西日の中の微笑みのような緩慢で安らかな幸せを感じながら生きている。
ようするにgomisutebaってことですな。 廃品処理場。
その朝、目覚めが街へと誘った。人の気配の無い街に 行人は神隠しにあったのか、それとも連れ去られたのは自分か 俺は見た。眼窩に水の溜まる迄、太陽を 足を運ぶ度に季節が経過する 日の注ぐ石畳、銀の木陰、花の模型 舗石に硬貨を捺した跡 灰皿には蛾の死骸 空を除いて造り物
過剰な世界の終わりは忘却によってなされるのではないだろうか? 滅びというものは引き潮のように、何世代にもわたって緩慢に進行するもので、急激な痛みを伴うものではないものだと思っている。
かつて、人々は作家であり、同時に作中人物でもあったが、今やみんな読者だ。
レヴィ=ストロースは「世界は人間なしで始まったし、人間なしで終わるだろう」と言った。人間が残せる普遍的なものなんてないんだとおもう。社会というものを世界と同義のもののように捉えていた時代があったが、今では人間の世界の一部に過ぎないものとしか見なくなってしまった。
世界最古の文学といえばギルガメシュ叙事詩だが、これは粘土板に書かれていた。近代から現代においては紙媒体だが、現在、特にここ10年くらいでは、急速に電子媒体への移行が進んでいるように思われる。どうして移行するのかというと、それはやはり粘土板よりも紙媒体の方が取り回しがいいわけで、粘土板の威厳も惜しまれた時期があっただろうけど、結局は合理性が優先されたからじゃないかと思う。なにしろ、一番重要なのは作られた文章を読み手に届けることだからだ。 いま、紙媒体で記述されたものはまさ
やあ、ナツ子。俺はヒャクマンビキも殺したぞ。どこの馬 の骨とも知れない奴が町工場で、焼却炉代わりに燃やしたドラム缶の中へ 蓮華の花の残骸を、二百十本投げ込んで、灰にまみれて くしゃみをしていた。
制約はある種の共通体験であり、同時に評価基準の設定であったりもする。創作活動を行う人にとってみればなんだか嫌な印象のあるキーワードだが、完全な自由というものを追求すると自由であることが制約という二律背反的なものに到達するだけだったりする。この位置が基準になると創ることも困難、そして出来上がったものを評価することも困難。鑑賞することも困難という複雑な状況に陥いるわけだ。
現代は未来へ過去のすべてを運ぼうとしているから、創作物は増える一方。人間が一生で消費できない量になるわけだから、その価値がなくなっていくのは必然的であるように思われる。必要があれば誰かに作らせるのではなく、探せばよいわけだから。だから、現在において有意な題材というものは、普遍性よりも時事性、大きな世界よりも小さな世界という形になってくるのは分からないでもない。個人の好悪は別にして。
海老の気持ちを想像する。 海底で昼寝してる。 目が覚めたら、 プランクトンが横切る。 背を伸ばして食べようとするが、 通り過ぎる。 まぁいいかと思って、 また寝る。 この繰り返し。
その昔、大阪の弁理士さんと相場のことでネット掲示板で談議したのを思い出した。株価が全員が利益を上げようとする集団心理の結果、最も大勢に損失を与える値動きを形成するという仮説で、未調整価格理論という名の値動き理論だが、今検索するとこの造語が一部に広まって生きている事実に驚愕した。
新しいものが最高とは限らない。分かりきったことだが実践することは難しい。環境も必要だ。でも、それはあるか、ないかじゃない。小さい足跡がそのうち大きな道になるかも知れないし、そうならなくても空間に痕跡は残こるだろう。