
星の味 ☆28 “星の花の種”|徳井いつこ
フラ・アンジェリコの「受胎告知」は、フィレンツェのサンマルコ修道院の、階段を上りきった正面。二階の壁に描かれていた。
想像していたより大きい。天使とマリアが向き合う空間から、劫初の風が吹きつけてくるようだ。
大天使ガブリエルの声を聴くマリアの面ざし、佇まいが好きだった。数多ある「受胎告知」のなかで、フラ・アンジェリコが描いた複数の「告知」のなかでも、飾りけのないこの絵にずっと昔から惹かれていた。
百合の花をもたないガブリエルの両腕は胸の前で交差され、回廊からはみだした大きな翼は鮮やかな虹色に彩られている。マリアの青い衣。庭の深い緑。草むらに点々と散らばる小さな白い花々は、星のようだ。
ひざまづく乙女マリアの前に
高い遠方から来て話す
見えない天使を絵に描いて
画僧アンジェリコは彼の祈りの底から
見える二つの翼を編んだ。
今たってゐる天使の肩の
この虹いろの翼の静かさが
地上の時に今打ちひらかれる重い扉を
しづかに押した。
乙女マリアに
その未来を告げる天使の声が
小さな室内でただ一人の心へひびいたとき
天使の肩のふたつの翼は
この上もない静かさにかがやいた。
それからやがて再び翼が羽ばたいて
高い遠方へ飛び去ったときにも
ふたつの翼の静かさだけが後にとどまり
それが乙女マリアの前にかがやいた。
片山敏彦の詩「フラ・アンジェリコ」は、翼の静かさをとおして畏るべき存在の訪れを描く。
リルケやカロッサ、ヘッセの翻訳者、ロマン・ロランの紹介者として認識していた片山敏彦が、なによりまず詩人として生きた人であり、忘れがたい詩をいくつも残していることを私が知ったのは、それほど昔のことではなかった。
オイリュトミー(身体芸術)のクラスで、先生が朗読した「やがていつか」という詩が最初だった。
やがていつか
たましひの新しい翼がそだち
遠く飛び立つ招きを受けるとき
たましひは未知の夜明けの星明りに
今一度ふり返る
するとそのとき
過ぎたすべての日々が
もう一度心に生き返り
思ひ出は幼い日へとさかのぼり
それらのまぼろしが
きらめく粉末になつて
新しい翼のおもてに吸ひ込まれ
見知らない星へ行く
そのときこぼれ落ちる
いくつかの粉末が
したしい地上の魂たちの
心の奥に静かに沈んで
愛の夢となる
あれから数年ののち、先生の突然の訃報に触れたとき、この詩の情景がありありと浮かんだのは、フラ・アンジェリコのせいだったろうか。
夜明けの星明かりにふり返る魂の翼は、あの絵に描かれていたように、虹色に染まっていると思われた。
片山敏彦の生前に刊行された詩集は3冊だという。私家版の2冊と、昭和33年にみすず書房から出版された自選の『片山敏彦詩集』。
1898年、土佐藩の典医であった家の長男として高知市帯屋町に生まれた彼は、家業の医院を継ぐためだったろう、岡山の第六高等学校(医科)に入学するも、西洋の哲学、文学に耽溺し、文学を志して上京。東京帝国大学独文学科に入学する。ロマン・ロランの自由の息吹に触れ、卒業後は、仏独の作家や詩人の優れた翻訳者、評論家として活躍した。
戦前から戦後にかけて、西洋文化、芸術への造詣の深さ、みずみずしい叡智が光る随筆の影に隠れ、彼の詩はどこかひっそりと忘れられていたような感がある。
「詩の心」と題された詩。
どこから来てどこへ行くかを
知ることのできない人生の
短くて長く 永くて短い道程で
人間の詩の心は
或る一つの純粋さの重みを
不思議な預りものとして荷ひ
この重さを
めぐまれたことばによつて
美の炎の
軽さに変へる。
その炎の中から 新しい
不死鳥が飛び立つと
その鳥のつばさのそよぎが
永くこだまして
そのこだまから 星々の
円天井が生れ出る。
片山敏彦のなかに、実存的詩情と呼べるような秘かな核があり、それを生きることが彼の全てであったことは、残された詩の数々が証している。
わたしたちの内部には、自我を無限に超越してゆく何かがあり、人間の心は日常の意識を超えてはるかに深く、また遠くまで広がっている。そう直観していた詩人が、夢を題材にした詩を多く書いたのは不思議ではない。
日々、夢のなかで夢を見ていると気づく明晰夢や、二度寝で鮮烈な幻像を見ることも多々あったにちがいない。
詩というよりメルヘンの趣がある「星の花の種」には、夢のなか、紫水晶の光る山の頂で、不死鳥を思わせる鳥から虹色の手紙を受けとる場面が描かれている。
同じく長尺の詩「草に埋もれた家」では、夢のなかに現れた老人が、ガラス箱に納められた一羽の大きな蝶を指し示す。
からだに付けた宇宙の紋章
太陽のやうな、月のやうな、星のやうな光の眼が
碧瑠璃の翅の上にきらめいてゐる。
「何のためのこの美しさでせうか?
また、誰のための?」――と老人が言ふ。
「私はこの蝶を、折に触れて眺め、それを考へます。
小さいもろい自分のからだに此の蝶は
宇宙に似ようとする本能を持つてゐたやうに見えますね。
毛虫から転生するその過程のとき、この蝶のかくれた本能は
夜の草から吸ふ露に、星々への回想を溶かして
それを、青空の色にして、翅へ立ち昇らせたやうに見えますね。
これは字のやうです。また絵のやうです。
また音楽の秘密も、此処に無いとは言へますまい。」
生まれながらに、宇宙に似ようとする本能を秘めている……。夢の老人がそう語った生きものは、べつの詩にも登場する。
幼い彼が 小さな手で
青い夢の蝶を
取らうとしたとき
その蝶は 虹色の二つの紋のある
青い大きなつばさをふるはせて
空の光の眼なざしの中に消えて行き
空の奥には
ひばりの歌が流れてゐた
そのときから
五十年の時が過ぎ
彼のこめかみは白くなつた
或る夜の夢に
あの青い大きな蝶が
彼のところへ飛んできた
虹色の二つの紋のある
青いつばさは 秋の空の
銀河のそばから飛んできた
夢の中で彼はたづねた
永いあひだ逢はなかつた
青い蝶よ 昔の夢の宝石よ
なぜ今日 とつぜん君は来た?
夢の中で 秋の夢の中で
蝶が答へた
君の心の中心にある
泉のそばに花が咲き
その青い花のうたふ歌が
今朝からわたしを呼んだために……
青い蝶は、彼自身だっただろう。
私がわたしを呼んだのだろう。
わたしたちひとりひとりが、目に見えない宇宙の紋章をつけているのかもしれない。
随筆『雲の旅』には、箴言のような短い文章が集められている。
「孤独な星々を反映する内部の海。」
「詩は形に宿る神的な呼吸。」
「詩作をするという創作生活は、滅び易い愛する対象の実質を、不可視的なきらめきに変化させるという使命に根ざしており、そして此の使命遂行の効果は――リルケの信仰告白によれば――「宇宙の顫動の世界に新しい振幅を生むことに成る」のである。
“宇宙のさまざまの相異せる物質は、結局相異せる顫動の率によるのに他ならぬのだから、我々は、詩作の此のやり方によって、単に精神的な性質の密度のみならず、亦、あたらしい肉体、鉱石、星雲、星辰の誕生に寄与しているかも知れないのである。”(リルケ)」
詩作が自然界の事物に影響を及ぼしている……!
なんと不思議な、けれど心に響く文章だろう。
そして、こんな呟きが書きつけられる。
「燃えよ。わが内に、星の血よ!」
*片山敏彦さんについては、第13回「星の味」(エミリー・ブロンテ)でもとりあげています。よろしければ併せてお読みください。
星の味|ブックリスト☆28
●『片山敏彦 詩と散文』片山敏彦/著、清水茂/編、小沢書店
●『片山敏彦著作集 1詩集』片山敏彦/著、宇佐見英治/編、みすず書房
(*引用文には一部、原文にない読みがなを追加しています)
星の味|登場した人☆28
●片山敏彦
1898年(明治31年)高知市生まれ。詩人、翻訳家、評論家。1924年東京帝国大学ドイツ文学科卒業後、法政大学予科ドイツ語専任教授となる。1925年からロマン・ロランとの親交が始まり、1929年(昭和4年)第一詩集『朝の林』を自費出版。同年、渡欧し、2年間に及ぶヨーロッパ滞在中にロマン・ロラン、ジョルジュ・デュアメル、シュテファン・ツヴァイクなど芸術家と交流。1938年より第一高等学校教授、のちに東京大学ドイツ文学科講師も歴任した。1944年、第二詩集『暁の泉』を自費出版。1949年に「日本ロマン・ロラン友の会」委員長就任。1958年、みすず書房から『片山敏彦詩集』が出版された。訳書に『ロマン・ロラン全集』、『リルケ詩集』『カロッサ詩集』『ヘッセ詩集』、ツヴァイク『人類の星の時間』、タゴール『渡り飛ぶ白鳥』など。1961年、肺癌のため62歳で逝去。
〈文〉
徳井いつこ Itsuko Tokui
神戸市出身。同志社大学文学部卒業。編集者をへて執筆活動に入る。アメリカ、イギリスに7年暮らす。手仕事や暮らしの美、異なる文化の人々の物語など、エッセイ、紀行文の分野で活躍。自然を愛し、旅することを喜びとする。著書に『スピリットの器――プエブロ・インディアンの大地から』(地湧社)、『ミステリーストーン』(筑摩書房)、『インディアンの夢のあと――北米大陸に神話と遺跡を訪ねて』(平凡社新書)、『アメリカのおいしい食卓』(平凡社)、『この世あそび――紅茶一杯ぶんの言葉』(平凡社)がある。
2024年6月、『夢みる石――石と人のふしぎな物語』(『ミステリーストーン』の新装復刊)を創元社から上梓。
【X (Twitter)】 @tea_itsuko
〈画〉
オバタクミ Kumi Obata
神奈川県出身/東京都在住。2000年より銅版画を始める。 東京を中心に個展を開催。アメリカ、デンマーク、イラン他、海外展覧会にも参加。2017年スペインにて個展を開催。カタルーニャ国立図書館に作品収蔵。
・2006年~2010年 ボローニャ国際絵本原画展入選(イタリア)
・2013、2014、2017、2019、2023年 CWAJ現代版画展入選
・2016年 カダケス国際ミニプリント展 グランプリ受賞(スペイン)
【オバタクミの銅版画】 http://kumiobata.com/
【X (Twitter)】@kumiobata
【Instagram】@kumio_works