ゲイと家族 第5回|初めての告白|戸川悟
中学で野中君との大胆ともいえる性的な関係があった一方、当時の自分の中での恋愛対象はあくまで女子であり、小学5年から高校2年まで、同級生であった女子の酒井さんが一貫して好きだった。
私は高校入学まで成績は良好で、同様に学業に秀でていた酒井さんとともに、県内一の偏差値を誇る進学校に合格し、そこでも同じクラスだった。
酒井さんとの間に何らかの運命の糸を感じていたのだが、恋愛については大の奥手で、酒井さんとまともに会話すらできず、ただ遠くからその姿を眺めているだけだった。
高校の卒業アルバムには、私の個別写真に「静かなる貴公子」という、端的な人物紹介の言葉が添えられている。
くじ引きで選ばれた生徒同士が互いの紹介の言葉を書く慣わしだったのだが、「貴公子」かどうかは別にして、思いを内に秘めがちで、時に近寄りがたい私の雰囲気を表していたのだと思う。
私は物心ついた頃から、親に対して少しでも反抗的な態度をとると、父親から手痛い暴力を受けていた。
泣き喚く私を父の暴力から救おうと、母も泣きっ面になって「お願いだからやめて!」と私を父から引き離そうとしていた姿が蘇る。
父親は仕事のストレスを家庭に持ち込まざるを得ないほど気持ちに余裕がなかったのかもしれない。あるいは中途半端にスパルタ的な子どもへの関わりが正しいと思っていたのかもしれない。
ただ、この経験が、私が今一つ人と打ち解けにくく、集団に馴染みにくい性格傾向を持つに至った理由にはなったと思う。
同時に子ども時代を通し、父性に安心感をもって守られた体験に乏しい部分が、どちらかと言うと年上の男性に惹かれる理由になっているとも感じてしまう。
実際、当時の私は、酒井さんのような女性と将来は結婚して、暴言や暴力のない、慈愛に満ちた家庭を築きたいと夢見ていたのを思い出す。
そんな私だが、高校では映画研究部に所属していた。洋画に入れ込んで小遣いを映画代に費やし、週末ともなれば街の映画館に足を運ぶのが慣わしだった。拙い評論を書いては自己満足していたものだ。
1980年代、旋風を巻き起こしたE.T.やレイダースといったスピルバーグの映画に心を踊らせ、同じ映画を何度も見に行ったのを思い出す。
その映画研究部には、快活でおしゃべり好きな東出さん(仮名)という女子部員がいた。彼女との間に起きたことも、私が恋愛においてまともに人と向き合えないことを象徴する出来事だった。
東出さんとは趣味嗜好も似ていて、あだち充の漫画を貸し借りしては、お互いに感想を語り合ったり、彼女の提案で交換日記を書いたりしていた。
そんなある日の放課後、東出さんに呼び止められ、「戸川くんのこと好きやから、付き合ってほしんやけど」と、人生で初めて告白を受けたのだ。
東出さんに恋愛感情を寄せていた部分はなかったとは言えないが、私にとっては酒井さんのような憧れの対象ではなかった。それ以上に、気の合う性別を超えた仲間という感覚だった。
恋心の告白を受けた私は不測の事態にただただ戸惑い、脳内が真っ白になって、言葉も返せずにその場から走り去るのが精一杯だった。背後から「戸川く〜ん!」と東出さんの必死な声が追いかけてきたのを今もはっきりと覚えている。
その後、臆病者の私は東出さんを避け続け、向き合うこともできずに過ごさざるを得なかった。
ただ、高校3年になり、野球部のピッチャーだった萩原君(仮名)が同級生になると、私の気持ちが大きく変化した。萩原君はすらっと身長が高く、逞しい見かけに加え、寡黙で優しく、素朴な雰囲気を漂わせるところがあり、どこかイモっぽさがあった。
しかしそのイモっぽさが、私にとっては男らしさの魅力をさらに引き立たせてもいた。いつしか、それまで女子に抱いていた、ときめく恋心が初めて真面目に男子に向いた出来事だった。彼に抱きしめてもらいたいといった願望がたびたび胸に溢れたものだ。
しかしながら、萩原君に対しても遠くで憧れているだけで精一杯で、声かけをして雑談をするのも物おじしてしまう点では同じだった。
多くのゲイ男性が共通の経験をしていると思うが、私は大のスポーツ音痴で、プロ野球の話では一切男子の会話に入れなかった。萩原君のアイデンティティに通じる野球の話ができないということが、心の大きな負い目になっていたのも事実だ。
高校時代は、女子の酒井さんへの恋心や憧れが、野球部男子の萩原君に移行した時期と言えるが、中学の時のような、男子の友だちとの赤裸々な性交渉は皆無であった。
肝心の学業に関してはのんびり屋で、かなりの進学校で周りは秀才ばかり。理数系を中心に低迷して授業についていけなくなり、早い段階から、大学は理数系を受験せずに進学できる私学を狙うしかないと悟っていた。
一方、小学生の時はいやいや習っていたピアノだが、高校1年次、遊びに行った友だちの家で彼の演奏するショパンに鳥肌が立ち、高校2年から3年にかけては、受験を控えた身ではありながらピアノに熱中し、再び教室にも通わせてもらっていた。
発表会ではシューベルトの即興曲を披露し、友人のフルート演奏の伴走も勤めさせてもらった。充実した楽しい思い出である。
幸いながら、英語と国語、社会科系の科目は得意で、私はなんとか東京の六大学の1つに合格することができた。確執があった父ではあるが、学費の高い私立に行かせてもらえたことには感謝をせねばなるまい。
そうして、世の中がバブル経済に突入する時期を迎えようとしていた昭和60年(1985年)、大学進学とともに上京した私は、一時期、左翼活動の勧誘に堕ちてしまった時期を経て、大学生活の半ばから、それまで遠慮がちで奥手だった恋愛にも積極的に行動するようになっていくのだった。
(つづく)