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【科学者#087】DNAの二重らせん構造を発見しノーベル賞のメダルを売った科学者【ジェームズ・ワトソン】
現在、DNAが二重らせん構造をしているということは、中学校の理科の授業でも軽く教えられますが、この論文が科学雑誌に掲載されてからはまだ100年も経っていません。
そんな二重らせん構造を発見した科学者は、様々な逸話や疑惑はあるのですが、分子生物学を発展させた科学者のひとりとして挙げられます。
今回は、DNAの二重らせん構造を発見しノーベル賞のメダルを売った科学者であるジェームズ・ワトソンを紹介します。
ジェームズ・ワトソン
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名前:ジェームズ・デューイ・ワトソン(James Dewey Watson)
出身:アメリカ合衆国
職業:分子生物学者
生誕:1928年4月6日
業績について
ワトソンは1950年頃に、グアニン、シトシン、アデニン、チミンの4つの塩基とデオキシリボースとリン酸基の分子模型を用いて、DNA構造の研究をしていました。
ちょうどその時に、ロザリンド・フランクリンが撮影したX線回折の写真をモーリス・ウィルキンスから紹介されます。
そして、そのデータを参考にしてフランシス・クリックらと共同で研究しDNAの二重らせん構造を発見します。
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これによりワトソン、クリック、ウィルキンスの3人は、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
生涯について
ワトソンと父親はバードウォッチングが趣味だったので、ワトソンははじめ鳥類学を専攻しようとしていました。
15歳の時には奨学金をもらってシカゴ大学に入学し、ルイ・レオン・サーストンから因子分析について学びます。
1946年には、第57回目で紹介したエルヴィン・シュレーディンガーの『生命とは何か』を読んだあと、鳥類学の研究から遺伝学へと興味を変えます。
1947年にはシカゴ大学で動物学の学士号を取得し、その後はインディアナ大学の大学院生になります。
1950年には、インディアナ大学でサルバドール・エドワード・ルリアの指導のもとで博士号を取得します。
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1950年9月にはコペンハーゲン大学に留学し、ヘルマン・モリッツ・カルカーの研究室で学びます。
1951年には、DNAの構造を研究するためにX線回折の実験を行いたいと思い、ジョン・ケンドリューに会います。
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ケンドリューはワトソンにイギリスでのポスドク(博士研究員)の地位を手配します。
1953年3月中旬には、ワトソンとフランシス・クリックはDNAの二重らせん構造を推定します。
そして1953年4月25日には、科学雑誌ネイチャーに論文を提出します。
同じ年の4月には、クリックとワトソンによって構築されたDNA構造のモデルを
シドニー・ブレナー、
ジャック・D・デュニッツ(1923年3月29日 - 2021年9月12日)、
ドロシー・ホジキン、
レスリー・オーゲル(1927年1月12日 - 2007年10月27日)、
ベリル・M・オウトン
によってはじめて確認されます。
1953年6月には、コールド・スプリング・ハーバーでのシンポジウムで二重らせん構造に関する論文を発表し、これが多くの人にとってDNA二重らせん構造を見る最初の機会になります。
1956年には、ハーバード大学の生物学部で教えて、1976年までハーバード大学の教授を務めます。
1962年には、ワトソン、クリック、モーリス・ウィルキンスにノーベル生理学・医学賞が授与されます。
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実は、このノーベル賞受賞に至るまでには、今も疑惑が残っています。
DNAの構造解明において、ロザリンド・フランクリンによるX線解析写真が重要だったのですが、このフランクリンの写真を不正に入手したという指摘を今もまだ受け続けています。
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1968年にはコールド・スプリング・ハーバー研究所の所長に就任し、35年間務め、学長、名誉学長に就任します。
そして、コールド・スプリング・ハーバー研究所の研究と科学教育プログラムを大幅に拡大し、「小さな施設を世界有数の教育・研究機関に変えた」と評価されます。
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1968年にはエリザベス・ルイスと結婚し、1970~1972年には2人の息子が生まれます。
1990年には、アメリカ国立衛生研究所のヒトゲノム計画の責任者に任命されます。
しかし、1992年4月10日には新しい所長のバーナディン・パトリシア・ヒーリーと対立して去ります。
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ワトソンは、ヒーリーが遺伝子配列の特許を取得しようとする試みなどに反対していました。
1994年には、コールド・スプリング・ハーバー・ラボラトリー(CSHL)の社長に就任します。
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2014年には、ワトソンが数々の物議を醸す発言をしたことで「非人格者」にされたことに不満を漏らし、ノーベル賞のメダルを売却してしまいます。
メダルは2014年12月にアリシェル・ウスマノフにより410万ドルで落札されるんですが、メダルは後日ワトソンのもとに返されます。
ちなみに売却したときのお金の一部は科学研究を支援するために使われます。
ワトソンという科学者
ワトソンは、2007年10月14日に「黒人は人種的・遺伝的に劣等である」という趣旨の発言がイギリスのサンデー・タイムズの一面に掲載されてしまいます。
そして、このことが大きな波紋を呼ぶことになります。
イギリス滞在中だったワトソンは、謝罪と発言の真意が曲解されているとコメントしアメリカに緊急帰国します。
その後、コールド・スプリング・ハーバー研究所を辞職に追い込まれ名声は地に堕ちてしまいます。
ワトソンは、はじめは鳥類学の研究をしようと思ったのですが、シュレーディンガーの本から影響を受け遺伝学への道を進んでいきます。
そしてDNAの二重らせん構造を推定しノーベル賞を受賞するのですが、物議を醸す発言を繰り返してしまいます。
しかし、ワトソンの研究はその後の分子生物学を急激に発展させました。
今回は、DNAの二重らせん構造を発見しノーベル賞のメダルを売った科学者であるジェームズ・ワトソンを紹介しました。
この記事で、少しでもワトソンについて興味を持っていただけると嬉しく思います。