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【科学者#096】天才的なひらめきにより独自に研究をしたインドの魔術師【シュリニヴァーサ・ラマヌジャン】
科学史上、短命だった科学者は何人かいます。
例えば、第44回目に紹介したエヴァリスト・ガロアは、決闘の末20歳の若さで亡くなってしまいます。
さらに、第63回目で紹介したニールス・アーベルは、病気の末26歳の若さで亡くなってしまいます。
そんな、ガロアやアーベルのように若い時に亡くなり、その短い人生の中で多くの業績を残したインドの科学者がいます。
今回は、天才的なひらめきにより独自に研究をしたインドの魔術師と呼ばれたシュリニヴァーサ・ラマヌジャンを紹介します。
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
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名前:シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
(Srinivasa Ramanujan)
出身:インド
職業:数学者
生誕:1887年12月22日
没年:1920年4月26日(32歳)
業績について
ラマヌジャンは、短い人生の中で多くの業績を残しています。
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ラマヌジャンの名前が付いているもだけでも、
ランダウ・ラマヌジャンの定数
ラマヌジャン予想
ラマヌジャン素数
ラマヌジャン・ソルドナー定数
ラマヌジャンのテータ関数
ラマヌジャンの和公式
ロジャース・ラマヌジャン恒等式
があります。
ラマヌジャンは、独自に3900近くの恒等式や方程式を残し、全く新しい数学分野を切り開き、その後の数学の研究に大きく貢献しました。
生涯について
ラマヌジャンは、現在のインドのチェンナイであるマドラスの南西400㎞にある小さな村に住んでいた祖母の家で生まれました。
1歳の時には、母親とマドラスから160㎞離れた町に行きます。
ちなみに、ラマヌジャンの家庭は厳格なヒンドゥー教徒で、母親から徹底した宗教教育を受けていました。
ラマヌジャンのは、クンバコナムで布商人の店員として働いており、小さい頃からあまり裕福ではありませんでした。
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1889年12月には、天然痘にかかってしまいます。
5歳の時にはクンバコナムの小学校に入るのですが、その後何校かの学校に通います。
1898年1月には、クンバコナムの高校に入学し、全ての科目で良い成績でした。
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1900年には、独自に数学の幾何学や級数に取り組み始めます。
1902年には3次方程式を解く方法を教えられ、その後4次方程式を解く方法を独自で見つけます。
15歳の時には、イギリスの数学者ジョージ・カーの『純粋数学要覧』という数学公式集に出会い数学に没頭していきます。
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1904年の時には、さらに独自で数学の研究を続け、オイラー定数を小数点以下15桁まで計算したり、ベルヌーイ数の研究を始めたりします。
その後、成績が良かったため奨学金を貰い、クンバコナムのガバメントカレッジ大学に入学します。
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しかし、翌年には数学に多くの時間を割き、他の教科をないがしろにしたため奨学金がもらえなくなってしまいます。
そのため、お金が無くなり苦しくなったため、両親に黙ってマドラスの北650㎞にあるヴィシャーカパトナムに逃げます。
その後も数学の研究を続け、超幾何級数について取り組みます。
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1906年にはマドラスへ行き、パッチャイヤッパル大学に入学します。
この大学に入った目的はマドラス大学に入学することで、パッチャイヤッパル大学の講義に出席しながら、マドラス大学の入学試験の勉強をします。
ラマヌジャンは途中病気になったりするのですが、試験を受けることができます。
しかし、数学は合格したのですが、他の教科は不合格だったためマドラス大学に入学できませんでした。
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その後の数年間は、独自で数学の研究を行います。
1908年には重い病気になり、1909年4月には手術を受けるのですが、体調が回復するまではかなりの時間がかかります。
1909年7月14日には、母親が手配した10歳の少女と結婚します。
しかし、ラマヌジャンは妻が12歳になるまでは一緒には暮らしませんでした。
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1911年には、ベルヌーイ数に関する研究論文を書くのですが、この研究が認められ、ラマヌジャンは数学の天才として知られていきます。
1911年には、マドラスの会計総局の臨時職員に任命されます。
1912年には、マドラスの港湾事務所の事務員に応募し、1912年3月1日に書記官に任命され働きはじめます。
1913年5月には、マドラス大学がラマヌジャンに2年間の奨学金を与えます。
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同じ年には周囲の勧めもあって、
イギリスのミカヤ・ジョン・ミュラー・ヒル(1856年-1929年)、
ヘンリー・フレデリック・ベイカー(1866年7月3日ー1956年3月17日)、
アーネスト・ウィリアム・ホブソン(1856年10月27日 - 1933年1月19日)
に自分の研究成果を記した手紙を送るのですが、全て返信がありませんでした。
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しかし、ケンブリッジ大学のゴッドフレイ・ハロルド・ハーディだけは、その手紙の内容に驚きます。
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ラマヌジャンの手紙の中には、この分野の権威であるハーディでも真偽をすぐに判断できないものや、ハーディが証明した未公開のものと同じものが書かれていたものがありました。
1914年には、ハーディがラマヌジャンをケンブリッジ大学のトリニティカレッジに呼び寄せます。
1914年3月17日にインドを出航し、4月14日にはロンドンに到着し、エリック・ハロルド・ネヴィルと出会います。
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4月30日にはトリニティカレッジの部屋に移動し生活し始めるのですが、ヒンドゥー教徒で厳格な菜食主義者だったラマヌジャンは、食生活に問題を抱えます。
さらに、第一次世界大戦が勃発したこともあり特別な食料品の入手が困難になり、健康上の問題を抱えるようになります。
1914年6月には、入学資格を持っていないにも関わらず、ケンブリッジ大学の入学を許可されます。
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1915年の冬には、冬の天候になれず病気になります。
1916年3月16日には、学位を取得し、ケンブリッジ大学を卒業します。
1917年には重病にかかるのですが、この年の9月までには少し改善します。
1918年2月18日には、ケンブリッジ哲学協会のフェローに選出され、同じ年の5月2日には王立協会のフェローに選出されます。
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1918年10月10日には、ケンブリッジ大学のトリニティカレッジのフェローに選出されます。
1918年11月末までには健康状態が大幅に改善します。
1919年2月27日にはインドへ出航し、3月13日にはインドに到着するのですが、健康状態が悪くなってしまい翌年に亡くなってしまいます。
ラマヌジャンという科学者
ラマヌジャンは、定理で埋め尽くされた未発表のノートを残して亡くなってしまうのですが、それらはジョージ・ネビル・ワトソンが論文として発表しています。
ラマヌジャンは、若い頃から数学の能力が開花し、独自で研究してきました。
成長してからは、学校を退学したり、行きたい大学に入学できなかったりと、困難な中研究を続け、天才的なひらめきにより数学の権威であるゴッドフレイ・ハロルド・ハーディを驚かせました。
しかし、若い頃から何度も体調を崩して、最後は32歳の若さで亡くなってしまいます。
今回は、天才的なひらめきにより独自に研究をしたインドの魔術師であるシュリニヴァーサ・ラマヌジャンを紹介しました。
この記事で少しでもラマヌジャンについて興味を持っていただけると嬉しく思います。