特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第10回|井上義和・坂元希美
(構成:坂元希美)
⑩まだまだある特攻文学映画 《Fukushima 50》
★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》《Fukushima 50》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ作品鑑賞後にまた読みにいらしてください。
特攻隊が出てこない「特攻文学」作品もあるはず
坂元 本連載の第4回で《ゴジラ-1.0》における特攻文学的な要素は、特に「未来」「死」「父」「自発的な行動」であるとしました。そうすると、実際に太平洋戦争や特攻隊を扱わなくても「特攻文学」は成立しうるはずですよね。
井上 そのはずです。職業や役割、立場や状況によって、この4要素が揃って命のタスキリレーの中継者になることは実際にありますし、フィクションならばなおのこと。さらに限られた時間内で幅広い客層を感動させる必要がある映画や演劇は、小説よりも特攻文学的な要素と相性がいいかもしれません。
坂元 新型コロナウイルス感染症によるパンデミック初期の医療従事者を取り巻く状況などは、特攻文学の題材として取り上げられてもおかしくないと思いますね。医師は応召義務があるとはいえ、ある程度の「自発的な行動」を迫られたのではないかと想像してしまいます。災害時には、職務に忠実であるがゆえに命を賭す覚悟を迫られることがありますし、他方で英雄になる/祭り上げられる場合もあります。
2020年3月6日に公開された映画《Fukushima 50》(フクシマ フィフティ)は、門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』(角川文庫、2016年)が原作で、東日本大震災で大きな被害を受けた原子力発電所に留まって事故対応した現場の作業員たちを主人公に、東電本社、政府との生々しいやり取りも含めて、虚実交えて描いたドラマです。
井上 映画の公開は、まさに新型コロナウイルスの流行が本格化して、安倍晋三首相が全国の小中学校・高校に臨時休校を要請したすぐあとでした。「不要不急の外出」の自粛が叫ばれるなか、私が映画館に出かけたのは、Twitter(現・X)上の糸井重里氏の投稿(と炎上)を見たからです。
当時、私は『未来の戦死に向き合うためのノート』(2019年)を上梓した後、その続編となる『特攻文学論』(2021年)に取り掛かっていて、百田尚樹『永遠の0』講談社文庫版に寄せた児玉清氏の解説にある、「僕は号泣するのを懸命に歯を喰いしばってこらえた。が、ダメだった」を思い出したのです。
映画を見た後、ノンフィクションである原作からどのように物語に加工していったのだろうかと、映画脚本をもとにした周木律著『小説 Fukushima 50』(角川文庫、2020年)を入手して台詞などを確認・照合したりしたのですが、特攻文学としての位置づけは難しいなと思って、『特攻文学論』には入れられなかったんです。
今なら《Fukushima 50》は特攻文学的な要素が揃った作品だったとわかりますが、当時の私はそれを分析的に論ずるだけの言葉を持っていませんでした。
プロフェッショナルの責任と、「死」「未来」「自発的な行動」
坂元 原子力発電所という重大な危険をはらむ施設と、そこに勤める人々は危機的状況に置かれたときにどうなるのか。私は、ちょっともうヤバイほどに特攻文学的な映画だと感じました。
最初、吉田昌郎福島第一原発所長(渡辺謙)は「しっかりひとつひとつ確認して対応するんだ。慌てんな」と、声をかけます。しかし、津波は「想定外」の高さで襲ってきた。屋外にいた作業員がその津波を見たときの反応は、まさに突如襲来したゴジラを見たような顔です。
井上 観客も東日本大震災のときに繰り返し流された津波映像の記憶と重ねて、ゴジラ以上の恐怖を感じたと思います。
その一方で、福島第一原発の現場指揮官たちは、津波を見ることができない。吉田所長がいる免震棟の緊急時対策室(緊対)も、伊崎利夫福島第一原発 1・2号機当直長(佐藤浩市)がいる原子炉に隣接する中央制御室(中操)も、窓がないので外の様子は見えないのです。その間、必死に見ようとするのは、原子炉の圧力です。通常であれば計器類の数字によって示される圧力もまた、電源喪失によって見えなくなる。
圧力上昇がもたらす帰結への想像力は、ゴジラや津波による物理的な破壊以上に、広大な国土への壊滅的な影響に及びます。これは被爆国ならではの想像力といってもいいでしょう。
坂元 観客にも染み込んでいる想像力ですね。「みんな(所員)被爆して、一巻の終わりだ」と、伊崎当直長が呟くのですが、この時点で彼らは死に直面しているわけです。その中でどうするのか、何をするのか。「一巻の終わり」の先が想像できるからこそ、現場のプロフェッショナルとしては「責任」をもっとも重大に感じるだろうと思います。
台詞としては、東都電力本社(本店)の緊急時災害対策本部で対応していた小野寺秀樹常務(篠井英介)が3号機の対応を迫るときの「こっちで責任は取るから」と、福島第一原発 5・6号機当直長・前田拓実(吉岡秀隆)が3号機爆発の後に「2号の責任、最後まで取んないと」の2回しか出てきませんが。
井上 あのギリギリの状況下での「責任をとる」の意味は、東京の本店と、福島の現場とでは全然違うものですよね。
坂元 当時の映画評を見ると、「戦時中を思わせる」「実在の人物がいるのに、事実と違う物語化」など批判も多かったようです。たしかに「おまえ、それでもプラント・エンジニアか!」というセリフなど非常に軍国主義的に聞こえますが(「それでも帝国軍人か!」)、プロフェッショナルとしてはどうか。暴走する原子炉を制御するのは自分たちにしかできないことで、責任・責務がある。しかも大勢の命がかかっている状況で、現場からの離脱を考える者がいたら、それはプロとして許されないことだぞと、口をついてしまうのではないでしょうか。
そして、「決死隊」という言葉も印象的に使われます。
井上 糸井重里氏の「いのちを捧げる覚悟」に通じるものがありますね。こうした物言いが炎上するのは、私たちが生きる日常の世界=市民社会の論理を逸脱しているからです。市民社会は、しばしばこうした命がけの覚悟で支えられているにもかかわらず、自らの論理でそれを正当化することができない。
唯一の例外が、自衛隊員の服務の宣誓(「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います」)ですが、そうした存在に守られていることを直視したくない国民は少なくないでしょう。
「事実を素材に創作した物語」なのか
坂元 原発に関する技術や被災状況を理解していない官邸がいちいち口を挟んでくる、本店は官邸への忖度と妥協から現場に無理を強いてくる。つまり行政や組織上層部が足を引っ張ってくる中で現場がなんとかしなくてはいけない、自主的に考えて行動するしかないという状況は、《シン・ゴジラ》や《ゴジラ-1.0》にも通じるところがあります。
井上 しかも、あのゴジラ2作品と違って《Fukushima 50》には「内閣総辞職ビーム」はないですから、刻々と苛烈さを増す現場の危機的な状況に対処しつつ、官邸と本店からの場当たり的な指示に応対する、という二正面作戦をずっと強いられるのが、観ていて本当にしんどかったです。
坂元 現場の職員に「なに言ってんだ、こいつ」と言わせてしまう総理役の佐野史郎の演技は見事でした。実際に当時の総理だった菅直人氏とは違うキャラクターですけれども、事故翌日に現場を視察したとの報道に「あれ、いろんな意味で大丈夫なのか?」と私は感じていましたから、フィクションだけれども「そうだったかもしれない」と思わされてしまいそうになります。『特攻文学論』でいうところの「事実を素材に創作した物語」ということでしょうか。
井上 原作者の門田隆将氏は、もともと物語志向の強いノンフィクション作家ですからね。個別のエピソードがすべて事実に基づいているとしても、どのような観点からそれらを取捨選択して「一貫した物語」へと組み立てているのか、には注意してもらいたいところです。
そのうえで、原発政策の是非や政府や東電の責任問題と、現場を死守した人びとへのリスペクトとは、切り分けて考える必要があります。《Fukushima 50》は、前者に対する追及はするべきだが、その陰で後者が忘れられてはならない、ということを意図した作品だと思います。両者を切り分けることの重要性は、戦争についても当てはまります。
ベテランが危険に身をさらすという「祖国立ち上げのやり直し」
坂元 現場では、指揮官として苦渋の決断を迫られる場面が何回も出てきます。たとえば、手動でベント(原子炉の格納容器の圧力を外に逃がす操作)を行う際には、誰がそれをやるのかを決めなければならない。
伊崎当直長が「建屋内は真っ暗で状況がわからない。線量もかなり高い。だから若手を行かせるわけには行かない。それでも、自分が行けるという者は手を挙げてくれ」と呼びかけますが、誰もなかなか手を挙げようとしない。
沈黙が広がる中、伊崎自身が手を挙げて「誰か一緒に言ってくれるヤツはいないか」と言うと、次々に手が挙がりました。まず自分を危険にさらす指揮官に、部下たちは信頼してついてくるのです。そして、ほぼ全員が手を挙げたところで「だけど若手はダメだ。ベテランから選ばせてくれ」となる。
井上《Fukushima 50》が特攻文学のなかでもユニークなのは、「危険に身をさらすのが若手ではなくベテラン」という点にあるのですよ。現場を死守する職員たちのなかでも、若手の命を守る判断は3回出てきます。最初は坂元さんがおっしゃった手動ベントの人選のとき。そして、危険度が増す中央制御室からより安全な免震棟に退避させるとき。最後に、最少人数だけ残して2エフ(福島第二原発)へ退避させるときです。
先の大戦ではまったく逆で、「危険に身をさらすのは若手から」だったので戦争指導者への不信感は高まりました。多くの若い命を犠牲にする一方で、司令部の上官たちは戦後まで生きのびたからです。その意味でも、《Fukushima 50》は《ゴジラ-1.0》と同じく、祖国立ち上げの「やり直し」の物語ともいえます。
坂元「子孫にとって勇敢な父祖」であろうとするのですね。強く印象に残ったのは、吉田所長が「必要な人員を残して全員退避」を宣言したときのシーンです。
伊崎の若い部下たちが自分たちも残ると食い下がるのに対し、総務の浅野真理(安田成美)が「あなたたちには第2、第3の復興があるのよ」と声をかけます。伊崎も「俺が死んだらな、本田、おまえが来んだよ。本田が死んだら山岸が、小宮が、宮本が来んだ。いいな?」と言い含める。死に直面するのはベテランでいい、若い者は未来を築けと。彼らを退避させるための方便ではなく、命のタスキをつなぐための遺言だった。
井上 おっしゃる通りです。ベテランが危険に身をさらして、若手を生かすのは、彼らに未来を託すためです。
そして、ベテランから命のタスキを受け取った若手は、自分がベテランになったときに、やはり有事には身体を張って、次の世代にタスキをつないでくれるでしょう。
坂元 「父になる」要素もしっかり入っています。伊崎と娘の関係は、ちょうど《アルマゲドン》のハリーとグレースのパターンですよね。たぶん、全日本のお父さんが泣くと思います……。
井上 伊崎は、娘の恋人が「16歳も上のバツイチ子持ち」であることが気に食わず、結婚に反対していたのですよね。それが、事故対応の手を尽くした最終段階で「お前の人生だ、お前の好きなように生きろ。お父さんは、応援している」と娘にメールを送る。まさに、伊崎が「父になる」のは「死を覚悟したとき=未来が見えたとき」でした。
伊崎だけでなく、現場に残った人たちが家族に送ったメールは、「今までありがとう」「しっかり勉強して立派な大人になれ」など、特攻隊の遺書と重なって涙を誘います。
坂元 伊崎とその父・敬造とのつながりもぐっと胸に迫ります。出稼ぎ労働者だった敬造は、福島第一原発ができることで、東電の関連会社に定職を得ることができた。フクイチから半径10キロに避難指示が出た際、敬造は「利夫がなんとかしてくれる」と言います。自分は関連会社だったけれど、利夫は本体に就職してプラント・エンジニアになり、今や立派に出世した息子が死に直面していることを父はよくわかっていた。
余談ですけれども、伊崎が1970年頃でしょうか、子どもの頃を回想するシーンで建設中の原発を見ながら親子が語り合う背後に「磐城飛行場跡」という石碑が見えます。福島第一原発の用地はもともと帝国陸軍の磐城飛行場で、1945年には磐城飛行場特別攻撃教育隊として、学徒動員された特攻隊員が訓練をしていたそうです。偶然、特攻隊との繋がりがあるわけですが、地元でも用地の過去を知る人は少ないらしく、映画では土地の歴史をひっそりと見せていたことになります。
(特攻訓練場だった福島第1原発 「国策」の果ての事故現場 「忘れられた過去」の痕跡(共同)一般社団法人環境金融研究機構ウェブサイトより)
井上 伊崎にとって、福島第一原発は、人生そのものであり、故郷と不可分のものなのですよね。
責任問題と現場を死守した人びとへのリスペクトを切り分ける
坂元 話を戻すと、遠隔ベントが成功した結果、1号機に立ち入ることができなくなり、周辺には放射能をまき散らしてしまった。そんな中で若い所員の西川が「俺たちがここにいる意味ってあるんすかね」と言い出す。現場を放棄するのか――騒然とする場で伊崎が滔々と話す台詞が、この映画の核心であり、まさに特攻文学かなと。
ふるさと=祖国が更地になりつつある状況での「祖国が立ち上がる」瞬間だったと思います。正統な「祖国の担い手」でもありますよね。《宇宙戦艦ヤマト》の主題歌でいうところの「手を振る人」は自分たちの家族も含めた避難を余儀なくされた地域住民で、中操に残る所員は「期待の人が俺たち」ではないかと思ったのですが。
井上 はい。「俺たち」にとって現場を守ることは、ふるさとを守ることなのですよね。そう信じるからこそ、命がけになれる。
ただ、「手を振る人」と「期待の人が俺たち」の関係はそれほど自明ではない。本当に、地域住民たちが「手を振る人」で、その「期待の人が俺たち」たりえているのか、事故対応の最中は確信が持てていません。それよりも、避難を余儀なくさせたことへの申し訳なさで一杯です。石もて追われるかもしれないという悲壮な覚悟もあった。
だから伊崎は、やっと家族の待つ避難所に来られたとき、真っ先に、地域住民に対して「住めない町にしてしまって、申し訳ありません」「本当に、すみませんでした」と頭を下げたのです。
それに対して、住民たちは「利夫ちゃん、あんた頑張ったよ」「故郷を守ってくれた」「ありがとう」と温かく受け入れてくれた。ここでも、事故の責任や対応の是非と、現場を死守した人へのリスペクトとの切り分けは、徹底されています。
坂元 ラストシーンは吉田所長の葬儀から1年後である2014年、帰宅困難地域で満開になった桜並木の下で、吉田が託した手紙に伊崎が応えるモノローグです。
背景に流れる音楽がアイルランド民謡の〈Danny Boy〉という演出が、またバチッとはまって。花々が散る頃にダニーを待つ私は死んだけれども、無事に帰って墓に参ってくれたなら、心静かに眠ることができる……「タスキは受け取りました」と報告するシーンが浮かぶのです。
井上 命のタスキは、吉田から伊崎が受け取り、ベテランから若手が受け取りました。次の世代にしっかりつなごうという使命感とともに。そして、映画を通して、彼らから命のタスキを受け取った(と感じた)観客も少なくないはずです。糸井重里氏もその一人だと思います。
坂元「未来」と「死」と「父」、「自発的な行動」と特攻文学の4要素が見事にはまった作品ですし、ゴジラ・シリーズのようなSF作品だとしても違和感がないでしょう。
実際の事件や事故を素材にした有名な映画作品はたくさんあります。ぱっと思いつくのは、海外作品ですけれど、2001年のアメリカ同時多発テロを扱った《ワールド・トレード・センター》《ユナイテッド93》、2009年のUSエアウェイズ1549便不時着水事故を題材にした《ハドソン川の奇跡》、2010年の「コピアポ鉱山落盤事故」を題材にした《チリ33人 希望の軌跡》あたりでしょうか。
たんなるドキュメンタリーではなく、観客を動員できるエンタメ作品に仕上げていく際、どのように物語化されるのか。それを考えるときに、特攻文学的な要素に着目する分析は有効かもしれません。
井上 そうですね。特攻文学的な感動の構造は、時代や世代や国境を超えた普遍性をもっていると思いますから。
次回はハリウッド作品から《インデペンデンス・デイ》(1996)と《アルマゲドン》(1998)を取り上げます。四半世紀前とはいえ、いずれもハリウッド映画の超大作、なんとなく「全米が泣くやつだ!」と記憶している方もおられるでしょう。アメリカならではの「創作特攻文学の映画」とは? お楽しみに!
◎著者プロフィール
井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。
坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。