【科学者#059】様々な大学を渡り歩き科学者から攻撃にあい自殺をした科学者【ルートヴィッヒ・ボルツマン】
第51回目で紹介したマイトナーは、ウィーン大学にはじめ入学するのですが、そこで教えていた理論物理学者に多大な影響を与えられます。
マイトナーは博士号を取得した後も、ウィーン大学で研究を続けるのですが、指南役をしてくれたのはマイトナーが尊敬する教授ではなく、その助手が行いました。
そのマイトナーが尊敬した科学者は、晩年双極性障害に悩まされ、そして苦しみの中で自分の命を断ってしまいます。
今回は、様々な大学を渡り歩き科学者から攻撃にあい自殺をした科学者であるルートヴィッヒ・ボルツマンを紹介します。
ルートヴィッヒ・ボルツマン
名前:ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン
(Ludwig Eduard Boltzmann)
出身:オーストリア
職業:物理学者・哲学者
生誕:1844年2月20日
没年:1906年9月5日(62歳)
業績について
ボルツマンは、熱力学の気体分子運動論を研究しているのですが、その研究過程で統計力学を創始します。
ボルツマンの気体分子運動論では、分子の力学的解析から熱力学的な性質を説明する際に統計力学を使うのですが、1872年にH定理により熱現象のエントロピーの増大を証明しました。
そしてこのH定理が統計力学の定理のひとつで、気体分子運動論の基礎の方程式であるボルツマン方程式の考察から導いたものになります。
この統計力学を創始したという業績のほか、ボルツマンは電磁気学や数学の研究を行っています。
生涯について
ボルツマンの少年時代は、オーストリアの作曲家でオルガニストのアントン・ブルックナーからピアノを学んでおり、ボルツマンは生涯にわたりピアノを弾くことが好きでした。
1866年にはウィーン大学から学位を授与され、その後はヨーゼフ・シュテファンの助手になります。
1869年にはグラーツ大学の数理物理学助教授に就任し、その後ハイデルベルク大学へ移り、さらにベルリン大学へ移ります。
そして、そこでは化学者であるロベルト・ブンゼンや物理学者であるグスタフ・キルヒホフ、生理学者、物理学者であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツから教えてもいます。
1873年にはウィーン大学の数学教授になり、1876年にはグラーツ大学に戻り実験物理学の教授になります。
ボルツマンは冗談半分に、
「自分が動きまわる理由としてはマルディグラの舞踏会の瀕死の時間帯に生まれからだ」
とよく言っていました。
ちなみにマルディグラとは、フランス語で「肥沃な火曜日」という意味で、謝肉祭の最終日のことになります。
ボルツマンは若い時から、憂鬱な気分と高揚した気分が交互に繰り返されることに悩まされていました。
1884年にはヘンリエッテと結婚し、1887年にはグラーツ大学の学長になり、1890年にはミュンヘン大学の理論物理学教授になります。
科学者との論争
1801年にジョン・ドルトンが原子論についての論文を発表したのですが、当時の科学界では完全に受け入れられませんでした。
しかしボルツマンは、このドルトンの原子論を支持する立場を取っていました。
そのため、原子論に反対していたエルンスト・マッハやヴィルヘルム・オストヴァルトらと対立し論争を繰り広げることになってしまいます。
1894年にはヨーゼフ・シュテファンが亡くなり、空席となったため、ウィーン大学の理論物理学教授としてボルツマンが戻ってくるのですが、原子論反対派のエルンスト・マッハが1895年にウィーン大学に来ます。
このマッハとボルツマンの2人は特に険悪な関係でした。
ボルツマンは1900年に、マッハと一緒に働くのが嫌だったためライプツィヒ大学に移ります。
しかし、ここでは原子論反対派のヴィルヘルム・オストヴァルトと同僚になってしまいます。
ボルツマンはオストヴァルトとの科学的議論に嫌気がさし、ライプツィヒ滞在中に自殺をはかるのですが、未遂に終わってしまいます。
1901年にはマッハが体調不良のためウィーン大学を退職したことで、1902年にウィーン大学の理論物理学教授に戻ることになります。
この時ボルツマンは、マッハの哲学講座も引き受けることになります。
ちなみに、ボルツマンの講義は特に好評で、フランツ・ヨーゼフの宮殿に招待されます。
1904年にはアメリカのセントルイス万国博覧会を訪れ、その後バークレーとスタンフォードを訪問します。
晩年になっても、ボルツマンに対する科学者たちの攻撃は続いたことで、双極性障害になり健康状態が悪化してしまいます。
そして1906年、保養地のイタリアのドゥイーノで妻と娘と一緒に静養中だったボルツマンは、妻と娘が泳いでいる間に首を吊って自殺してしまいます。
ボルツマンという科学者
ボルツマンは様々な大学を渡り歩き、統計力学など科学の発展に重要なものを数多く残してくれました。
しかし、原子論を支持する立場を取ったことで、激しい論争に巻き込まれてしまいます。
もともと若いときから精神的に悩まされていたこともあり、ボルツマンは自分の研究成果が実証される直前に自殺してしまいます。
今回は、様々な大学を渡り歩き科学者から攻撃にあい自殺をした科学者であるルートヴィッヒ・ボルツマンを紹介しました。
この記事でボルツマンについて興味をもってもらえると嬉しく思います。