星の味 ☆20 “青い青い世界”|徳井いつこ
「まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる。」
ラフカディオ・ハーンの「東洋の第一日目」と題された随想には、来日して、人力車で横浜の外国人居留地から町の通りに入ったときのことが描かれている。
青い、青い、水底のような青い世界……。
それがハーンの見た最初の日本だった。
童話作家の小川未明は、東京専門学校(現・早稲田大学)時代、出講していたハーンの講義に感銘を受け、卒業論文でラフカディオ・ハーンを論じている。ハーンが狭心症で54年の人生を閉じたのは、出会いからわずか一年のちの秋のことだった。
翌秋の晴れた日、未明は林の道を歩きながら、ふと、ハーン先生の墓に参ろうと思い立つ。
「面影」という随想に、そのときの心象が綴られている。
「左に小道を折るれば、例の墓所に出るので、誰れ見るともなく、静かな秋はいつとなく暮て行くのである。
自分はこの眩しいような空を眺めて、何となく悲しくなった。
ある日、講義の時間に“とんぼつり、今日はどこまで行ったやら”の句を、
“Catching dragon-flies! ..... I wonder where he has gone to-day!”
詩人の情のこもれる、やさしい声で而も物哀れに語られたことがあった。而してその時に自分は稚児が現世ならぬ薄青い夢の世の熱い夏の真昼頃、なんでも広い広い桑畑でただ独り、その裡をさまよいながら、蜻蛉を取っている姿のありありとして見られたのである。」
「薄青い夢の世」。
現世をそう表現したのは、ハーンの書いた青い青い世界が未明の胸中にあったせいだろうか。
小川未明が描く世界も、青い。
じっさい、題名に「青」のつく童話は相当数に上る。「赤い蝋燭と人魚」のように「赤」のつく物語でも、世界ぜんたいが濃く淡く青色に滲んでいるようだ。
「北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。
雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見ても限りない、ものすごい波が、うねうねと動いているのであります。」
未明の童話が青く彩られているのは、あるいは月の光のせいかもしれない。
子どもをなくして悲しむ親あざらしを哀れに思った月が、夜空の旅の土産にと太鼓を贈りとどける「月とあざらし」というお話も、青白い光に縁どられていた。
私の大好きな「月夜と眼鏡」という物語は、お話ぜんたいに、まるで月の魔法がかかっているようだ。
「おだやかな、月のいい晩のことであります。静かな町のはずれにおばあさんは住んでいましたが、おばあさんは、ただ一人、窓の下にすわって、針仕事をしていました。」
「月の光は、うす青く、この世界を照らしていました。なまあたたかな水の中に、木立も、家も、丘も、みんな浸されたようであります。」
「おばあさんは、いま自分はどこにどうしているのすら、思い出せないように、ぼんやりとして、夢を見るような穏やかな気持ちですわっていました。
このとき、外の戸をコト、コトたたく音がしました。」
小さな音から、物語が動きだす。
何度読んでも、ここで胸が高鳴る。
「おばあさん、おばあさん、窓を開けてください」と声が言う。
青白い月の光のなかに立っていたのは、眼鏡をかけた髭のある男だった。
「“私は、眼鏡売りです。いろいろな眼鏡をたくさん持っています。この町へは、はじめてですが、じつに気持ちのいいきれいな町です。今夜は月がいいから、こうして売って歩くのです。”と、その男はいいました。」
おばあさんは、眼鏡売りから眼鏡をひとつ買う。なんと、よく見える、と喜んで針仕事に精をだしているうち、気がつくと、夜も更けていた。
「このとき、また外の戸をトン、トンとたたくものがありました。
おばあさんは、耳を傾けました。
“なんという不思議な晩だろう。また、だれかきたようだ。もう、こんなにおそいのに……”」
戸を開けてみると、そこに立っていたのは、十二、三歳の美しい女の子だった。町の香水製造場で働いていて、帰り道、石につまずいて指を傷つけてしまったという。少女の体には香水の匂いがしみているらしく、いい香りが漂ってくる。
少女の傷口を見てやろうと、買ったばかりの眼鏡をかけ直したおばあさんは、娘の顔を見てたまげてしまった。
「それは、娘ではなくて、きれいな一つのこちょうでありました。おばあさんは、こんな穏やかな月夜の晩には、よくこちょうが人間に化けて、夜おそくまで起きている家を、たずねることがあるものだという話を思い出しました。そのこちょうは足を傷めていたのです。」
「いい子だから、こちらへおいで」と、おばあさんは優しく声をかけ、庭へ出てゆく。少女は黙って後についてくる。庭にはいろいろの花が、いまを盛りと咲き乱れている。
「ただ水のように月の青白い光が流れていました。あちらの垣根には、白い野ばらの花が、こんもりと固まって、雪のように咲いています。
“娘はどこへいった?”と、おばあさんは、ふいに立ち止まって振り向きました。後からついてきた少女は、いつのまにか、どこへ姿を消したものか、足音もなく見えなくなってしまいました。
“みんなお休み、どれ私も寝よう。“と、おばあさんはいって、家の中へ入ってゆきました。
ほんとうに、いい月夜でした。」
このすみずみまで青いお話を読み返すたび、窓の下に座っているおばあさんのように、ぼんやりと夢を見ているような心地になる。
そして、ふと思う。
あの眼鏡は、何だったのだろう?
もしかしたら、あの眼鏡売りは、遠い古からやって来たのかもしれない。
昔の日本人は、きれいな月の晩に、よくキツネやタヌキにだまされたという。
自然を信頼し、虫や草や動物たちとどこか同じ目線で生きていたような人々の青い、青い世界……。
そこには、生きとし生けるものの哀しみと温もりが流れているようだ。