「距離」

戦争、震災、そういったものに対する追悼としての創作は多く存在する。僕はあまりそういったものを創作しない。僕は自分がそういうものに対峙する時、「距離」を感じるのだ。それは時間的、空間的、すべてにおいてである。戦争に関して言えば、時間的にも空間的にも経験的にも未知であり、史料に触れることでしかその凄みや悲しみなどは知り得ないのである。確かにそういったものを自分の中で消化し、昇華するのは一つの手として存在していると思う。だが、「距離」が存在していると意識した途端にそういった行為は不可能と僕は判断してしまう。何より、そこには僕の知りうる以上の死が存在し、「申し訳なさ」などの倫理的な「距離」が生じているのだから。僕には「黙祷」しか出来ないと断定せざるを得なくなる。今年で発生から七年経つ東日本大震災に関してもそうである。僕はこの震災をテレビやラジオ越しでしか知らないのだ。そんな僕には震災という出来事は空間的、倫理的「距離」があまりにありすぎるのだ(現に、単なる「出来事」としか表現出来ていないのだ)。この通り、僕には「黙祷」しかできない「距離」だ。きっとこれから先、このような事柄は多く生まれるだろう。その度に僕は合掌だけをしていきたい。思うところあって今日はこうやって語ることにした。

合掌。

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