特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第5回|井上義和・坂元希美
(構成:坂元希美)
【祝】日本アカデミー賞8冠、そして米アカデミー賞視覚効果賞の受賞おめでとうございます!!
⑤脱走兵・敷島、父になるってよ 生物的な父でなくても「おまえのお父ちゃんだ」
★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ映画鑑賞後にまた読みにいらしてください。
敷島は特攻隊の生き残りらしくない!?
坂元 主人公の敷島というキャラクターについて、アメリカのゴジラファンは「(軍人なのに)弱虫で、泣きすぎ」と言っていました。まあ、演じた神木隆之介さんが童顔なので、そういう印象になったのかなあと思いましたけれど。
井上 敷島は海軍少尉の特攻隊員ですけれども、学徒出身の予備士官でしょうから軍人らしくないのですよね。おそらく1943年の徴兵猶予停止により大学生で徴兵され(学徒出陣)、海軍第14期飛行科予備学生として戦闘機搭乗員の訓練を受けたら特攻作戦が始まり、実戦経験を積まないまま特攻隊に編入されてしまった、というパターンでしょう。
生粋の職業軍人であれば仲間を見捨てて逃げるという卑怯な振る舞いはできなかったはずですが、敷島の場合は高度な操縦技術を習得したけれども、「死にたくない」「自分だけは助かりたい」という人間らしい心を強く持ち続けていました。だから、現代のわれわれにとっては身近で感情移入しやすいキャラクターになっています。
坂元 身体と精神が軍人に要求されるものとズレているわけですね。特攻隊として出撃したときから機体の故障を装って大戸島に降りることを考えていました。帝国軍人としては卑怯かもしれませんが、一人の人間としては生きるためのギリギリの知恵を働かせたということでしょう。
けれども、大戸島の整備兵たちが目の前でゴジラに襲撃されるのを機銃の引き金に指をかけながらただ固まっていたことが、ずっと負い目として彼を苦しめることになります。
井上 敷島は、そもそも特攻作戦に疑問を抱いていたでしょうから、計画的に戦線離脱したこと自体には後悔はなかったと思います。生きるためにはやむをえなかったと。しかし、おっしゃるように、最初のゴジラ襲撃の場面で、自分は撃てずに仲間たちを見殺しにしてしまった経験が決定的でした。
もし機銃を撃っていたら敷島は確実にゴジラにやられて死んでいたでしょう。でもそのあいだに仲間たちは逃げることができたかもしれない。つまり、仲間たちは自分の身代わりとして死んだのであり、自分は仲間の死と引き換えに生き残った、ということになります。敷島の場合、これが生き残りの負い目(survivor’s guilt)です。
坂元 それは特攻隊の生き残りの負い目とは同じではないですよね。敷島には特攻隊員としてのアイデンティティーが希薄だったわけですから。
井上 おっしゃる通りです。特攻隊の生き残りの負い目のベースにあるのは、
「貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」(「同期の桜」5番)
つまり一緒に厳しい訓練を受けた仲間同士、死んだら靖国で再会する約束を交わし合った関係性です。だから自分だけが生き残ったことに対して罪悪感を覚えるわけです。こうしたセオリーになじんでいる人がみると、敷島に「同期の桜」的な仲間意識が希薄であることに違和感を抱くかもしれません。
敷島が現代のわれわれの分身であるとすれば、そこは仕方がないけれど、それだと戦後の敷島を苦しめる負い目が生まれない。だから物語構成上、敷島の目の前でゴジラに仲間を襲わせる必要があったのでしょう。
敷島を苦しめる負い目はどこから?
坂元 なるほど。「計画的な戦線離脱」というところをもう少し丁寧に見ていきたいのですが、生き残るために「脱走」して大戸島に辿り着いたのに、そこで職域の違う、階級も下の整備兵たちにあれこれ言われて、だんだん怖くなってきた、という動揺もあったでしょうね。生き神様として尊崇された特攻隊員から、一転して敵前逃亡した卑怯な脱走兵ではないかという疑惑を突き付けられて、罪悪感と自己正当化の間で揺れ動いているうちに混乱してゴジラを撃ち損なったのかな……。
まあ、そこまで深く考えなくても、全部まとめてsurvivor’s guiltでもいいような気もします。まったく自分と関わりのないはずだった人たちを見殺しにしてしまったことは、大きな負い目になるでしょうから。
井上 敷島ほど自覚的ではなくても、特攻隊員には、出撃後もギリギリまで生と死の間で葛藤し続けた結果「戦線離脱」に至ったケースや、せっかく死ぬ覚悟ができたのに本当に機体の故障で出撃に至らなかったケースも少なくないです。それでも、一緒に死ぬはずだった「同期の桜」に対する負い目が残ります。ところが、敷島には当初それは希薄でした。
あと、大戸島でゴジラに襲われた整備兵たちに対しても仲間意識は希薄です。彼らは橘の仲間なのであり、敷島の仲間ではない。橘は目の前で仲間を失ったショックを、敷島への怒りに転化している。敷島も、整備兵たちの死にそこまで罪悪感を抱く必要はないのに、「計画的な戦線離脱」の秘密と相まって、橘の理不尽な怒りを受け入れてしまう。
坂元 それで敷島は特攻の生き残りではなく、裏切り者の脱走兵になってしまった。罪悪感と秘密を抱えたまま生きる苦しさを背負った主人公だとも考えることはできますけれど、本当に生き残ってしまった特攻隊の仲間と戦後にどこかで再会してしまうというドラマもあり得ます。
井上 かつての特攻モノでは生き残りの戦後を描く場合、そうした「死んだ仲間」への負い目が物語の核心部分になってきたのですよ。しかし、「同期の桜」的な戦中派意識は、戦後80年になろうとしている現代においては、もう自明の前提にはできないということでしょう。だから《ゴジラ-1.0》では「同期の桜」とは別のところに、生き残りの負い目の根拠となる出来事を用意する必要があった。
とにかく敷島は、大戸島事件がトラウマとなって、自分だけ戦争が終わっていないという感覚でいる。目の前でゴジラに食い殺されてしまった整備兵たちのことを引きずるあまり、戦後2年が経過しても、典子と明子との生活がリアルに感じられないのです。
坂元 そうした解離状態や悪夢などは、兵士のPTSDとして典型的な描かれ方をしていますね。
井上 それが、次第に典子と明子の生活の方が現実で、こちらの世界で生き続けたいと思うようになる。そして最後にはお父ちゃんになるという、未来の物語に乗っていく。ゴジラとの戦いは、敷島にとっては治癒のプロセスにもなっています。
メインの登場人物が男性なのは当たり前なのに、モヤる坂元
坂元 当たり前なんですけれど、登場人物は男性がほとんどです。もちろん、歴史的に正しいことなので構わないのですけれど、何て言うのかな……そりゃ、男性は見終わって「良かったねえ」となるだろうけどさ、と思っていたのです。ところが、一緒に観た友人も感動していたので、女性にはどこが感動ポイントになるのだろうと。
井上 うーん、そこは考えていなかったですね……。特攻文学における感動は、基本的に、性別を超えた普遍性をもっていると思います。極端な話、性別をもたないロボットでも特攻文学は成り立つはずだと(笑)。
だとすれば、問うべきは「男だらけの物語なのに女も感動できるのはなぜか」ですね。
坂元 そうかもしれません。観客の女性たちの中には、能力はあるのに生かされず、邪魔をされ、命令ばっかりして足を引っ張る無責任な「国」的なものに鬱屈している人も少なくないでしょうから、ジェンダーに関わらず「そういう物語」として感情移入もできます。
あと、以前から未来を託すことや繋ぐことがすなわち子孫を残すことで、未来のために女性は出産育児を……となりかねないのではと漠然と感じていました。さまざまな事情で生物的に未来を繋ぐことができない人は、世の中にはたくさんいるのですけれど。《ゴジラ-1.0》では、あえて血の繋がっていない明子や水島が「未来を託される者」になっていて、そこも現在の観客に受け入れられやすい設定だったように思います。
井上 あー、とても重要な指摘だと思います。たしかに、ここでの未来の物語からは、子孫繁栄的な、生物的な血のつながりの要素を意図的に外していますね。おそらく明子はそのために、あえて拾われ子という設定にしてある。
坂元 映画《この世界の片隅に》(2016年)でも主人公のすず夫婦が、原爆で母を亡くした子どもを連れて帰って自分たちの子どもにしますし、NHK朝の連続テレビ小説《ブギウギ》の主人公・スズ子も生みの父が戦死して、血のつながりのない両親に育てられていますね。歴史的な事実としてそうした家族が存在したというだけでなく、この設定によって家族とは何かを問うことに、現代的な意味があるのでしょう。
井上 前回出てきた「父になる」問題ですね。敷島が「俺はお前のお父ちゃんだ」と宣言するのは、明子の未来を考えたときでした。生物としてではなく、メンバーの未来にコミットする覚悟を決めたときに「父になる」。
そういう意味では、典子はもっと早い段階で「母になる」覚悟を決めている。
坂元 なるほど、そうか! 典子は、空襲で両親を失った幼い明子をたまたま託され、困ったけれど捨て置くことができなかったし、敷島も、たまたま典子から明子を託され、困ったけれど捨て置くことができなかった。お向かいの太田のおばさんも文句を言いながらこの疑似家族を放っておくことができない。
こうして自発的に立ち上がったコミュニティーのなかで戦災孤児が育っていく。あの海神作戦で出てきた「未来」や「志願」といったキーワードが、ここにも当てはまりますね。「コミュニティー」の問題は回を改めて論じましょう。
特攻文学の要素「父」は《アルマゲドン》でも
井上 『特攻文学論』では、ハリウッド映画《アルマゲドン》(1998年、製作ジェリー・ブラッカイマー、監督マイケル・ベイ)も特攻文学的な「感動の構造」があるということで紹介しました。
物語の終盤、主人公のハリーが、部下であり、娘・グレースの恋人でもあるAJに「娘をよろしく頼む。それがおまえの仕事だ。グレースにふさわしい夫になるんだぞ」と告げて、娘の未来を託して死を前提とした任務遂行と向かっていきます。地球にいるグレースとの最後の交信で、それまでのすれ違いやわだかまりが消え、やっと父と娘の心が通じ合ったときにハリーは「父になる」。
こうして「未来」と「死」と「父」という3要素がかみ合ったときに、特攻文学的なカタルシスがもたらされます。
坂元 私はあの最後の交信のシーンで「父と娘に戻った」と思いましたよ。娘が小さい頃に「お父さん大好き」と言っていた、あの関係に戻ったのだと。
井上 確かにそうでした。ただ、特攻文学的な意味で「父になる」とは、かつてあった親密さを取り戻すことではなくて、子の「未来」と引き換えに自らの「死」を引き受けたときなのですよね。悲しいけれど……。
「父になる」は《ゴジラ-1.0》の隠れテーマ
坂元 そう考えると、《ゴジラ-1.0》は《アルマゲドン》よりさらにうわてで、血のつながりや過去の思い出といった確かなものが何も無いのに「父になる」のですから、そこに込められたメッセージはかなり強いですよ。
井上 敷島が明子に「お前のお父ちゃんだ」と言った瞬間は死ぬつもりでいるんですよね。なんだろう、語弊を恐れずにいえば、これぞ「お父さんの理想の死に方」みたいな気がします。
坂元 えっ、お父さんとはそういう感じなんですか?
井上 子どもの未来のために死ねれば本望、というのが父親の覚悟とでも言いましょうか。その意味では、「父になる」人は、肉体的には生きていても自分個人の人生はいったん終了したような感覚になるのではないかなと。
坂元 なるほど。その意味では、「母になる」もそうだと思いますけれども、妊娠・出産により肉体的な変化が明らかな母に比べて、父はいつどういうタイミングで「父になる」のか、わかりにくいですよね。子どもが誕生した瞬間ではないだろうし、自分個人の人生が終了し、お父さん人生としてリスタートするイベントって何でしょう。
井上 「父になる」儀礼なんて、何もないのですよ。だから「実感が湧かない」とか「自覚が足りない」とかフワフワしたままの人も多い。
坂元 それで「父になる」ためには、生活費を稼いだり家事育児をやったり、という具体的な行動で示すか、妻子の前で「良い父親」を演じたりして己を鼓舞するしかないということになるのですかねえ。
井上 《ゴジラ-1.0》に話を戻すと、一家の大黒柱として生計を支えるのであれば敷島も最初からやっていたのですよ。世間的な意味での父役割は立派に果たしている。
坂元 わざわざオートバイで遠くまで通って、危険だけれど実入りのいい仕事をして。でも、それでは父になっていないと。
井上 ただ家族を食べさせているというだけでは、父になれない……と。自分で言いながら、これはなかなか厳しいなあ(笑)。
坂元 ひとつ間違ったら「誰のおかげで食えてると思ってんだ!」になっちゃいますよね。だから典子も、敷島に頼りすぎないように、なるべく早く働きに行かなきゃと焦る。現代的な感覚なのかな、当時からあるものなのかわからないですけれど。
井上 おそらく典子は経済的に自立するためだけではなくて、敷島が自分たちを食べさせる責任感だけで生きている感じがして、いたたまれないというのもあるでしょうね。
「父になる」というのは、意外に大きな隠れテーマかもしれないですね。
《アルマゲドン》余談
坂元 余談になるのですが、《アルマゲドン》を対談前に見直したのですけれど、主人公のハリーは、AJにグレースを託すところあたりで急に褒めちぎりますよね。「おまえが一番すごいやつだと思っていた」「技術もピカイチだ」とか。
井上 ハリーは、娘とAJはお互い愛し合っているから、自分が止めても2人はいずれ結婚するのだろうと分かっている。ただ、AJとは上司と部下の関係である以上、恋人の父という立場ではなかなか彼のことを認められなかったのでしょうね。あれには全米のお父さんが泣いたはずです。
坂元 もし《アルマゲドン》みたいに、部下とか元教え子がお子さんの恋人とか、結婚を考えている相手だとわかったら?
井上 普通に「駄目だ」と言います(笑)。相手のことを否定したいわけではなくて、自分が指導した相手が娘の恋人でもあるという現実を直視できないからでしょうね。
坂元 やっぱり(笑)。そういえば、映画の序盤で、2人がベッドの中にいるのをハリーが目撃して、ショットガン持って追いかけ回しますね。できちゃった婚のことを英語でショットガン・ウェディングと言うのですけれど、たいてい娘の父親がショットガンを持って男のところに乗り込んできて、ショットガン突きつけながら結婚を迫るからという意味なので、ラストを示唆するシーンだったのかも。
井上 なるほど! それはある意味では、「死」と引き換えに「父になる」覚悟が決まる、という儀礼なのかもしれませんね(笑)。
坂元 それにしても、ハリーの「死」と引き換えに未来を託された以上、グレースとAJは別れるわけにいきませんねえ。会社の経理を取り仕切る娘と一番腕利きの職人が結婚するのだから、CFOとCTOで会社も安泰でしょうし(笑)。
井上 会社も安泰で、娘もきちんと幸せになる。
坂元 ついでに地球も安泰です!
追記:《アルマゲドン》も第71回アカデミー賞(1998年)視覚効果賞にノミネートされていました。
敷島以外の登場人物も大事な存在を失った人たち。彼ら彼女らに未来は見えたのか――次回は「⑥焼け跡で出会った他人同士がコミュニティーをつくるには」をお届けします。
著者プロフィール
井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。
坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。