我こそは中華初代皇帝の子孫なり――誰が「絶家」だ
周知の通り(?)、我が筆名「曽我二十六」は、「素が26 (=26番目の素数=101)」や「平方数と立方数に挟まれた唯一の数字(26)」の掛け合わせだというのが「表向きの」筆名の由来である。
実は「曽我」の部分についてこの説明は後付けに過ぎない、という告白をコッソリ置いておく。「コメダねこ」や「カレーねこ」ではいけないのである。
この名は、13代の間、3度の婿養子を経て命脈を保ってきた、由緒ある名なのである。私は曽我の名を絶家とする気はない。伝説上は黄帝・秦始皇帝・弓月君を祖先とする長宗我部の血脈を現代に残す証拠なのであるから。
黄帝が炎帝を滅ぼし夏殷周の三代の祖となった事から、秦始皇帝の業績、秦河勝の貢献など、伝説上祖先とされる人物の業績を挙げればキリがないが、本稿では地に足の付いた話をする。
長宗我部家の子孫には幾つか考えうる系統がある。
大きく分けると、盛親系、重親系、阿古姫系の3系統である。なお「長宗我部康豊」については、本稿では子孫として扱わない。
①盛親系
長宗我部盛親 (元親四男) は、大坂の陣の後、家康を狙撃しようと山中に潜伏していた所、大坂城の小判を使った事で発覚してしまい、六条河原で処刑された。この際、盛親系の子孫は全滅したとされる。
但し、盛高 (盛親の次男) の子孫を名乗る人物が、2015年に京都の蓮光寺に鐙を持ち込んだらしい。但しこの鐙は「寺から譲り受けたものを持ち込んだもの」なので、この時点で子孫と確定した訳ではない。
https://web.archive.org/web/20150610025529/https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150610000034
②重親系
曽我の家はこの流れを汲む。世の中的に言えば「長宗我部右近大夫」(元親五男)の子孫である。前述の盛親系は断絶している(とされている)ので、現状として最も本家筋と言える血統である。
右近大夫の子孫であると主張し、各メディアに露出している(本当に重親系なのかは疑わしいが長宗我部の系譜ではあろう)「長宗我部雄親」なる人物が言うには、右近大夫の母は「光秀の姪」らしい。仮に真実ならば、元親が無理に残そうとしていた「源氏の血統」(※1)が、現代に残っている事となる。
ちなみに重親は「曽我大隅守重親」と名乗っていたらしく、私もたまに武家官位的な名乗りをする際には「曽我大隅守」を使用している。この辺、Wikipediaに書ける話は書いているので、良ければ参考に。
③阿古姫系
実在が確認される重親系以外の元親子孫の「もう1つ」の方。大坂の陣の時に伊達政宗に拾われた阿古姫の血統。伊達騒動にも登場した柴田外記が有名。香宗我部家もここを頼って仙台に行ったという。
※1: 信親の妻(石谷家の娘)と盛親を結婚させたのは「長宗我部家に源氏の血筋を入れる」という予定が信親の戦死で破綻してしまったためだという説がある。本稿ではこれを採用し、源氏で土岐家の子孫である光秀の血筋という事は、則ち源氏の血統という事になる。
まあ今回はメモ書き程度のものなので、この辺で。
ダラダラと書いても良いのだけど、数年前に4000年分の伝説上から江戸時代までの家系図を描いているので、これでも参考にして。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%AE%B6%C2%B7%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3.jpg