罪己詔

昨今では単純作業が機械代替化された――いわゆるOA化が完全に進んでしまった――事により、創造性が求められるように、言わば「何とか出来る人間」が何につけても重用されるようになってもう久しい。

しかし、これは本当に幸福な世と言えるのだろうか。

少なくとも視界に入る同世代では一番の「何とか出来る人間」である自信を持つ私の口から言わせれば、それは恐らく否である。

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「何とか出来る人間」に近付けば近付く程、能力の代わりに、普通の人間が持つような感情を喪失していくような気がするのである。思い悩むという営為が排除されるのである。(無論、職務上そんな物は全くの無用なのであるが……)

目的を達成しさえすれば、手段は問わない。
出来れば、最短経路で。

このプロンプトは人間感情を完全に無視したものである。従って、眼前の人間の感情や琴線に全く触れる事なく、ただ目的を達成する複雑機械と化す。

お陰様と言ってはなんだが、私は他人の感情と自身の感情とを混ざり合わせる事なく、ただ情報を訊き出す事が出来るようになってしまった。

その結果として、私は「好きな人」が出来たとしても、その人の個人情報をただHUMINT (Human Intelligence) に近い形で尋問・聴取する事に特化し、肝心要の、眼前の当人とは全く向き合っていなかったのである。


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