恋愛論的何か: 恋愛結婚の自由と責任 etc…
誰が言ったか「自由には責任を伴う」という言葉がある。この言葉はフロイトの以下の言葉の引用を改変したものだとされる。個人的にはこの説が間違いな気もするのだが、一応紹介しておく。
似た表現として、バーナード・ショーはこう言っている。
両方ともインターネットから拾ってきたものなので、「自由には責任が伴う」という表現のネタ元かどうかは分からない。
さて、漸く本題に入るが、現代社会には「恋愛結婚の自由」というものが、まるで自由という名の束縛の如く、横たわっている。恋愛結婚するに当たって、私が重要視しているのは「三方良し」の精神だ。
ここで、よく知られる近江商人の三方良しについて、一応解説する。
①自分良し: 自らに不利益の無い事
②相手良し: 相手に不利益の無い事
③世間良し: 周囲に不利益の無い事
恋愛における「自分良し」は自明だろう、自身が満足する事である。問題は②・③である。
まずは分かり易い「世間良し」から考えてみよう。要するに互いの一族郎党や社会的地位・身分・門地がそれを許すのかという問題である。日本国憲法では次のようにあるが、私人間(しじんかん)の関係では、憲法なぞ殆ど無力である。
私に限らず、多くの人の場合、「家柄に見合う人と結婚しなさい」と言われてきただろう。それに、実際問題として家柄が不釣り合いな人と結婚するのは、互いのためにならない。自分の「分」を弁えよ、というのが近現代日本社会の基礎となっている朱子学の教えである。これに逆らうのは得策ではない。
結局の所、周囲に認めて貰えるような人間を見繕うのはとても大変である。時には身元調査をする事もある。というか、身元調査をしてから「好きかどうか」の判断を下すようにしている。仮に「好きかどうか」を先に判断してしまうと、「好きなのに周囲の反対が原因で付き合えない (或いは結婚できない)」といった悲しい状況を起こしてしまうからである。仮に駆け落ちでもしようものなら、経済的支援は勿論、周囲からは一切の支援を得られない状況となるため、このような状況では、自分1人で生きていくのが関の山であろう。
つまり、周囲からの支援無しに生きていく事は、「不可能ではないが窮めて困難」であるし、その困難に見合う幸せなんて存在しないので、交際や結婚には周囲による承認を得る必要がある。加えて、周囲からの支援を上手く引き出すためには、周囲の価値観に合った交際・結婚相手である事、要は「周囲に見せびらかしても問題がない事」が必要が生じるのである。
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次に「相手良し」について、これは実態把握が非常に困難でブラックボックスかのようにも思える要素である。
要は相手にとって満足な状態であればそれで良いのだが、ここで深刻な問題が存在する。私は人生でこれまで1回しか告白された事がない。いや1回あれば良いだろう、と言われそうではあるが、この1回は諸般の事情により「私が本人の意思を無視して半ば強制的に言わせたのではないか」という疑念があり、実質的にはゼロカウントなのである。端的に言えば、私はこれまで誰かに好きになって貰った事が無い、という事である。
誰かに好きになって貰うため、私は昔から(的外れの)"努力"をしてきた。具体的に言うと、「博識で聡明で天才」といった期待像を死守する事に努めてきた。(まあ某大学に落ちた事で「ただの雑学知ってる無価値な自己本位的ゴミ性格野郎」に堕した訳だが)
これまでの恋愛遍歴についてはまたいつか記すが、戦績だけ記すと16戦16敗である。細かいものも含めると20を超えると思うが、どの事例を含めても失敗率が100%なのは変わらないのが、悲しい事実である。
ハッキリ言うと、このままでは幾ら試行回数を増やしても失敗し続けるという事である。最近の男性に求められる「3高4低(高学歴・高収入・高身長・低姿勢・低依存・低燃費・低リスク)」のうち、学歴と身長以外は、今からでもどうにかなる要素である。ここを押さえれば、まだ望みがあるかもしれない。
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とはいえ、ここで私は思った。仮に様々な障壁を超え、無事に交際・結婚相手を見つけたとする。そうした時、果たして私はその人(相手)の人生を変えてしまって良いのかという問題である。自身に事故や病気で収入源が絶たれたり、生活が立ち行かなくなったりするような事があれば、相手にとっては「良し」どころか「悪し」である。「"自己"責任」の範疇では済まなくなってしまうのである。
私には、結婚相手の人生を変えてしまう覚悟が(少なくとも現在は)存在しない。
加えて、私がどうも恋愛に積極的になれないもう1つの事情がある。「アクセサリーのような感覚で人間を扱って良いのか?」という問題である。
これまでの話から分かるように、交際・結婚相手に求めているのは称号や記号にも違い、言わば「属性」ばかりで、その人個人の人間性や価値観・思想信条といった個人性の一切を捨象してしまっている。平たく言うなれば「その人と真面目に向き合っていない」というのが伝わり易いと思う。
「所詮アクセサリーだから、価値が劣化したら捨ててしまう」的な考え方は好きではない。そんな風に他人を扱いたくない。他人を散々利用して生きてきたのだから、自身が利用されるのは良いけれども、他者を利用したくはない。まるで偽善家のような主張である。
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私はここ最近、遂に「誰かを好きになる
事」が少なくなってきた。原因は恐らく、接する人間の総数が減少したからであるが。
接する人間の総数を増やそうとすると、私の周囲とはかけ離れた存在に出会う事がある。そうなると、「私が騙せてしまう女の子」と出くわす事がよくある。女の子側に惚れられてしまい、「唯一の理解者」のような立ち位置を占めてしまった事がある。
そうなれば、まるでカルト教団の教祖のようなもので、悪用する事が非常に容易なものとなる。よくクソ男ストーリーの話にある「汚れ仕事をやらせる」「捨てる」といった事が簡単に出来てしまうのである。
私は、喩え意図しないものであったとしても、そのような事態は絶対に避けたい。誰も不幸にはしたくない。そんな事にばかり思考が行くので、付き合えず仕舞いというか、そもそも付き合う気が起こらない。(それに、周囲に認めて貰えないので、付き合っても別れる事になり、その点が不誠実だと感じる)
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とか言いつつも、結局は全て「自分の事」しか考えていないのである。自分本位で自分勝手過ぎる。相手の事を何も考えていない。(だから彼女が出来ないのである)
そもそも論として、何故私は彼女が欲しいのかという問題であるが、これは偏に「現実から目を逸らしたい」だけなのである。
この世には、言ってはいけない不道理が大量にあるし、(あくまで自分の正義であり自己満足でしかないとは言え)他人を助けようにも十分には助けられないし、十分に助けられないのなら手を差し伸べるべきではない、という意見があるのも重々承知している。それでも私は、目の前に居る困っている人間に対して、誤用でない意味での姑息な(=対症療法的な)助けの手を差し伸べてしまう。根本的な解決を提示する能がある訳ではないのに。
もっと嫌なのは、自身の身近な範囲で、犯罪行為が集団的・組織的に行われているという事に対して、何ら抗う術を持たず、高々自身の身内と言えるような人間を守るので精一杯という現実である。そんな現状が堪らなく嫌である。
こんな現実から目を逸らしたいと思う一方で、逸らそうものなら、現実の側から襲い掛かってくる。昔々ならば神や信仰に委ねるという選択肢があった。悪いものも良いものもまとめて「神のせい」としてしまっていたのである。(まあ、私はそもそも真言宗徒なので「神のせい」というよりは「解脱しようぜ」という方向性なのだが)
この世に神仏が居ないのならば私が、と衆生救済が出来ないものかと考えていたのだけれども、やはり私の手持ちのリソースでは限界があり、「観測し得る全ての人々を救う事」は無謀である。
つまり、私は東に病気の人があろうと、南に死にそうな人が居ようと、北に喧嘩や訴訟があろうと、それらを全てどうにかし続ける事は不可能なのである。
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私にとって、「現実」とは「苦なるもの」であり、是正すべき対象である。しかし、現実問題として出来る事は限られている。自身が打てる手を全て打ったとしても解決しなかったり、時には一手も打てない事の方が多い。
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私はいつ頃からか「玄関扉を締めた直後に妻を抱き締めて甘える事」を夢見てきた。恐らくはドラマか何かでやっていた「お風呂にする? ご飯にする?」の変化形だと思うが、自分自身でもその由来や起因が分からない。
勿論、これがただの一方的行為であり、また性別役割分業といった前近代的バイアスを持っているシーンであると言われれば反論はできない。
せめて一瞬で良いから、全てを一旦棚の上に置いておける安らぎが欲しい。常在戦場の構えを取るのは非常にしんどいものである。一方で常在戦場の心構えでないと、守れないものがあるのも事実である。
恐らく丁度良い塩梅が「1日1回帰り着いた時に抱き締める」程度ではなかろうか、それ以上の甘えは停滞を招く、と個人的には思っている。