【科学者シリーズ#082】自作で400台以上の望遠鏡をつくった音楽家で天文学者【ウィリアム・ハーシェル】
昔の科学者の中には、実験器具を自分で作り重大な発見をした人がいます。
例えば、第16回目で紹介したアントニ・ファン・レーウェンフックは、生涯で500以上もの顕微鏡を作成し様々な微生物を発見しています。
実は天文学でも、多くの天体望遠鏡を作成し重大な発見をした科学者がいます。
今回は、自作で400台以上の望遠鏡をつくった音楽家で天文学者であるウィリアム・ハーシェルを紹介します。
ウィリアム・ハーシェル
名前:フレデリック・ウィリアム・ハーシェル
(Frederick William Herschel)
出身:ドイツ
職業:天文学者・音楽家
生誕:1738年11月15日
没年:1822年8月25日(83歳)
業績について
ハーシェルは生涯で400台以上の天体望遠鏡をつくるのですが、この望遠鏡により数々の業績を残しています。
1781年3月13日には天王星を発見し、これにより一躍有名人になります。
さらに1789年8月28日、土星の衛星エンケラドゥスを発見し、その後1か月も経たないうちに土星の衛星であるミマスを発見します。
この他にも、天王星の衛星であるチタニアとオベロンも発見しています。
衛星の発見以外にもハーシェルは、星雲の大規模なカタログを編纂する仕事にも取り組んでいます。
さらに驚くことに、太陽系が宇宙空間の中を運動していることに初めて気づき、その運動のおよその方向を求めます。
生涯について
ハーシェルは10人兄弟の4番目に誕生し、兄弟のうち4人は早いうちに亡くなっています。
父親は庭師の息子で、はじめは庭師として生計を立てていたのですが、十分にお金を貯めたのち、音楽のレッスンを受けます。
その後オーボエ奏者として働き、そしてオーボエ奏者としてドイツの都市であるハノーファーの近衛連隊に入隊します。
ハーシェルの家庭は貧しかったのですが、子供たちは近衛連隊が運営していた学校に通うことができました。
父親は子供たちに夜空の素晴らしさを伝えたり、哲学や数学について子供たちと話し合うのが好きでした。
成長したハーシェルは近衛連隊に入隊し、稼いだお金で兄と費用を出し合いフランス語の家庭教師を雇います。
1740年にはオーストリア継承戦争が始まり、ハーシェルはイングランドに派遣されます。
このことによって、英語を学ぶ機会を得ることができたり、ジョン・ロックの『人間知性論』を入手し大きな影響を受けます。
1757年7月には、ハステンベックの戦いで大敗し、ハノーファーに戻るのですが、その後近衛連隊を辞めます。
1758年にはイングランドに戻り、音楽を使って生計を立てます。
1760年からはノース・ヨークシャーに住み始め、交響曲を作曲し始めます。
そして、1760年末までに6つの交響曲を完成させ、さらに言語や音楽理論を学び始めます。
1764年にはハノーファーで短い休暇を取り、7年ぶりに家族と会い、この時は数学の勉強に費やします。
1766年には、礼拝堂のオルガニストになるためにイングランドの西にあるバースに家を借ります。
1770年6月1日には弟のアレクサンダーを自分が住んでいたバースに招待し、1772年には妹のキャロラインを助けたいと思い、歌、チェンバロ、簿記のレッスンを受けさせます。
その後、キャロラインはハーシェルの家政婦として一緒に住みます。
1773年9月には、スコットランドの天文学者で数学者であるジェームス・グレゴリーが考案したグレゴリー式望遠鏡を購入します。
しかし、性能は良くなかったので、自分で望遠鏡をつくることにします。
1777年9月29日には、バースの中心部の庭園がある場所に引越し、庭園で天体観測を行います。
1779年にはバースの文学哲学協会に招待され、この協会に近い場所に引越したのですが、この家には庭園がなかったので望遠鏡で天体観測は出来なくなります。
この文学哲学協会ではウィリアム・ワトソンなどの重要な人物に出会い、3年間で31本の論文を提出します。
そして、この論文のうちワトソンが3つの天文学の論文を王立協会に提出します。
1780年には、バースのオーケストラの指揮者に任命されます。
1781年3月のはじめには、庭園があった家に戻ってきたので、望遠鏡が置けるようになり観測し始めます。
そして、その数日後である3月13日に天王星を発見し、この発見をロンドン王立協会に伝え、4月16日に論文が読まれます。
1781年11月にはコプリ・メダルが授与され、同じ年の12月6日にはロンドン王立協会に選出されます。
1788年には、友人の妻(未亡人)で裕福だったメアリー・ピットと結婚し、1792年3月に息子が生まれます。
1787年2月18日には、アメリカ哲学会会員に選出されます。
1802年にはパリを訪れて、ジェローム・ラランド、ピエール・メシャン、ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブル、シャルル・メシエ、そして第39回目で紹介したピエール=シモン・ラプラスと会い、さらにナポレオン・ボナパルトとも会います。
1821年には王立天文学会の初代会長に就任します。
ハーシェルという科学者
ハーシェルは生涯で400台以上の天体望遠鏡を作成します。
その中でも最も大きいものは、焦点距離40フィート(12m)で、口径49.5インチ(126cm)の反射望遠鏡になります。
この望遠鏡では、1789年8月28日に土星の衛星であるエンケラドゥスを発見し、この1か月後には土星の衛星であるミマスを発見します。
ハーシェルははじめ音楽家として生計を立てていたのですが、途中から天文学に興味を持ちだし、自分で望遠鏡をつくり天王星や土星の衛星など偉大な発見をします。
今回は、自作で400台以上の望遠鏡をつくった音楽家で天文学者であるウィリアム・ハーシェルを紹介しました。
この記事で少しでもハーシェルについて興味を持っていただけると嬉しく思います。
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