多彩な人に囲まれた凡人にでにること
比較するのがクセな自分
私には勝てないなぁと思う人がたくさんいる。
負けてるからと言って普段は特に落ち込むとかではない。疲れると出るマイナス思考の1つとして年に数回へこむ程度。
先日夫に「ほんと比較するよね」と言われた。
みんな比較するもんだと思ってたから、少し驚く。
私が良く比較してしまうのは、頭の良さ、その人にしかできない仕事をしているか、それと容姿。
どれも誰と比較するかで結果は全然違うとわかってはいる。
比較した結果へこんでも、いいことはないこともわかってはいる。
でもねぇ、私のまわりは本当にすごいんだよ!の叫びは止められない。
めちゃくちゃ面白い学校生活
中学も、高校も。
成績も地頭も良く、さらに多趣味だったり、特技がずば抜けていたり、そんな人がゴロゴロいる地方の進学校。
毎日面白かった。
クラスでも部活でも私自身は平々凡々ながら、まわりのすごい人たちと関われるんだから。
大人になった今もゆるく関係は続いていて、相変わらずすごいのだ。
中学からなると決めてプロの音楽家になった同級生。
アメリカで医者になると決めて高校のうちから努力してた子。
いつのまにか日本一の大学で准教授してる同級生。
まだいる。
みんな同じ部活の同級生。
別な学年まで見たら大変なことになる。
大学でも、寮や部活で親しかった人たちの中には、某1年間の歴史ドラマの撮影隊を仕切った人も(←ほんと良かったです!お疲れさまでした)。
肩書き、わかりやすい権威性にあやかりたいだけ、とも違う気持ち
「もう本当にすごい人が近くにいたんだよ!私、仲良かったんだよ!」
これを言うと夫に止められる。みっともないと思うらしい。
自分をすごいと言ってほしいのとは少し違うのだけれど、とちょっと悲しい。
確かに、私の友達すごいんだよ!すごい人たちと友達ですごくない?と自慢したい下衆な気持ちは否定できない。
ただ、それだけではなくて。
ただそこに共感してほしい。
一緒にすごい人のこれまでに想いを馳せてみたい。
(すごいをいくつ使うのか…(笑))
多才ですごいと感じる人は人間もできてる、もしくは面白い。それを一緒に感じられたら
ミーハーとか知りたがりの人に、実はこんな人なんだよと知ってることをひけらかしたいわけではない。
でも、多才な知り合いたちの地道な姿とか、人間味あふれる部分とか、これまでの過程とか、一緒に、共感してもらえたら嬉しい。
背景を知ることで、よりあたたかいつながり・あたたかい場ができていくんじゃないかと思うから。
もちろん、そういうシェアを知り合いたち本人がOKだったらに限ってだけど。
多才な人に囲まれた、何者にもなれてない凡人だからこそ
いちいち比較する自分に嫌気が差すこともある。なんか嫌なヤツだなって。
実際に私はすごいと感じる人とは違って、何者にもなれてない。その道のプロです!みたいな肩書きはなく、あれこれ試行錯誤している。
どうしても比較しちゃうし、どうせならこの人すごいなって思う気持ちを、自分にとってもまわりにとったもプラスに使えたらいいと思っている。
それに、平々凡々、挫折やうまくいかないことや、いろんな経験や気持ちを知ってる私だから、誰かの話を聞いて共感したり、その人のすごいよポイントを見つけて伝えられたりするはずとも思っている。
鏡のような、スポットライトのような
今日はすごいを連発したけれど、パッと見ですごいとわかる人に限らず、人はやっぱりすごい部分を誰でも持ってると思う。
すごい部分だけじゃない。人間くささ、挫折、屈折した想い。
普段は隠れているそういうのを、私が鏡になって、あるいはスポットライトをあてていけたらなぁ。
それが凡人である私の仕事かな。