2024/07/10 ガリレイ・サークル 不定期定例会メモ
「主観的時間論」と「客観的(?)時間論」
そもそも時間概念は「主観的時間」と「客観的(?)時間」とで分ける必要があるのではないか。
「主観的時間」における過去と未来
「主観的時間」においては、過去と未来は次のように定義される。
過去: 主観者の記憶・知識・知覚により類推される経路。既知と見做される。
未来: 流転変化の方向、エントロピーの増大方向、不可逆な進行方向、先後関係における「後」。未知と見做される。(※1)
「客観的(?)時間」における過去と未来
過去: 流転変化の「以前」、エントロピーの増大「前」、先後関係における「前」(「未来」の対概念としての定義)
未来: 流転変化の「以後」、エントロピーの増大「後」、先後関係における「後」(つまり主観的時間における未来と同定義)
(※1) 私が見田宗介の『時間の比較社会学』の影響を多分に受けている事は否めないが、未来概念は砂漠の宗教により単線的時間の中で構築された概念なのやもしれぬ。
「主観的時間」におけるタイムトラベルの可能性①
主観的時間では、過去があまりに可塑的であるが故に、タイムトラベルが可能なのではなかろうか。抑々「日本時間1904年5月2日に高知に居た」という記憶と、「日本時間1904年5月2日にロンドンに居た」という記憶は、両立可能なのである。何故ならば所詮は脳内の知覚でしかなく、海馬を弄れば(可能であれば)済む話であるからである。
加えて言えば、「主観的時間」における過去の定義では、人間の限定知性における類推でしかなく、148億年前に宇宙が開闢したという過去さえも、状況証拠からの類推に過ぎないので、こうした(知覚可能な)状況証拠に矛盾しない限りは、過去を自由に弄る (でっち上げる) 事は可能なのである。
これは、我々が「世界5分前仮説」を棄却する術を持たない事に起因する。
「主観的時間」におけるタイムトラベルの可能性②
扨、ここで(スピノザ的な)現在観を取り上げる。ここでは「現在 = 全体集合」みたく捉える事とする。我々が知覚するこの世界は、あくまで全体集合の中の部分集合でしかない事となる。ならば、「過去だと記憶する情報の全てにより構築される部分集合」も当然全体集合に含まれている事となり、「現在 = 全体集合」より、現在の中を移動するだけで、「過去だと記憶する世界」に行く事が可能となってしまう。(厳密には、我々が知り得ない部分においては『実際の過去』との差異が見出せてしまうのかもしれないが、知り得ないので知覚し得ない)
ここで例を挙げる。「1904年5月2日へのタイムトラベル」を考える。今、我々は「1904年5月2日」の出来事として、土佐電気鉄道の創立という事実を知っている。だがその他の事実は知らない。例えば1904年5月2日の丁度正午に、堀詰の地に一体誰が居て、その人々一人一人が一体どのような服装で、どのような事を考え、どのような腸内環境であったかなど、我々は知り得ない。故に「知り得ない部分」については(超越的視点に基づけば)差異が認められるかもしれないが、知覚し得ないので差異は認められない、といったような内容だと思えば宜しい。こういった「1904年5月2日へのタイムトラベル」は、現在を横滑りする (多世界解釈における無限の世界の中から、1904年5月2日に関する記憶・知識・知覚に合致する世界を選択して転移する) 事によって、可能だと言える。(しかし残念な事に、我々は実際に現在を横滑りする手段を持たない)
「客観的(?)時間」は存在するのか
客観的(?)時間というものを考える。「主観的時間」に於いて、未来を「エントロピーの増大方向」と定義したので、過去をその対概念として考えてみようといった代物である。しかし抑々論として、世界5分前仮説が否定できない以上、こういったものが存在するとは誰も断言し得ないだろう。
しかし、「現在に至る流れ」みたいなものが存在するという考えを持つ事も出来るらしい。抑々「流れ」という表現は矢印を含んでおり (要はスカラーではなくベクトルであるという事) 、そういった矢印を含意してしまうのは不適切なので、個人的には「グラデーション」だとか「色相環」だとか「文脈」「時間的連続性」だとか言えば良いのではないかと考える。加えて、私はそのようなものが本当に実在するのか、といった点に関しては非常に懐疑的である。あくまで、今ココに、現在に存在する私の、記憶・知識・知覚によって構成される世界が実在するだけで、過去や未来なんてものは思惟属性に過ぎないのではないか。延長属性とは言えないだろう、とか。
宇宙的恐怖の解決を図る: 現代科学的の宇宙論をスピノザ的に解釈
抑々、現代科学に於ける宇宙論としては様々なものが存在するが、私が以前「統合ゼミ」なるコミュニティーで宇宙論関係の自説を紹介した際、「確かどこかの博士が言ってた仮説と同じ」と言われたので、少なくとも2022年現在に於いては棄却されていない仮説として、「宇宙は無数個存在し、0か1か(=無か有か) の混沌 (平均値は1/2) の中で、偶々『1が連続したもの』こそが宇宙である」というものがある。無論、1が連続しなくなる所が「宇宙の端」乃至「宇宙の終わり/始まり」だと考えれば良い。
ここで私が10年以上抱えるある恐怖を紹介する。この宇宙が突如消えるのではないかという恐怖 (クトゥルフ神話用語を敢えて引用するならば「宇宙的恐怖」とでも言えるだろうか) が存在する。この恐怖にマトモに囚われると、恐らくは精神に異常を来すと判断した当時小2の私は思考を停止する事としたのである。(※この恐怖についてマトモに取り組んでいれば、恐らくは「超論理」を捨てて現世に戻ってきたNash Jr.の如き苦労をしていただろうので、個人的には英断だったと思っている。自慢終わり)
この「宇宙的恐怖」――この世界が5分前に始まった事を正当化できるように、この世界が今突然シャットダウンしてしまう事も正当化できてしまう恐怖――を敢えて開陳したのは、スピノザ的現在観による解決が図れる可能性があるからである。
まず私の仮説では、無限に0と1の満ち溢れた空間があり、その中で「1が連続する部分 (=有限) 」が、1つの世界だという解釈をしている。ところがスピノザ的現在観では、「1の部分」を1つにエイヤッと纏めてしまうらしい。(私の解釈が正しければ?) 。そうすれば、無限を半分にしようが無限でしかないので、「1の部分 (=有)」の無限化に成功する。しかも、「0の部分」は潜在的には1となる可能性を持っている (0にも潜在的本質がある、無限の本質を含む、というらしい) 。
しかも、「1の部分」同士は離散的であるとはいえ、互いに連関している (どう連関しているのか私には未だ分からないが) らしいので、そう考えれば「世界の無限化」に成功するのである。従って、斯くの如き「宇宙的恐怖」が解決される可能性が見出せたのである!!!
自然哲学計画
我が友人に依れば、檜垣なる人物の時間論と、シモンドンの存在論、そこにスピノザの世界モデルを組み込む事で、新たな自然哲学体系を構築しようという試みを打ち立てる予定らしい。
という訳で、シモンドンの数学的解釈でもやってみようかと思うなど。
以上