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【科学史年表】1750年~1799年


1750年

ダニエル・ベルヌーイ バーゼル大学で物理学の教授に任命される

1752年

カール・フォン・リンネ 『乳母の弊害』に関する論文を執筆

1753年

カール・フォン・リンネ 「植物種誌」を出版
ヘンリー・キャヴェンディッシュ 学位を取得することなく退学
杉田玄白 小浜藩の医者になる

1754年

山脇東洋 処刑された罪人の人体解剖を国内ではじめて行う
アントワーヌ・ラヴォアジエ(1754年-1761年) マザラン学校に通う

1755年

9月28日ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(19歳)トリノの王立学校の数学教授職に任命

1756年

9月2日ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ ベルリンのアカデミーに選出

1757年

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ トリノの科学協会の創設メンバーになる
ジェームズ・ワット グラスゴー大学構内に工房ができる
カール・フォン・リンネ アドルフ・フレドリク王により貴族に任命される
杉田玄白 小浜藩に籍を置きながら日本橋で町医者として開業
7月杉田玄白 田村藍水や平賀源内たちが物産会を主催⇒蘭学者と交流する
7月ウィリアム・ハーシェル ハノーファーに戻る

1758年

ウィリアム・ハーシェル イングランドに戻る⇒音楽で生計を立てる
1月10日カール・フォン・リンネ(70歳)死去

1760年

ヘンリー・キャヴェンディッシュ 王立協会会員になる
ヘンリー・キャヴェンディッシュ 水素(フロギストン)の発見についてという論文を書く
ウィリアム・ハーシェル ノース・ヨークシャーに住み始め、交響曲を作曲し始める

1761年

アントワーヌ・ラヴォアジエ パリ大学の法学部に進学
ジェームズ・ワット 友人を通じて蒸気機関を知る⇒設計を試み実験を行う

1763年

アントワーヌ・ラヴォアジエ 学士号を取得

1764年

アントワーヌ・ラヴォアジエ 弁護士試験に合格して高等法院法学士になる
ヨハン・ヴィルケ 電気盆を発明
ジェームズ・ワット マーガレット・ミラーと結婚
ウィリアム・ハーシェル ハノーファーで短い休暇を取る

1765年

ジェームズ・ワット 実際に作動する蒸気機関の模型を作製して蒸気機関の設計を完成
杉田玄白 藩の奥医師になる
杉田玄白 西善三郎からオランダ語の学習は困難だと諭される

1766年

9月6日ジョン・ドルトン誕生

ジョン・ドルトン

ドルトンは12歳という若さで教師となり、その後は様々なところで学びながら、ドルトンの法則や原子論を提唱し科学界に大きな影響を与えました。
ドルトンは1度も結婚もせず、友人も少なかったと言われています。
年に1度、湖水地方に旅行に出掛けるときと、時々ロンドンに出掛けるとき以外はマンチェスターで研究に明け暮れていました。

4月9日アントワーヌ・ラヴォアジエ パリ科学アカデミーで論文が一等賞をとる
レオンハルト・オイラー
 サンクトペテルブルクに戻る
レオンハルト・オイラー 病気でほぼ全盲になる
ヘンリー・キャヴェンディッシュ 亜鉛・鉄・スズに硫酸や塩酸を加えると燃える気体が発生すると発表
ウィリアム・ハーシェル バースに家を借りる
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ ダランベールがベルリンのアカデミーでの職を提供するように手配⇒断る
11月6日ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ ベルリンのアカデミーの数学部長をオイラーから引き継ぐ

1768年

3月21日ジョゼフ・フーリエ誕生

ジョゼフ・フーリエ

フーリエは、はじめは司祭になるため訓練を受けていたのですが、数学への関心が消えることがなかったため、徐々に数学者への道に進んでいきます。しかし、フランス革命により革命側を支持し投獄されてしまいます。
運良くギロチンは避けられたのですが、その後はナポレオン政権下で知事などを行い、研究に集中することができませんでした。
様々な社会情勢に翻弄されながらも、フーリエは現在の解析学に欠かすことのできない業績を数多く残してくれました。

5月18日アントワーヌ・ラヴォアジエ パリ科学アカデミーの会員になる
アントワーヌ・ラヴォアジエ(1768年-1769年) ペリカンの実験を行う
アントワーヌ・ラヴォアジエ 徴税請負人の仕事に就く

1769年

ベンジャミン・トンプソン ボストンのホープスティルカペンに雇われる
杉田玄白 父親が亡くなる⇒家督と侍医の両方を継ぐ

1770年

6月1日ウィリアム・ハーシェル 弟のアレクサンダーを自分が住んでいたバースに招待

1771年

レオンハルト・オイラー 白内障の手術するが全盲になる
杉田玄白 中川淳庵が『ターヘル・アナトミア』を持って訪ねてくる
12月6日アントワーヌ・ラヴォアジエ(28歳) マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ(13歳)と結婚

1772年

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 「3体問題に関する研究」についてを発表する
ジョゼフ・プリ―ストリー 亜酸化窒素(笑気ガス)を発見
アントワーヌ・ラヴォアジエ 貴族の地位をお金で手に入れる
ベンジャミン・トンプソン 年上で裕福な女性であった未亡人のサラ・ロルフに気に入られる
ジェームズ・ワット 妻が亡くなる
ウィリアム・ハーシェル 妹のキャロラインに歌、チェンバロ、簿記のレッスンを受けさせる

1773年

6月13日トマス・ヤング誕生

トマス・ヤング

ヤングが生きていた時代は、アイザック・ニュートンがイギリスの科学者から高く評価さていたため、ニュートンと矛盾することを提唱すると笑われてしまいました。ニュートンは光の粒子説を提唱していたため、ヤングの光の波動説も批判されてしまいます。ヤングは小さい頃から神童と呼ばれ、特にはじめは語学系で才能を発揮します。その後は医学を様々な学校で学び、数学や物理学は独学で習得していきます。

ベンジャミン・トンプソン(19歳) サラ・ロルフ(33歳)と結婚
3月31日ピエール=シモン・ラプラス パリ科学アカデミーの副会員に選出
9月ウィリアム・ハーシェル グレゴリー式望遠鏡を購入

1774年

4月21日ジャン=バティスト・ビオ誕生

ジャン=バティスト・ビオ

ビオは、好奇心、技巧、洞察力、正確さ、独創的な分析、方法論、明晰さのすべての素質を備えていました。
はじめビオは商人のための数学を学んでいたのですが、その後軍に入隊したり様々なことを経験し、大学を卒業してすぐに数学教授に就くことが出来ます。
その後、ラプラスに支援してもらいながらも様々な業績を残し、多くの賞を授与されました。

1月アントワーヌ・ラヴォアジエ 質量保存の法則を発見
4月アントワーヌ・ラヴォアジエ 「レトルトの実験」を行う
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 「月の運動に関する研究」を発表する
10月18日ベンジャミン・トンプソン 子どものサラが誕生
アレッサンドロ・ボルタ コモ国立ギムナジウムの物理学の教授になる
杉田玄白 『解体新書』を出版

1775年

1月20日アンドレ=マリ・アンペール誕生

アンドレ=マリ・アンペール

アンペールは、13歳のときには論文をアカデミー提出し、数学の勉強が足りないと思い、ほぼ独学で数学の知識を身につけました。
そして、その数学の知識を使い、電気や光などの様々な分野で活躍しました。そんなアンペールをジェームズ・クラーク・マクスウェルは『電気学のニュートン』と呼びました。
ニュートンは数学を力学に応用した科学者ですが、そんなニュートンようにアンペールは数学を電気に応用し偉大な業績を残してくれました。

4月19日 アメリカ独立戦争
アレッサンドロ・ボルタ 電気盆を改良
アントワーヌ・ラヴォアジエ 火薬硝石公社の火薬管理監督官になる

1776年

8月9日アメデオ・アヴォガドロ誕生

アメデオ・アヴォガドロ

アヴォガドロは、はじめ法律家として仕事をしていくのですが、趣味として数学や物理の研究をします。
そしてトリノ科学アカデミーの正会員になると、大学で職を得ることができ研究を行っていきます。
しかし、アヴォガドロの代表的な研究であるアボガドロの法則や原子量についての仮説は、アヴォガドロが生きている間には難解すぎたこともあり評価されませんでした。

ジェームズ・ワット ポンプロッドに上下運動を伝えるものが組み上がる
アントワーヌ・ラヴォアジエ 兵器廠(へいきしょう)に移り住み実験室をつくる
レオンハルト・オイラー サンクトペテルブルクのアカデミーの物理学部長に任命される
ベンジャミン・トンプソン 妻子を見捨ててイギリス側に逃亡
アレッサンドロ・ボルタ(1776年-1777年) 沼に発生する発火性のガスが水とは異なるものであることを発見
杉田玄白 「天真楼」を開く

1777年

4月30日カール・フリードリヒ・ガウス誕生

カール・フリードリヒ・ガウス

ガウスは、信心深く、保守的な人物で、君主制を支持し、フランス革命の際にはナポレオンと対立しました。
さらに、人と打ち解けることがかなり苦手で、厳粛な人物だったこともあり、ガウスは自分の研究成果を生きている間に全て発表しませんでした。
ガウスにとって研究成果こそが最大の報酬であり、他人からの評価は気にしていなかったことと、研究成果を発表することで論争を避けるため発表しなかったと言われています。

アントワーヌ・ラヴォアジエ 燃焼は「物質と気体が結合する」ことを説明ジェームズ・ワット アン・マクレガーと再婚
9月29日ウィリアム・ハーシェル バースの中心部の庭園がある場所に引越し、庭園で天体観測を行う

1778年

12月17日ハンフリー・デービー誕生

ハンフリー・デービー

はじめは木彫り職人の子どもとして生まれ、決して裕福ではなかったデービーですが、化学実験への熱意と詩的な表現を使い女性たちの心をつかみ講演の名手と呼ばれ、準男爵の地位まで手に入れました。
デービーはマイケル・ファラデーを助手に雇い、その才能を育てたことも業績のひとつだと言えますが、その後ファラデーの才能に嫉妬してしまいます。

ジョン・ドルトン(12歳)教師になる

1779年

アントワーヌ・ラヴォアジエ 「oxygène(酸素)」と名付ける
アレッサンドロ・ボルタ パヴィア大学で実験物理学の教授になる
ウィリアム・ハーシェル バースの文学哲学協会に招待⇒協会の近くに引っ越す

1780年

ルイージ・ガルヴァーニ 解剖したカエルの足の筋肉に電気が流れて筋肉が痙攣する現象を発見
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 「惑星による彗星の軌道の摂動に関する研究」を発表
ジョゼフ・フーリエ 王立陸軍士官学校に入学
ウィリアム・ハーシェル バースのオーケストラの指揮者に任命

1781年

6月21日シメオン・ドニ・ポアソン誕生

シメオン・ドニ・ポアソン

小さい頃は健康状態が悪く初等教育を受けられなかったポアソンは、学校に通うことにより数学の能力が開花し300以上の著作を残したのですが、自国のフランスには評価されませんでした。
しかし、外国の数学者たちからは評価され、1818年にはロンドン王立協会のフェローに選出され、1832年にはコプリ・メダルが贈られます。

3月ウィリアム・ハーシェル 庭園があった家に戻ってくる
3月13日ウィリアム・ハーシェル 天王星を発見
11月ウィリアム・ハーシェル コプリ・メダルが授与
12月6日ウィリアム・ハーシェル ロンドン王立協会に選出
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ ナポリのアカデミーの哲学部長のポストを提案される⇒断る
ヘンリー・キャヴェンディッシュ オームの法則を発見

1782年

3月17日ダニエル・ベルヌーイ死去(82歳)
アンドレ=マリ・アンペール ポレイミューで多くの時間を過ごす
トマス・ヤング ドーセットの学校に入学

1783年

9月18日レオンハルト・オイラー死去(76歳)
ベンジャミン・トンプソン ドイツに移る

1784年

ヘンリー・キャヴェンディッシュ 論文『水の合成について(水素と酸素の反応)について』を提出
ピエール=シモン・ラプラス 王立砲兵隊の審査官に任命

1785年

ピエール=シモン・ラプラス 16歳のナポレオン・ボナパルトを審査し合格させる
ピエール=シモン・ラプラス パリ科学アカデミーの上級職に昇進

1786年

トマス・ヤング ドーセットの学校を卒業

1787年

2月18日ウィリアム・ハーシェル アメリカ哲学会会員に選出
5月18日ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ パリ科学アカデミーの会員になる
ジョゼフ・フーリエ 修道院に入る
アントワーヌ・ラヴォアジエ 「化学命名法」を提案
アントワーヌ・ラヴォアジエ オルレアンの地方議会で第三身分の代議員になる
ジョン・ドルトン 自らの色覚を題材にした論文を発表

1788年

5月15日ピエール=シモン・ラプラス(39歳) マリーと結婚(19歳)
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 『解析力学』を出版
ウィリアム・ハーシェル 友人の妻(未亡人)で裕福だったメアリー・ピットと結婚

1789年

3月16日ゲオルク・オーム誕生

ゲオルク・オーム

父親が独学で子どもたちに教育を施し、大学まで行くことができたのですが、その後は色々ありながらも研究し続け、最終的に大学教授の地位まで手に入れます。実は、オームは当時ドイツ国内では業績を認められなかったのですが、国外では評価されています。1841年には王立協会からコプリ・メダルが授与され、1842年には王立協会の外国人会員になります。

8月21日オーギュスタン=ルイ・コーシー誕生

オーギュスタン=ルイ・コーシー

コーシーは、エヴァリスト・ガロアやニールス・アーベルの論文を紛失してしまいます。そのため、コーシーは数学者としては有能だったのですが、他の数学者の才能を見抜く能力はなかったと言われています。実は、コーシーは困窮した生活のため病身になり、生涯健康面に配慮して暮らしていました。そんな体調面が不安な中で、数学の才能を開花させ、数々の業績を残しました。

7月14日 バスティーユが襲撃される
ジョゼフ・フーリエ パリでフランス革命に遭遇
アントワーヌ・ラヴォアジエ 「化学原論」を出版
8月28日ウィリアム・ハーシェル 土星の衛星エンケラドゥスを発見
9月ウィリアム・ハーシェル 土星の衛星ミマスを発見

1790年

3月12日ジョン・フレデリック・ダニエル誕生

ジョン・フレデリック・ダニエル

ダニエルは、若いときからもの作りの才能を開花させ、気象学関連、そして電気関連の発明品を数多く残してくれました。さらに、その発明品により重要な記録を残してくれたり、ダニエル電池によりさらに化学が発展していきました。ダニエルの最後は、キングス・カレッジで講義を行った後で、王立協会の理事会に出席し、講演をした直後に脳卒中で5分以内に発作を起こし亡くなってしまいます。

5月ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 度量衡を標準化する委員会のメンバーになる
5月ピエール=シモン・ラプラス 度量衡を標準化する委員会のメンバーになる
ジョゼフ・フーリエ エコール・ミリテールで数学教師になる

1791年

9月22日マイケル・ファラデー誕生

マイケル・ファラデー

若いときは貧困に苦しみ、十分な勉強ができなかったファラデーですが、働き先の製本業の合間に本を読み知識を身に付け、科学への熱意からデービーに手紙を送り助手になりました。
そして、そこで様々な化学実験を行い、重要な発見をします。
ドイツの物理学者のフリードリッヒ・コールラウシュは、「ファラデーは真理を嗅ぎつける」と表現しています。
そのくらい、ファラデーは実験においての嗅覚が鋭く、高度のな数学の知識がなくても歴史に名を残す偉大な科学者になりました。

アレッサンドロ・ボルタ 動物電気という現象を研究し始める
ベンジャミン・トンプソン 神聖ローマ帝国からランフォード伯の称号を得る
カール・フリードリヒ・ガウス カール・ヴィルヘルム・フェルディナントから援助を受ける
ジャン=バティスト・ビオ リセ・ルイ=ル=グランを卒業

1792年

アントワーヌ・ラヴォアジエ 政府関係の職を全て辞任
アメデオ・アヴォガドロ 法学と哲学を修めて学校を卒業
トマス・ヤング ロンドンに引越し医学の勉強を始める
3月ウィリアム・ハーシェル 息子が生まれる

1793年

ジョゼフ・フーリエ 革命側を支持しオセールの革命委員会に加わる
5月30日トマス・ヤング ロンドン王立協会に論文を提出
9月ジャン=バティスト・ビオ 砲兵として軍に入る
9月ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 全ての財産を没収することを命じる法律が可決⇒ラグランジュは例外として認められる
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ 数学への関心を持ち始める
11月24日アントワーヌ・ラヴォアジエ 徴税請負人を全員逮捕すべく指名手配される⇒投獄される

1794年

1月ジャン=バティスト・ビオ エコール・ナショナル・ポン・ゼ・ショセの入学試験を受け合格
5月8日アントワーヌ・ラヴォアジエ(50歳)フランス人民に対する陰謀の罪でギロチンで処刑
6月19日トマス・ヤング ロンドン王立協会のフェローに選出
トマス・ヤング エディンバラ大学に入学
7月ジョゼフ・フーリエ オルレアン事件に関連した容疑で投獄
ジョゼフ・フーリエ エコール・ノルマルで勉強するように指名される
11月ジャン=バティスト・ビオ エコール・ポリテクニークに転校
ジェームズ・ワット ボールトン・アンド・ワット社を設立
ハンフリー・デービー 父親が亡くなる⇒外科医に弟子入り(年季奉公)する
アレッサンドロ・ボルタ テレーザ・ペレグリーニと結婚

1795年

9月1日ジョゼフ・フーリエ エコール・ポリテクニークで教える
10月トマス・ヤング ゲッティンゲン大学へ行き試験を受ける
カール・フリードリヒ・ガウス ゲッティンゲン大学に入学
ジョン・ドルトン 自らの眼球組織を調査
エコール・ノルマル(フランス国立高等師範学校)が設立

1796年

2月17日フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト誕生

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

シーボルトは医学界の名門であるシーボルト家に生まれ、医学の道に進んでいきます。しかし、町医者だけでは満足できずに東洋学研究も行い、長崎の出島に来ることになります。日本では様々なものを収集し、さらに鳴滝塾を開設し日本人への蘭学教育を行うのですが、江戸幕府から持ち出してはいけないものを国外に持っていこうとしたことが発覚し、最終的には日本から追放処分を言い渡されます。

3月30日カール・フリードリヒ・ガウス 正17角形が作図できることを発見
4月30日トマス・ヤング ゲッティンゲン大学に合格
トマス・ヤング 医学の学位を取得
7月トマス・ヤング ゲッティンゲンを出発
ベンジャミン・トンプソン 娘のサラを自分のところに呼び寄せる
アメデオ・アヴォガドロ 教会法に関する論文で学位を取得
シメオン・ドニ・ポアソン 父親がフォンテーヌブローにポアソンを送る

1797年

2月トマス・ヤング イングランドに戻ってくる
12月13日トマス・ヤング 祖父が亡くなり⇒財産が入る
アンドレ=マリ・アンペール ジュリーと婚約し数学の家庭教師を始める
ジョゼフ・フーリエ 分析と力学の委員長に任命
ジャン=バティスト・ビオ ボーヴェのエコール・サントラル・ド・ロワーズの数学教授に就任

1798年

ジョゼフ・フーリエ ナポレオン軍のエジプト侵攻に科学顧問として参加
6月10日ジョゼフ・フーリエ マルタが占領
7月1日ジョゼフ・フーリエ ナイル川のデルタが占領
8月1日ジョゼフ・フーリエ ナイルの海戦が起こる⇒負ける
10月2日ハンフリー・デービー 気体研究所で働く
ヘンリー・キャヴェンディッシュ 地球の密度の測定についての論文を書く
カール・フリードリヒ・ガウス ヘルムシュテット大学に移る
シメオン・ドニ・ポアソン エコール・ポリテクニークで数学を勉強し始める

1799年

カール・フリードリヒ・ガウス ボーヤイ・ファルカシュと友人になる
ベンジャミン・トンプソン イギリスに王立研究所を設立
ピエール=シモン・ラプラス ナポレオンのもとで元老院の議院として働くアンドレ=マリ・アンペール ジュリーと結婚
ジョゼフ・フーリエ ナポレオンは軍隊を放棄しパリに戻る⇒フーリエ達は取り残される
ジャン=バティスト・ビオ ピエール=シモン・ラプラスに校正をお願いする

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