我が友李徴子の独善的断罪に対する反論

 我が友李徴子は、「お前はファシ的思考回路である」と言って断罪文をインターネッツの世界に上げやがったので、その反論文を掲載する。
 
 まず、いの一番に行うべきは「用いる言葉の定義確認」である。
 他人に「ファシスト」というレッテルを貼るからには、その定義を確認せねばなるまい。
 Wikipediaからの引用で申し訳ないが、本来的な「ファシズム」の意味は、ムッソリーニの提起した「結束主義」的な意味合いである。これが転用され、全体主義や軍国主義、或いは言論封殺といった意味合いに用いられているのも観測している。
 私の持論としては、本来的なファシズムは大変危険な意味を含んでいるため、軽々と用いるべきではない言葉であると認識しているのだが、それは本題ではないので棚上げしておこう。
 
 彼の言う「お前は『ファシ的』である」の「ファシ的」について分析する。
 恐らくこれは「一元主義」であろう。(相対主義は面白くない、といった文脈だったと考えられる)
 その会話中で、言葉尻を拾う形で「アンチ=ファシズムは面白くない」というのは、まあ或る意味当然かもしれない。抑々ファシズム的言説が受容不能なものであるという前提の下にこの議論があるのだから、「人を殺してはいけない」と言っているのとそう変わらない。
 よく「人を殺してはいけない」という御説教のようなものがあるが、そんな当然の事を言っても面白くないというのはその通りである。そういえば1990年代だったかに「何故人を殺してはいけないのか論争」というものがあったと記憶しているが、こうした方向性で議論を深める事で、より演繹的に、より厳密に、していく必要があるだろう*。
 
 こうした方向性である事を前提に、いわゆるファシズム・ナチズムを決して肯定するものではない、という事を明示した上で、反論の作業に移りたいと思う。
 
 まず、私の言葉尻を論うスタイルには全く感心出来ないが、誤読の可能性があるという問題提起としては妥当性を欠いたものではないと考えるので、その点は我が友李徴子を評価しよう。
 次に、私がツマラナイと言っているのは、過度な相対主義、或いは「ファシズムのアンチテーゼでしかない思考回路」に対してであり、これを非難する事と「ファシズムの肯定」を結び付ける事について、妥当性を欠いていると言える。例えば「1+1=3 (命題Aの主張)」があったとして、「1+1=4 (命題Aは間違っているという主張)」を間違っていると言う事が、命題Aの肯定だと言えるだろうか。
 
 ファシ的一元性が「リスク回避的ではない」というのは同意である。私も以前「選択と集中」について、そもそも「最適な選択を出来るという前提」に立つのはおかしいという話を彼にした事がある。(というか、ハーベイロードの前提を持ち出すあたり、私の議論のパクリではないか)
 
 その上で、「全体に分散」というのが、単純な生存戦略 (短期的繁栄ではなくとにかく生き残る事を重視する) としては最適であるという話もした筈である。約1年と2ヶ月前の事だっただろうか。それなのに、彼は今になってドゥルーズ・ガタリを持ち出し、リゾームリゾーム言っているのである。
 
 はてさて、私の言う「相対主義は面白くない」という話だが、簡単に言うとヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものは沈黙せねばならない」という話に通底する話である。私もヴィトゲンシュタインには同意するが、演繹「だけ」だと、これは永遠に輪をグルグルと周回しているようなものである。
 3ヶ月程前に読んだ『言語の本質』にも書いていた事だが、人類文明というのは演繹・帰納・逆行推論の3つを掛け合わせて発展してきたのである。
 
 ファシズム(※ここでいうのは「一元主義」)が間違いなのか、間違いならばその理由を述べよ、という問題に対して、私は次の解答を提出する。
 「帰納部分に正しさを持ち合わせているから」
 
 演繹・帰納・推論を掛け合わせる上で、演繹のみが絶対的な論理的正しさを持つ一方、帰納は「早すぎる一般化」の可能性を孕み、推論は「逆は必ずしも真ならず」という問題を包含している。
 つまり、我々が重要なのは、演繹によって1階部分を作り、帰納と推論によって2階・3階部分へと積み上げているという事を「知覚する」という事である。帰納と推論は、数学に於ける「公理」を導くものであって、決して「定理」を導くものではない。
 公理が必ずしも正しいとは限らない。例えば三角形の内角和が180°という公理は、これが成立しない場合もある(球面上の三角形の場合など。詳しくは非ユークリッド幾何学)。
 
 公理を絶対視してはならない、というのはその通りである。
 だからといって、過度に全てを「公理扱い (相対主義的に認識する)」と、最早「何も語り得ない状況」に陥ってしまう。
 であるからこそ、公理(前提)を整備した上で、「この前提下に於いては、〇〇は正しい/誤り」といった議論スタイルを採るべきだと私は考えている。
 
 以上がファシズム及び「現行のアンチ=ファシズム」の両方が受け容れられない、という私の個人的ismに基づく意見である。
 
 その上で、我が友李徴子が「そがねこは一元主義的である」というのは、私の一面のみを見ている議論であり、全く意味を為さないという事を注記しておく。そもそも「『他人の全て』を知覚出来ている」という思い上がり自体が独善的だと私は考えますわよ。
 
 
* 私自身としては「何故人を殺してはいけないのか」という議論について、相手が生物学的ヒトである時、相手と自身は客観的に見て区別不能であり、従って「相手を殺しても構わない」という言説は「自分が殺されても構わない」という事と同値であるという考え方を採っている。また自由については「他害性が無ければ規制する理由がない」としており、反実仮想的に言えば「人を殺す自由」といった概念を提唱できるのだが、そういったものは「存在し得ない」というのが私論である。

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