”脆弱な男女”のよさについて
この時代のこの国においては、
男女が深く関わる際、その関係に名前がついていることが好まれる
最も社会的に認められるのが「夫婦」、すとんと納得されるのが「彼氏彼女」、半信半疑とされるのが「友人」
そのほかにも、「セフレ」「ソフレ」(?)など、呼称はあるが、わたしはそのどれにも当てはまらない相手との時間が非常に好きだ
例えば、バイト先の2つ下の男の子
誰とでも仲良くなれ、媚びない自然体な彼と会ったのは3か月ほど前で、初対面から異常に馬が合い週末に遊びに行く運びとなった
初めてのおでかけは吉祥寺、ノープランで12時間一緒にいた
雑誌編集部のバイトメンなだけあって、いつ会ったってお洒落で、顔だって正直けっこうタイプ
そのうえ「超下戸」「珈琲がすき」「歩くのがすき」「食べるのが遅い」「あそ文芸」、、、、共通点しかないとくるのだから、午前3時までの12時間もあっという間に溶けていった
酒なしに、軽ーいノリで哲学的な話ができるところ、
午前3時まで一緒にいたのに、持ち帰ろうとしないところも、よい
これはわたしの憶測だけれど、お互いに、like以上の好意が少なからずあると思う
しかし、先輩と後輩であること、これからもアルバイトが同じであること、大胆ではない性格が自分を踏みとどまらせる
相手のことを人間としてすきだからこそ、その場一瞬の考えでその関係を壊してしまいたくないし、元に戻らない歪みをつくりたくない
こんな、どんな関係の枠にも当てはまらない人間との時間の中にある、心情と現実の駆け引きのむずかゆさがとっても好きなのだ
”名前のつく関係”のもとでの異性とのかかわりは、正当な幸福を与えてくれる
皮肉ではなく、尊くてすばらしいものだ
その正当な幸福という概念下における「脆弱な男女の関係」を、私はこれからもひっそりと愛していきたい