特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第3回|井上義和・坂元希美
(構成:坂元希美)
③《ゴジラ-1.0》の絶妙な時代設定とサバイバー・ストーリー
★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ映画鑑賞後にまた読みにいらしてください。
権力・武力の空白状態をつくりだす時期
坂元 《ゴジラ-1.0》は第一作の《ゴジラ》の9年前の太平洋戦争の末期から敗戦後すぐという混乱の時代が舞台になっています。細かく言えば、海神(わだつみ)作戦でゴジラと戦う1947年という年には、警察予備隊(1950年)はもちろん海上保安庁(1948年)もまだ創設されていません。つまり、自国を守る実力組織が存在しないという時代にあえて設定しているのですね。
井上 自前の軍隊が存在しないだけではありません。連合国軍総司令部(GHQ)はゴジラ対応を日本政府に丸投げしているし、肝心の日本政府もまったく機能していない。前作の《シン・ゴジラ》はポリティカル・フィクションでしたが、今作は政治家も官僚も軍人も出てきません。ゴジラ・シリーズの中では珍しいのではないでしょうか。
坂元 これまでのゴジラ・シリーズでは、自衛隊はもちろん、その他に架空の軍隊や組織も登場してゴジラや他の怪獣たちと戦うことになりますし、国際協力もありました。
井上 本来、ゴジラという国難に対しては、政・官・軍が力を合わせる挙国一致は不可欠なはずです。ところが、《ゴジラ-1.0》ではそれらは一切役割を果たしていません。米軍すらも、です。アメリカは占領下の日本の安全保障に責任をもっているはずです。ところが、ソ連との関係上動けないという事情を与えて、日本に権力・武力の空白状態をつくり出したのですね。
「お上」は頼りにならない。誰も助けてはくれない。自分たちだけでなんとかしなければならない。その舞台設定が、脚本家としての山崎貴監督のすごいアイデアだなと思いました。
坂元 非常に説得力がありますよね。パンフレットによると、1945~47年を舞台にするという山崎監督のアイデアは、東宝社内の主立ったプロデューサーが勢揃いした検討会でも絶賛だったとか。
井上 もっと言えば、この権力・武力の空白状態のなかから自発的に立ち上がるチームというのは、戦後の新生日本が思い描いた理想の自画像でもあるのではないかと思えてきます。あるいは、自前の軍隊が存在せず、政府も頼りにならず、米軍も手伝ってくれないという三重苦の状況で強いられる戦いのなかにこそ、日本が生まれ変われる契機があるのではないか、ということです。
日本が生まれ変わる、という点は同じでも《シン・ゴジラ》ではそれを政・官・軍の全部乗せでやったのに対して、《ゴジラ-1.0》では政・官・軍抜きの「民」だけでやったわけです。
坂元 ちょっと先走りすぎですよ~(笑)。まずは「権力・武力の空白状態」のなかからチームが自発的に立ち上がる具体的な場面に注目してみたいと思います。海神作戦を始めるにあたって駆逐艦雪風の元艦長・堀田辰雄が「我が国は国民を守るべき自前の軍隊を有しておりません」と話しますね。
井上 あれは本来、国家指導者が国民に向けておこなう演説ですよね。ところが、《ゴジラ-1.0》ではこれを元指揮官が元軍人に向けて演説している。ここに集まったのはただの民間人ではないのです。つまり「空白状態」というのは国家指導者の不在=ゼロというではなくて、敗戦の負い目を抱えた人びと=マイナスでもある。
坂元 おお! マイナスワン(-1.0)というのはそういう意味だったのか!!
井上 いや知りませんけど(笑)。ただ登場人物たちはみな、戦争で大事な家族や仲間を失い、自分は生き残っ(てしまっ)たという負い目を抱えています。とくに主人公・敷島は「自分の戦争はまだ終わっていない」という思いに強く囚われて、戦後の新しい生活に前向きになれないでいる。海神作戦は、そうした人びとによって担われ、マイナスをプラスに転化する壮大な作戦でもあったわけです。
坂元 そして、堀田は「これは命令ではありません」と付け加えますね(128頁)。元指揮官としては苦渋の言葉ですが、権限ベースではないコミュニケーションの頼りなさと切実さが感じられます。
井上 はい。これはすごく大事な台詞です。あの場に集まっていた男たちは「また戦争をやるの?」「もう上から強制されて特攻をするようなことは勘弁だ」と政府や軍隊に対して不信感を抱いているのだけれども、ここには命令する/されるという権力関係が存在しない。この作戦の主体はあくまでも民間有志による自発的なチームだからです。
堀田も、たまたま元艦長ということで前に立っているだけで、何の権限もない。「個々の事情がある方は帰ってもらって構わない。それを止める権利は我々にはない」と、ちゃんと離脱の余地を残している。
坂元 残るか帰るか。男たちは胸に手を当ててよく考えます。「誰かがやんなきゃいけないんでしょ。じゃあ仕方ないじゃないですか。俺達じゃなきゃ艦は動かせねえわけだし」「よーし、いっちょやってやるか」と(129頁)。帰らずに残った人は、志願したということになるんですよね。ここ、“刺さるポイント”ですね。
井上 よくわかってらっしゃる(笑)。僕の心の涙腺が最初に緩んだのが、まさにここです。
“刺さるポイント”はまた改めて議論しましょう。
ともかく、海神作戦に従事するチームは、民間の志願者のみで編成されます。いわば祖国防衛のために自発的に組織された義勇軍です。本来、義勇兵というのは、職業軍人と徴集兵からなる正規軍に対して補助的な位置づけにありますが、権力と武力の空白状態においては、これが正規軍にとって代わる。「国を守る」ということに対して私たちがもつ理想的イメージのひとつがこれです。
坂元 「国を守る理想的イメージ」は、国によって違うでしょうし、政治的な事情によって変わることもあります。国を守るとはどういうことか、日本は何を理想としているのか。この話題は後でじっくり取り上げたいと思います。
海神作戦に向けた演説のなかで引っかかったのは、貧弱な装備しかないボランタリーの戦いなのに、「一人の犠牲者も出させない」と言っている点です
井上 作戦を立案した元海軍技術士官・野田の台詞ですね。「一人の犠牲者も出さない」というのは前後の文脈から「死者ゼロ」を意味しない。特攻や玉砕のように命を粗末にすることは決してないけれど、それは命を惜しむことを意味しない。
「死ぬための戦いじゃない。未来を生きるための戦いなんです」と。
僕は「『未来』というワードがここで来たか!」と思いましたね。おそらく脚本家・山崎貴の渾身の決め台詞であるはずで、心の涙腺はここで決壊します。これがなぜ“刺さる”のか、上手く説明するのは難しいのですが、己の命の使い方(使命)に気づかされるからではないかと思います。大切な誰かの未来を守るためなら、自分は死んでも後悔しない。
ちなみに「未来」というワードは、これが最初ではなくて、先ほどの「これは命令ではありません」の前に堀田も「我々しかこの国の未来を切り開くことはできない」と言っています。なので、野田のいう「未来を生きるための戦い」はそこに掛かっている。
負い目を持つサバイバーたちが奮起する!
井上 注意してほしいのは、「未来」という単語そのものというよりは、ここぞという場面で効果を発揮するような使われ方をしていることです。
海神作戦の参加者は太平洋戦争で生き残った男たちです。誰もが「負けてしまった」「役に立てなかった」「多くの仲間を死なせてしまった」という負い目を抱えています。それに対して、今度こそは役に立てるかもしれない、それは命をかけてもいいほど、嬉しいことなのだと、特設掃海艇「新生丸」艇長・秋津の言葉を通して言わせています。
ですから「未来」という言葉と、「今度こそは」と過去の負い目を乗り越えようとする男たちの気持ちが、この海神作戦ではうまく合体します。過去と未来を同時に視野に入れて、マイナスをプラスにひっくり返していく構成がすごく上手いと思いました。
坂元 私は「何て説明的なセリフなんだ!」と思いつつ、そういえば特攻文学のキーワードがじつに洗練された形で散りばめられていると気がついたんですね。
井上 おっしゃる通りです。しかもそれらが上辺だけでなく、作品世界のなかにしっかり根を張っている。
第1回にも申し上げましたが、山崎貴監督の《ゴジラ-1.0》は、《SPACE BATTLESHIP ヤマト》(2010)、《永遠の0》(2013)に続く特攻映画三作目であることを忘れてはいけません。《ヤマト》と《永遠の0》の映画制作を通じて、原作から特攻文学の設定や台詞を自家薬籠中のものにしたはずです。
《ゴジラ-1.0》の脚本を書く際には、前二作の経験が存分に生かされているのは当然として、映画公開直後に自らの手による小説版を刊行したぐらいですから、オリジナルの特攻文学作品を生み出しえたという自負もおありだと思います。
坂元 そうだ、《SPACE BATTLESHIP ヤマト》は私も観ましたが、木村拓哉演じる艦長代理・古代進が、終盤、決死(必死)の作戦に臨むにあたって、特攻文学のキーワードをどんどん繰り出しながら、懸命に使命を果たそうとしていましたね。そちらも具体的に引用したい誘惑にかられますが……今はぐっとがまんします。
井上 《ゴジラ-1.0》のキーワード「未来」は、海神(わだつみ)作戦の実行前夜に敷島が明子の寝顔を見て「守らなければならない平和がそこにある」と実感した瞬間が大きなポイントです。
この思いが「あの子の未来を守ってやりたいんです」(153頁)という敷島の決意につながるわけです。
坂元 なるほど。そういえば、私たち観客は、堀田の「我々しかこの国の未来を切り開くことはできないんだ」や野田の「今度の戦いは死ぬための戦いじゃない。未来を生きるための戦いなんです」という台詞に酔いしれていましたが、じつはそれらの場面では、肝心の主人公・敷島の心は固く閉じたままでしたね。
井上 このズレはとても重要です。「未来」という観念的な言葉に血が通うのは、敷島にとっては、明子の寝顔を見たときなのです。それは敷島のマイナスが、プラスへと転化する瞬間でもある。おそらくほかの海神作戦参加者にとっても、「未来」という言葉を自分のものにする文脈がそれぞれにあったはずです。
坂元 特攻文学ならではの“刺さるポイント”がたくさんありますね。次回は「未来」というキーワードも含めて整理してみましょう。
次回は「④特攻文学的な“刺さるポイント” キーワードは3つ!」をお届けします。
著者プロフィール
井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。
坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。