推し、祈る。✿第38回|実咲
寛弘7年(1010年)1月18日、伊周はついにこの世を去ることになりました。
ほかにも、紫式部の弟である藤原惟規が寛弘8年(1011年)に越後で亡くなる様子が作中で描かれていました。
父為時の越後守の任官に付き従って向かった越後で、ふたたび都の土を踏むことなく帰らぬ人となったのです。
この頃、行成には、また新たな一つの別れがありました。
叔父義懐の子で従兄弟にあたる少将伊成との別れです。
それは、第三皇子である敦良親王が産まれた五夜の儀の日の中宮御所で起こった、ある事件がきっかけでした。
なんとその日、伊成は道長と明子の間の息子である能信に暴行を受けたのです。
『小右記』によれば、伊成は能信から罵倒され、それに耐えきれずに笏で能信の肩を殴ったようです。
これに反抗して、蔵人藤原定輔が伊成を縁側から突き落とし、能信の家来を集めてきて伊成の髪を捕らえてうつ伏せにして踏みつけ、松明をもって殴って抑えつけたとのこと。
当時、被り物を取られるというのは人前で下着を露出されたような恥ずかしいことでした。
『権記』には詳しく書かれておらず伊成の心境は不明ですが、恐らく五夜の儀に集まっていたであろう大勢の前で恥をかかされたことを気に病んだのか、伊成は出家をしてしまいます。
身内が早世や若くして出家を選ぶことの多かった行成は、この伊成のことを何かと気にかけ世話をしていました。
一族の長のようになっていた行成にとって、この出家はなんとも口惜しいものだったのかもしれません。
この道長の息子能信は、彰子の弟ではありますが母親が違います。
天皇に入内している娘たちや、のちに宇治の平等院鳳凰堂を建立する頼通は、嫡妻である倫子の子供たちです。
もう一人の妻である明子が生んだ子供たちは、この先々でも一段落ちる出世や結婚相手になるのですが、そういった鬱屈が暴行事件の背後にあったのかもしれません。
ほかにも、殿上人の兄弟関係というのは、権力がからむだけに何かとややこしい種になるものです。
敦康・敦成両親王もそんな火種をはらんだ兄弟関係でした。
伊周という敦康親王の後見となる人物が一人世を去り、あとは叔父の中納言隆家のみ。
一条天皇、中宮彰子の気持ちとしては第一皇子である敦康親王が次の皇太子になることを望んでいます。
しかし、どう考えても道長の胸中としては自分の孫である敦成親王であるでしょう。
40代も半ばの道長は、自分の目の黒いうちになんとしても敦成親王を即位させたいところ。
ちなみに、当時の40歳は現在でいうところの還暦のようなお祝いをするタイミングでした。
自分の寿命が先か、敦成親王の即位が先かというあやうい年頃でもありました。
寛弘7年(1011年)3月11日、一条天皇は行成を石山寺へ遣わします。
これは一条天皇の代理といったところで、“腹心之臣”である行成に「御書」を渡して祈願を頼んだのです。
行成は石山寺に着くと、如意輪観音像の前で祈りました。
すると、翌12日に行成は、讃岐円座(菅で編まれた座布団のようなもの)が数百枚重なった上に臥すという夢を見ます。(また変な夢見てる……)
20日に行成は、一条天皇にこの祈願と夢の話を報告します。
すると一条天皇も「行成と同じように、私も同じ日に石山寺から僧が如意輪観音経を持ってくる夢を見た」と言うのです。
行成は「感悦極まり無し(非常に感動して嬉しく思う)」と、中宮彰子のところへ向かいます。
一条天皇と行成とであわせて、石山寺からよい報せのお告げのような夢を見たことを報告しに行ったのでしょうか。
しかし、そこには道長がいたのです。
もちろん行成は、敦成親王を皇太子にしたい道長の本心を知っているでしょうから、口をつぐんだことでしょう。
この間にも、敦成親王・敦良親王の祝いの儀は進み成長もしていきます。
敦康親王も元服を迎え、いよいよ大人の仲間入り。
父一条天皇と、義母である中宮彰子は敦康親王を次の皇太子にと望んでいます。
また、皇太子居貞親王にも、すでに成人している敦明親王という皇子がいるのです。
どんな順番で、誰が次に天皇になるのか、それは朝廷内の権力のバランスに大きく左右されるに違いありません。
敦康親王に深い愛情を見せる一条天皇は、果たしてどんな決断をするのか。
その行方に、行成も今後、とても大きく関わることになるのです。