喧嘩を吹っ掛けてきた某後輩氏に対して
親愛なるM氏、御元気でしょうか。
こちらは元気です。
某後輩 (以下Mと呼称する) 氏は、2023年第4四半期から2024年第1四半期に掛けて、複数回に亘り、無礼千万にして失礼極まりない対応を取ってきた。私は基本的に無礼講スタイルなので、「先輩だから○○しなきゃ」とかいう礼儀作法の類は寧ろ嫌いな方なのだが、仮に同輩或いは〔私の方が〕後輩だったとしても、あまりに失礼であろうといった対応を複数回受けた事に対し、対応を取らないというのは私の面子・沽券に関わる事なので、その売られた喧嘩を私は高値で競り落とす事にしたのである。
先ずは、M氏の私に対する無礼な対応というのを挙げねばなるまい。
①2023年Q4 11月中旬事件
M氏は2023年11月中旬に開催された某所での「出席必須の説明会」の前日未明、泥酔状態で煙草と睡眠薬を併用した状態で、2~3時間に亘って「代替案を提出しない形式での私に対する感情的非難」、具体的には文学サークルの運営体制について「DiscordではなくLINE OpenChatの形式を取るべき」だといった現実性に欠けた気分表明を繰り返し、その指示に従わない (※従う訳がない) 私に対して「〔実情を〕分かっていない」といった主張を行った。これだけであれば「単なる現実性のない意見の表明」であり、私からも別段何も言う事はあるまい。
但し、彼はその翌日の「出席必須の説明会」の直前になり、「昨日は寝付けなかったので、祖母宅で仮眠を摂ります」と言い残し、開始時刻になっても来なかった。幸い、私の方で問題の処理を行ったため、彼の欠席を有耶無耶にして組織に対するペナルティーを回避する事に成功したのであるが、それが成功しなければ、彼はどのような形式で責任を取るつもりであったのだろうか。
本案件に対する私からの意見表明は以下の点である。
・寝付けないのなら寝ろ、寝れないからといって暴言を私に対して吐くな
・何故職務を全うしないのか
・自分のやらかしは、原則自分で責任を取る事
まあ、彼の年齢が私よりも1つ下である事や、年齢的な相対的社会経験の乏しさを鑑み、本案件については誰にも明らかにしない、という形で彼の名誉を守る事とした。
②2023年Q4 11月下旬事件
M氏はその後、私と共に学園祭の準備関連の職務を担う事となったのだが、学園祭に際して貢献した事は何一つとしてなく、必要な時に居ない、勝手に女の子を口説きに行っている、等々の邪魔立てばかりしてくれたものである。
つい最近知った事であるが、どうやら学園祭の折に発生した事件に乗じて、彼女を作ったらしい。別に彼女を作るのは勝手だが、それよりも先に職務を全うせよ。こちらが先約であるし、職務放棄は恥ずべき事であるぞ。
M氏の最近の言に依れば、「手伝おうと思っていたんですが」という言い訳ばかりである。抑々論として、M氏に与えた職務なのだから、それは「任意の手伝い」ではなく「義務の達成事項」なのであるが。結局の所、誰も仕事をしなかったので、殆どの仕事を私が請け負う事となったのである。「職務の80%程度を私が結局やる事になる現象」自体は日常茶飯事であるから別に良いのだが、それに対して引け目があるでもなく、開き直って不満を表明するなど言語道断である。口を動かす暇があるのなら、先ず手を動かし給へ。
③2024年Q1 1月中旬事件
M氏はその後、日本語にもなっていないDMを送り付けてくるようになった。電子網の大海に全文を晒す気はないので、敢えて内容の分からない一部分のみ抜粋すると、次のようなものである。
ひとつおっしゃいたいことがあるんだが、今学期一杯でサークルを辞めさせていただきます。〔以下略。(文学系サークルの掛け持ちのし過ぎで断捨離をする旨が書かれていた) 〕
日本語の文末決定性から鑑みるに、末尾の「いただきます」という丁寧調の謙譲語(尊敬表現)に合わせて、「おっしゃいたい」は「申し上げたい」と改めるべきであり、「だが」という断定調は「ですが」という丁寧調に改めるべきである。というか「おっしゃいたい」なんていう日本語は存在しない。一千万歩譲っても「仰りたい」である (※それでも自尊表現。M氏は帝か院か、或いは准三后か何かなのか) 。
前述に挙げる①及び②の件に依り、我が脳内に於いてM氏は「前科2犯」なのだが、このように日本語的に不正確で不適切な文章を送り付けてくる事自体、他人を滑(な)めているようにしか感じられない (←日本語能力の不十分なM氏だけのために態々ルビを振ってみるなど。因みに古文単語にあるわよ) 。
増してや、M氏は文学系サークルを複数掛け持ちしているのである。従って、このように日本語が適切に用いられていない文章を送付してくる行為自体が、私に対する明確な挑戦状であると私は受け取った。
④2024年Q4 2月上旬事件
私が直接的に激怒してゐるのはこの件である。
M氏は③の時点で私が任せた最後の職務 (某所への出席) の放棄を宣言していたのだが、この事後処理にあたって、某所に出頭せねばならなくなっていたのであるが、それに際して「私に同席してほしい」と態々別の人間を経由して伝えてきたのである。
私としては、代役を立てれば職務放棄して貰って全然構わない (仕事が回るのであれば誰がやろうと知った事ではない) のだが、M氏はどうやら代役を立てたり、或いは代替案を講じたり、といった事をするでもなく、無為無策のまま放置しており、遂には出頭命令が下ったのだという。
この事件だけであれば、私もまだ協力なり何なりしたのであるが、これまで散々M氏の起こした不祥事の数々の事後処理をさせられた身の上としては、自らのミスは自らの血を以て贖うべし、としか言い様がない。というか、今回の件については「嫌である」という感情的理由で職務放棄に走っているのだから、丸く収めるためには出席すれば良いだけの事であるのだが。何故某所に出席する事を拒み、このような問題化を望むのか、私にはさっぱり分かりかねる。
次に、M氏は私の思想面に関する批判 (これは単なる感情的非難ではなかった) をしてきたので、それに対する反駁を、主に実効性・実用性の観点に立って行おうと思う。
M氏の思想と私の思想とを比較すると、大きく3点に於ける相違がある。
M氏: 「偽=三島的皇道主義・偽=多数決原理・権力分散主義」
私 : 「自由放任主義 (不干渉主義) ・他害性抑止原理・権力集中主義」
①M氏の「偽=三島的皇道主義」の否定
先ずは「偽=三島的皇道主義」と自由放任不干渉主義との差異を述べるにあたって必要な、「偽=三島的皇道主義」とは何かを明らかにする。
M氏の奉じる三島由紀夫というのは、「〔少なくとも私の理解の及ぶ限りでは〕戦争に行けず戦争に憧憬の目を向ける軍国青年」である。晩年は皇道主義的主張を繰り返した訳であるが、私はこういった皇道主義にはあまり理解を示せない。
何故ならば、抑々「皇道か統制か」というのは、昭和恐慌で惨憺たる状況に追い込まれた農村を救い切れなかった当時の政府に対する2種の (※1) アンチテーゼなのである。二・二六事件によって皇道派が一掃され、統制派が以降の戦時政局を牽引したというのは教科書にも載っている話である。
よく統制の反対語として自由が用いられる。これ自体は誤用ではない。しかしM氏は「農村を救えぬ無力な自由」と「アメリカと無謀な戦争を挑んだ統制」との両方を誤りとした上で、「皇道」に希望を見出し、三島を奉じるのだろう。
現代社会は自由主義、とよく言われる。中高一貫校を中退してN高校に進学し阪大に落ちたM氏にとって、現代社会とは「否定すべきもの」なのだろう。かといって戦争を肯定する訳ではなく、となるとM氏にとって残された道が「皇道」だったのだろう。尤も、三島の皇道主義というのは、同時代の新左翼運動 (赤軍など) と同じで、「戦前戦中に憧れた青年たち」の系譜を踏んでいるので、本質的な「皇道」ではない事に注意を要する。(※だからといって本質的な皇道派を私が奉じる訳では毛頭ないのでそこも注意)
M氏は結局「『昭和10年代の皇道派の模倣』である三島由紀夫の模倣」であり、コピーのコピーなのである。M氏は明治憲法下に於ける主権者にして現人神として哲学的絶対者の扱いを受けた天皇陛下を奉じるのではなく、国民 (大衆) を主権者とする現行日本国憲法に従った、「大衆の暴力を礼賛する」といった形に落ち着いている。最早皇道ではなく、三島ですらない。従ってM氏の思想は「偽=三島的皇道主義」だと言える。(※2)
※1: 他にも、石原莞爾などは「満洲派」を自称するなどしたが、ここでは触れない。
※2: 個人的には、皇道派や三島、或いはM氏に共通する「御都合的な利用行為」が、天皇陛下や英霊に対して失礼であるが故に「嫌い」であるが、嫌いなのは個人的感情でしかないので、ここでは触れない。
長々と叙述したが、簡単に言うとM氏の「三島的皇道主義」というのは、三島由紀夫のn番煎じであるし、抑々中身が無いのである。
因みに私の自由放任不干渉主義というのは、第2原理である他害性原理とセットで用いられねば意味が無いので、②においてまとめて差異を語る。
②M氏の「偽=多数決原理」の否定
M氏は「2023年Q4 11月下旬事件 (学園祭サボリナンパの件) 」と同時並行して起こった事件について「我関せず」の態度を取っていた。実際M氏にとってはあまり関係ない案件なのでそれで良いのだが、それに対する態度が「俺"等"にとって関係ないんで」といったものであったのである。
文学サークルのDiscordからLINE OpenChat への移転といった主張にも受けた印象であるが、M氏は自己の意見の主語を大きくする傾向にある。
何でもかんでも、M氏は自己の意見を「皆の意見」「大衆の意見」だとして、押し通そうとするのである。
ここで前述のM氏の「偽=三島的皇道主義」と組み合わせると、M氏は自己の意見に対して、かつての天皇大権にも等しい正当性並びに正統性を自負しており、その自負に則って私を非難していると分かる。
実際、M氏の周囲にはM氏の意見と同調する者が多いのだろう。しかし、それは単なるエコーチャンバー効果でしかなく、実際にM氏に同調するものはそう多くあるまい。
もしM氏が権力を持つ者であれば、この態度は全く以て失格、ゼロ点どころか保育器送りである (それを言えば乳幼児に失礼か) 。「持てる者」は民草の意見を広範に聞くため、その権力階段を自ら下りて聞きに行く努力が必要なのである。それに対してM氏は、自らの奸臣の甘言に耳を垂れる愚王であろう。まあ、M氏も私も誰かを統治している訳ではないので、どうでも良いのだが、せめてM氏はM氏自身の彼女に対してだけでも良いから、岸田のフミちゃんの如く「聞く」姿勢を持ってほしいものである。
③M氏の「権力分散主義」の否定
最近の若者は……という言説はあまり好きではないのだが、「誤った」反権力の形としての「権力分散主義」が最近のトレンドのように見受けられる。口を開けばWeb3、P2P、馬鹿じゃないのといった印象である。
権力の分散は自由主義に沿っているとして礼賛されがちであるが、では誰が責任を取るのか。責を担う者が居るから構造が成立するのであって、責を担う者とそうでない者との「区別」ですら「不平等であり差別」だと考えるのであれば、最早その構造は崩壊するであろう。
そういった人々がよく引き合いに出すのが直接民主制国家スイスであるが、スイスの直接民主制が成立しているのは「スイス国民が無責任ではない」という一種の奇跡とも言える責任意識によって成立しているのであって、現代日本の野良のコミュニティーでいきなりスイス同等の構造を作り出せる訳がない。
無責任な連中にも権力を与えるというのは、それ自体が無責任な行為である。従って、それを主張するM氏は無責任なのである。
無責任というのは、一期一会・有限回といった短期的な協調ゲームに於ける戦略としてはナッシュ均衡解である。相手が一度非協調(無責任)を選択すれば、そこからゲーム終了まで相互に非協調(無責任)が続く。なんと持続可能性に欠けた状況か!!!
しかし、無限回、或いは「無限回と見做せる」「次があると期待できる」長期的な協調ゲームに於ける戦略としては、協調戦略が優位である。そこで無責任を選択するanimal spirits (非合理) に満ちた者が一定数存在するのは知っているのだが、M氏もどうやらその類だったらしい。
そういった非合理に立ち向かう術は、非合理を包摂する一般理論を構築するか、非合理を「定義域 (視界) の外」に追いやるかである。私は生憎80億人類のanimal spiritsを包摂する一般理論を構築する事の出来る明晰なる頭脳を持ち合わせている訳ではないので、一般理論を可能な限り構築しようと努力はしながらも、難しいものは「定義域 (視界) の外」に追いやる事としている。誰かが解析接続 (通訳・緩衝材的役割の発揮) をしてくれればそれで良い。
ちなみに、私の他害性抑止原理は「他害性 (外部不経済性など) が無い限りは、何をしようとも自由」という統治コスト論的観点からの消極的自由主義である。また私の権力集中制は、共匪の言う「子供騙しの民主集中制」のようなものではなく、責任を明確にするという事である。責任を明確にするという事は、責任を分散して「曖昧かつ不明」にする事の対極にある。誰かが後始末をする、ここを明確にするのである。よく「責任の追及」という行為が行われるが、そういう事を言いたいのではない。事後処理やバックアップの問題についての「責任」なのである。
どうやらM氏は私の思想哲学についてプランク長さたりとも理解していないようなので、是非高校レベルの政治・経済の参考書の1冊や2冊でも買って勉強してほしいものである。