メモ:存在論関係
ブルアカ1章chap2を終えた頃、そういえばだけども、と思い付いた事のメモ。
ヒトを含め生物、或いは自己増殖体、いいや、物質やこの世界自体と言って差し支えないかもしれない、そういったものは一体何の為にあるんだろうねぇと。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか (D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?) 」或いは「何故何も無いのではなく、何かがあるのか (Why is there something rather than nothing?) 」と言った問題にも帰せられ得てしまうが故、問題の最終的解決を見る事はないのかもしれないが……
現代科学は「ただ、在るだけ」と扱い、特段そこに理由や根拠を提示していないけれども、人間というものは (何故か) 此処に意味を見い出したがるものである。
紛争地では「ただ意味もなく」どんどんと人が死んでいく訳だけれども、そこに事後的に意味を付与すべく「聖戦 (コーランに謂う小ジハード) 」を展開してしまう事すらある訳で。
結局の所、「我々は何故/何の為に生きているのか」という部分に結論は出せないだろう。何故なら、各々に小目的が与えられているか、人類や生物、物質といった全体に大目的が与えられているか、それともその両方か、どれにせよ、「何某の具体的目的 (=未来) のために現在が存在する」というのは、何か違うような気がするからである。
そう考えると、我々は何故「意味 (目的) を見出す」のか、意味を見出す事に意味はあるのか、といった疑問に帰せられ、最終的には「意味や目的を見出す者だけが残った (適者生存) 」と考えるのが妥当なのではないかとなる。
ここに私は現代科学の限界を見出してしまいそうである。
まあ生きてる理由なんてものは「誰かの為」ってのが一番分かり易いし、便利で"健全"だよねー、とは思う。
利他主義の下で全てを正当化可能であるから ――仮令それが全体主義であろうが何であろうが――。