坂元 山崎貴監督は私たちより年上で1964年生まれ、井上さんと同じ長野県松本市の出身ですね。
井上 松本県ケ丘高校卒業後、阿佐ヶ谷美術専門学校に学び、映画の世界に入られたのですね。最新のテクノロジーを駆使した映像表現が高く評価されていますが、じつは特攻文学のエッセンスにも通じておられる。
山崎監督は両親や祖父母など身近に戦争体験者がいる世代ですが、体験者からの聞き取りだけでは特攻文学は創作できません。おそらく《SPACE BATTLESHIP ヤマト》と《永遠の0》という二つの特攻映画の監督をされた経験も大きいのではないかと思います。どちらも原作は創作特攻文学の名作です。
坂元 小説『永遠の0』は、放送作家だった百田尚樹氏が書いた特攻文学ですが、テレビ業界で活躍してきた人だけあって、過去の出来事が、現代の若い読者に“刺さる”ような仕掛けを巧みに入れ込みましたね。山崎監督はそれを見事に映画化して、より幅広い層を感動させることに成功したのではないですか。
井上 ただ、《永遠の0》の中には、未来という言葉は出てこなかったと思います。主人公の宮部久蔵が最後に身代わりのような形で出撃をするのですけれど、彼は多くを語らない。未来とも何とも言っていないのです。見ている方がいろいろと考えるしかないのですが、宮部の代わりに生き残った大石賢一郎も、未来とは言っていません。ただ、宮部が残した妻子を守る、という非常に個別具体的な使命でつながっている。
坂元 《永遠の0》は、寡黙さ、説明のなさ、男たちの語らなさが、昭和らしいリアリティを持っています。一方で《ゴジラ-1.0》は「そんなに説明するの?」と思うほどにキーワードを盛り込んでいるのが印象的です。それが令和スタイルなのか、あるいは監督の世界観を観客にしっかり理解してもらおうという意図なのか。
井上 特攻というのは誤解されやすく危うい題材でもあるので、きちんと言葉でもって物語をコントロールしていると感じます。これまでの特攻映画制作でつかんだ特攻文学のエッセンスを自家薬籠中のものにしたうえで、オリジナルな作品に昇華させたといえるのではないでしょうか。
何回も言いますけれども、彼は未来という言葉を非常に自覚的に使っていると思います。
次回は“刺さるポイント”のひとつである「父になる」にスポットライトを当てた「⑤脱走兵・敷島、父になるってよ 生物的な父でなくても『おまえのお父ちゃんだ』」をお届けします。
著者プロフィール
井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。
坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。