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【科学者#098】離婚の慰謝料をノーベル賞の賞金で払った20世紀最高の物理学者【アルベルト・アインシュタイン】

第97回目で紹介した、スティーヴン・ホーキングは「ホーキング、宇宙を語る』の中で、出来る限り数式を入れないようにして執筆するのですが、どうしても省くことができなかった公式がひとつありました。

それが、E=mc²になります。

この数式を導き出したものが、20世紀最高の天才とも言われた科学者になります。

今回は、離婚の慰謝料をノーベル賞の賞金で払った20世紀最高の物理学者であるアルベルト・アインシュタインを紹介します。




アルベルト・アインシュタイン

名前:アルベルト・アインシュタイン
   (Albert Einstein)
出身:ドイツ帝国
職業:理論物理学者
生誕:1879年3月14日
没年:1955年4月18日(76歳)


業績について

アインシュタインは、20世紀の科学史において多大な影響を与えた科学者のひとりになります。

アインシュタインの主な業績としては、
特殊相対性理論
一般相対性理論
相対性宇宙論
ブラウン運動
光量子仮説
ボース=アインシュタイン凝縮
などになります。

アインシュタインは論文を提出し始めた当時は、大学で研究しているわけではない無名の特許局員だったため、その論文は科学者たちからは評価されませんでした。

しかし、第81回目で紹介したマックス・プランクが支持することにより、徐々に周りの科学者から受け入れられるようになります。



生涯について

アインシュタインの父親は、アンシュタインが生まれた1880年の夏に、弟に誘われて兄弟で電気機器を製造する会社を設立するため、一家でミュンヘンに引っ越します。

1881年には、妹が誕生します。

実はアインシュタインが5歳ごろまでは、あまり言葉を発して人と会話をしなかったと言われています。

5歳の時に、父親から方位磁針をもらい、自然界の仕組みに対する興味を持つきっかけになります。

さらに、ヴァイオリンを習い始め、モーツァルトの曲を好きになります。

同じ5歳の時には、ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校に3年間通い、卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウムに入学します。

ここでは7年間教育を受けるのですが、この学校は軍国主義的だったため、アインシュタインは学校になじむことができませんでした。

9歳の時には、ピタゴラスの定理の存在を知り、寝る間を惜しんで自力で定理を証明します。

12歳の時には、叔父からユークリッド幾何学の本を貰ったため、これを独学します。

この時期に、アインシュタインは微積分を独学で習得したと言われています。

さらに、当時医学を学んでいたマックス・タルメイから、天文学などの本を紹介してもらい影響を与えられ、物理学にも関心を持つようになります。

アルベルトが14歳の写真

1894年には父親と叔父の会社が行き詰ったため、新たなビジネスの機会を求めて、アインシュタイン以外の家族がイタリアのミラノへ引っ越すことになります。

アインシュタインは、ギムナジウムを卒業するまではミュンヘンに残ることになります。

しかし、軍国主義的なギムナジウムに反発し、1894年12月末に医者に書かせた診断書を口実にして退学を申し出ます。

1895年にはチューリッヒ工科大学を受験するのですが、総合点が合格基準点に足りなく不合格になります。

しかし、数学と物理の点数が最高ランクだったため、アーラウのギムナジウムに通うことを条件に、次年度の入学資格を与えられます。

このアーラウのギムナジウムは、ミュンヘンのギムナジウムと比べてある程度自由が保障されていました。

この頃のアインシュタインは、教師のヨスト・ヴィンテラーの家に住んでいたのですが、ヴィンテラーの娘であるマリーに恋をします。

1896年1月には、父親の許可のもとドイツ帝国の兵役義務から逃れるために、ドイツの市民権を放棄します。

1896年10月には、チューリッヒ工科大学に入学します。

この時期には、1歳年上だったマリーは教育資格を持っていたため、教師として着任するためスイスへと引っ越していました。

そのため、この時期にミレヴァ・マリッチという女性と出会い、恋人になります。

ミレヴァ・マリッチ

アインシュタインは、学校の講義にはあまり出席せず、自分の興味のある分野にだけ夢中になっていました。

さらに、大学時代には化学実験中に爆発事故を起こしてしまい、学校をパニックに陥れたり、教師に対しては反抗的でした。

1900年には、数学、物理学の教員資格試験に合格します。

1900年7月には、チューリッヒ工科大学を卒業するのですが、ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバーと不仲で助手にはなれなかったので、大学には残ることができませんでした。

ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバー

そのため、保険外交員や臨時の代理教員、家庭教師などのアルバイトをします。

1901年にはスイス国籍を取得したため、兵役義務があったのですが、扁平足と静脈瘤の診断により免除されます。

1902年には、ミレヴァが彼女の両親がいるノヴィ・サドでアインシュタインとの間にできた娘を出産するのですが、ミレヴァは子供を置いてスイスへ戻ります。

ちなみにその子供は、その後養女に出されます。

1902年には、友人であるマルセル・グロスマンの父親の紹介により、スイス特許庁に3級技術専門職として就職したことにより、物理学の問題に取り組む自由な時間が出来ます。

マルセル・グロスマン

この頃に、友人であるモーリス・ソロヴィン、コンラート・ハービヒトと共に、アカデミー・オリンピアを成立します。

このアカデミー・オリンピアでは、アインシュタインのアパートなどに集って哲学や物理学について議論していました。

左からハビヒト、ソロヴィン、アインシュタイン

さらに、この年には父親が亡くなります。

1903年1月6日にはミレヴァと正式に結婚し、1904年には長男が生まれます。

1905年の26歳の時は、アインシュタインの『奇跡の年』と言われており、3つの論文を発表します。

この3つの論文というのが、「光量子仮説」、「ブラウン運動」、「特殊相対性理論」になります。

実は、アインシュタインは博士号を取得するために「特殊相対性理論」に関する論文を書き上げ大学に提出するのですが、この論文は大学側に受け入れられませんでした。

そのため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出するのですが、この論文がその後「ブラウン運動」に発展してきます。

ちなみに、特殊相対性理論は第81回目で紹介したマックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界で受け入れられるようになります。

1906年には、特許局の2級技術専門職へ昇進します。

1907年にはE=mc²を発表したり、のちの一般相対性理論の基礎となる等価原理を考案します。

のちにアインシュタインは、これを「生涯最良の名案」であると言っています。

1909年には特許局に辞表を提出し、チューリッヒ大学の助教授となり、さらにジュネーブ大学より名誉博士号が授与されます。

1910年には、プラハ大学の教授になったり、次男が生まれます。

同じ年には、プランクがベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長にアインシュタインを推薦します。

1912年には、チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任します。

1913年には、プロイセン科学アカデミーの会員となります。

そして、同じ年にはベルリンに移住することになるのですが、移住した数か月後にアンシュタインは、いとこのエルザに対して恋愛感情があることが妻のミレヴァに知られてしまいます。

そのため、ミレヴァは長男と次男と共にチューリッヒに引越し、5年もの間別居が続きます。

このことに関しては、アインシュタインの家庭内暴力も一つの要因であったと言われています。

1919年2月には正式にミレヴァとの離婚の手続きが完了し、同じ年の6月にはエルザと再婚をします。

アインシュタインとエルザ

実は、当時のアインシュタインには、ミレヴァと離婚をするときに慰謝料を払う金銭的な余裕がなかったため、ノーベル賞を取ってその時の賞金をミレヴァに譲ることを約束し、離婚が成立しています。

そして、1921年にはノーベル物理学賞を受賞したため、賞金はミレヴァに渡されました。

1915年には、ロマン・ロランと出会い意気投合します。

ロマン・ロラン

そして、2人は命がけで平和活動をしている人々を手助けする方法について話し合います。

1916年には、一般相対性理論を発表します。

1917年には、肝臓病や黄疸などのいくつかの病気になり、自宅でエルザが看病にあたります。

1921年には、ハイム・ヴァイツマンの提案により、ヘブライ大学建設資金を調達するためにアメリカンを訪問し、その帰りにイギリスも訪問します。

さらに、1922年3月にはフランスを訪れて、同じ年の11月には日本を訪れます。

1923年には、エルサレムを訪問し、その後スペインを訪問しドイツに戻ります。

1929年にはベルギー王家を訪問し、ベルギー王妃エリザベートと親交を交わします。

1932年には、アメリカへ3度目の訪問をするためにドイツを出発します。

翌年には、ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得したため、ユダヤ人への迫害が激しくなったので、ドイツには戻ることがありませんでした。

1933年には、ベルギー王妃のご厚意によりアインシュタインはベルギーに一時的に滞在します。

最終的にイギリスからアメリカへ渡り、プリンストン高等研究所の教授に就任したため、プロイセン科学アカデミーを辞任することになり、ドイツはアインシュタインを国家反逆者とします。

1935年にはアメリカで永住権を申請し、1936年にはエルザが亡くなってしまいます。

1939年には、アメリカのフランクリン・ルーズベルトにあてた「原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙」に署名します。

その手紙には、「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容が書かれていました。

1940年にはアメリカ国籍を取得し、1943年にはアメリカ合衆国海軍省兵器局の顧問に就任します。

1945年には原子爆弾が投下され、アインシュタインは衝撃を受けます。

1945年9月2日には第二次世界大戦が終結し、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説します。

1948年にはイスラエルが建国され、アインシュタインはユダヤ系の知識人と共にテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表します。

1952年にはイスラエルの初代大統領が亡くなり、イスラエル政府はアインシュタインに第2代大統領の就任をお願いするのですが、これを辞退します。

1955年4月11日にはラッセル=アインシュタイン宣言に署名するのですが、2日後の4月13日には心臓付近の痛みに倒れ、15日にはプリンストン病院に入院します。

周囲からは手術を勧められるのですが、アインシュタインはこれを拒否し、3日後の18日には亡くなってしまいます。

実は、アインシュタインはドイツ語で遺言を残しているのですが、担当の看護師がドイツ語が出来なかったため、その内容は不明のままになっています。



アインシュタインという科学者

アインシュタインの遺体は、焼却されアメリカのデラウェア川に流されます。

実は、検死を行ったトマス・シュトルツ・ハーヴェイは、遺族の了承を得ずにアインシュタインの脳だけを持ち帰ってしまいます。

そして、40年間もアインシュタインの脳を手元に置き、スライスした脳を欲しいと言った知人に配布していました。

そのため、世界各地の博物館や科学館にはアインシュタインの脳のスライスが展示されています。

その後、ハーヴェイは脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却しています。

アインシュタインは、大学時代は問題を起こしたりし、大学に残ることができず就職しつつ論文を書き上げます。

その後、特殊相対性理論の論文を書くのですが、はじめは周りには認められなかったのですが、徐々に当時の権威ある科学者たちに認められ、科学史の中でも有名な科学者のひとりになります。

今回は、離婚の慰謝料をノーベル賞の賞金で払った20世紀最高の物理学者であるアルベルト・アインシュタインを紹介しました。

この記事で、少しでもアインシュタインについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

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