【科学者#079】貧困に苦しみながらも劇作家になることをあきらめた実験医学の父【クロード・ベルナール】
もともとやりたいことがあったのに、とあることがきっかけで別の道に進むことが人生にはあります。
例えば、第13回目で紹介したロバート・フックは、はじめは画家で生計を立てようとして画家見習いになろうと思い旅に出たのですが、色々あり最終的には大学に入学し科学者の道を歩みます。
今回は、貧困に苦しみながらも劇作家になることをあきらめた実験医学の父であるクロード・ベルナールを紹介します。
クロード・ベルナール
名前:クロード・ベルナール(Claude Bernard)
出身:フランス
職業:医師・生理学者
生誕:1813年7月12日
没年:1878年2月10日(64歳)
業績について
ベルナールは、1862年に第35回目で紹介したフランスの細菌学者であるルイ・パスツールと一緒に低温殺菌法の実験を行っています。
この他にもベルナールは、
・脂肪消化における膵臓のはたらきについて
・交感神経について
・肝臓でのグリコーゲンの合成について
などの業績を残しています。
さらにベルナールは、生理学の本の中でも不朽の名作とされている『実験医学序説』を書いています。
この本は、革新的な方法論が分かりやすい文章で書かれており、その後の生理学の発展に大きく貢献しました。
生涯について
ベルナールの父親はワインをつくっており、母親は農家の娘でした。
父親はベルナールが小さいときに販売事業に失敗し、さらに借金を残して亡くなってしまいます。
そのため、ベルナールは小さいときに教育の機会がほとんどなかったのですが、地元の神父からラテン語を学んでいました。
その後は、ヴィルフランシュにあるイエズス会の学校に入学し、初等教育を受けます。
卒業後はリヨン大学に入学するのですが、途中で退学し、18歳でリヨン郊外で薬剤師の見習いとなります。
ベルナールは休日に劇場を訪れるようになり、劇の台本を書き始めるようになります。
しかし、このことを快く思わなかった雇用主は、ベルナールの見習いを中止してしまったので、1833年7月に帰国します。
1834年11月には劇作家になろうと思い、完成した劇の原稿と紹介状を持ってパリへ行きます。
そこでは、劇作家に自分の原稿を読んでもらったのですが、その劇作家はベルナールに劇作家ではなく医学の道に進むようにアドバイスをします。
そのため、ベルナールは同じ年の冬にパリ大学の医学部に入学します。
1834年には、インターンシップの試験に合格し、病院で働くようになります。
この頃に、ピエール・フランソワ・オリーブ・レイエやフランソワ・マジャンディーの下で働き学びます。
その後、マジャンディーはベルナールの巧みな解剖技術に注目し、1841年に研究助手として採用し、マジャンディーの脊髄神経の研究に参加します。
1843年には医学の学位を取得するのですが、1844年の31歳の時に研究助手の地位に満足できなかったので職を辞めます。
そのため、ベルナールの友人が研究者としてのキャリアを守るため、パリの医師の娘であるマリー・フランソワーズ・マルタンとの政略結婚を取り決めます。
この結婚により6万フランの持参金を手にするのですが、結婚生活は良いとは言えずベルナールの人生を不幸にします。
晩年フランスのアカデミーに選出されたことをきっかけに2人は別居し、1869年には妻と離婚したため、研究に打ち込むことができるようになります。
1847年には、コレージュ・ド・フランスのマジャンディーの副官に就任します。
1854年にはソルボンヌ大学の生理学教授を務めます。
1856年には肝臓にグリコーゲンを発見し、この頃には様々な業績により科学界での地位が上がります。
1855年にはマジャンディーが亡くなったため、後を継いでコレージュ・ド・フランスの医学の正教授になります。
しかし、この時は研究室が提供されなかったので、1864年にナポレオン3世とベルナールが面談ときに、植物園自然史博物館に研究室を建設してもらいます。
1860年以降には健康を害し慢性腸炎を患い、研究室で過ごす時間が減ります。
そのため、療養のために強制的に時間が出来たので、傑作である「実験医学序説」を書きます。
1862年には、ルイ・パスツールと共に低温殺菌法の実験を行います。
1868年にはソルボンヌ大学を去り、博物館に設立された一般生理学教授職に就きます。
同じ年にはアカデミー・フランセーズの会員になります。
ベルナールの友人としては、ルイ・パスツール、マルセラン・ベルテロ、エルネスト・ルナン、イポリット・テーヌがいます。
1877年には健康状態が急激に悪化し、1878年の元日に風邪をひき、さらに体調が悪くなり、同じ年の2月10日に亡くなってしまいます。
ベルナールという科学者
ベルナールは幼少期からお金には苦労し、教育機会がほとんどなく大変な時期を過ごしました。
途中劇作家を目指すのですが、医学に進むようにアドバイスを受け、医学のうち特に実験系で才能を発揮していきます。
そんなベルナールの性格は、表面的には控えめで内気な性格だったのですが、貧困や絶望を克服する内なる強さを持っていました。
今回は、貧困に苦しみながらも劇作家になることをあきらめた実験医学の父であるクロード・ベルナールを紹介しました。
この記事でベルナールについて興味を持っていただけると嬉しく思います。
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