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【科学者シリーズ#090】ニュートンと違うことを提唱し嘲笑された科学者【トマス・ヤング】

昔のヨーロッパにおいてアイザック・ニュートンという科学者は影響力がありました。

ニュートンが生きている時代では、第13回目で紹介したロバート・フックや第14回目で紹介したクリスチャン・ホイヘンス、第18回目で紹介したゴットフリート・ライプニッツなどがニュートンと対立しており、科学的活動にも多少なりとも影響がありました。

ニュートンは1727年に亡くなるのですが、実はニュートンは亡くなった後も長年にわたり絶大な影響力がありました。

今回は、ニュートンと違うことを提唱し嘲笑された科学者であるトマス・ヤングを紹介します。


トマス・ヤング

名前:トマス・ヤング
   (Thomas Young)

出身:イギリス
職業:物理学者
生誕:1773年6月13日
没年:1829年5月10日(55歳)


業績について

ヤングの業績としては、ヤングの実験があります。

これは、複数の光学スリットを使った、光の干渉の実験になります。

ヤングは1805年に、光源から光を平行な2つのスリットを通すと、スリットを挟んで光源の反対側にあるスクリーン上に干渉縞が出来ることを発見します。

この実験により光の波動説を提唱するのですが、当時の科学界ではあまり受け入れられませんでした。

この他にヤングは、エネルギーという用語をはじめて用いて、その概念を導入したと言われています。


生涯について

ヤングの父親は貨幣の製造業者でした。

父親は投資をしており、厳格で誠実な性格だったので、はじめのうちは非常に成功していました。

しかし、不況により土地や財産の価値が下がってしまい破産してしまったので、小さい頃は母方の祖父によって育てられます。

ヤングの家はクエーカー教徒で、10人兄弟の長男として誕生します。

4歳の頃から村の学校に通い、その後はブリストル近郊の寄宿学校に通い18か月過ごすのですが、ほとんど自分で勉強をします。

1782年にはドーセットの学校に入学するのですが、この学校では自分のペースで勉強することができ、神童と呼ばれていました。

1786年には学校を卒業するのですが、学校にいる間に古典ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、フランス語、イタリア語など多くの言語に精通していました。

さらに、ニュートン物理学の基礎を身につけ、光学も学びました。

卒業後は、アラビア語、ペルシャ語、シリア語、サマリア語などを学び始めたり、卒業後すぐの13歳の時には12歳の子の家庭教師になります。

そして、この頃に数学を独学し、ユークリッドとニュートンの作品を読んで学んでいました。

1792年にはロンドンに引越し、医学の勉強を始めます。

ハンタリアン学校で講義に出席するだけではなく、聖バーソロミュー病院にも出入りしていました。

1793年5月30日にはロンドン王立協会に論文を提出し、1794年6月19日にはロンドン王立協会のフェローに選出されます。

1794年にはエディンバラ大学に入学するのですが、これはヤングがクエーカー教徒だったのでオックスフォード大学やケンブリッジ大学で学ぶことができなかったと言われています。

1795年10月にはゲッティンゲン大学へ行き試験を受け、1796年4月30日に合格します。

同じ年の1796年には、医学の学位を取得しています。

1796年7月下旬には、ゲッティンゲンを出発し、ブランズウィック、ゴータ、ワイマール、イェーナ、ライプツィヒ、ドレスデン、そしてベルリンの順に訪れ、1797年2月にイングランドに戻ってきます。

この当時、医師の資格を得るには同じ大学で2年間勉強する必要がありました。

そのため、ヤングはケンブリッジ大学のエマニュエル・カレッジに進学するのですが、入学前にクエーカー教徒からイングランド国教会の信者であると宣言する必要がありました。

そして、ケンブリッジ大学で学び始めたヤングは、医学はすでに十分理解していると感じ、物理学を独学で取り組むようになります。

1797年12月13日には祖父が亡くなり、ヤングはロンドンの家と多額の財産が手に入り、経済的に安定します。

1800年にはロンドンで医師として開業し、1801年には祖父の家を売り新しい家を購入します。

1802年1月からは王立研究所で講義を行うのですが、1803年にはこれを辞職して医者の仕事に専念します。

1804年6月14日にはイライザ・マクスウェルと結婚し、同じ年の1804年にはロンドン王立協会の外務長官になります。

フランソワ・アラゴ

1816年にはフランソワ・アラゴがヤングを訪ねてきて、フレネルの光の波動理論の実験について話し合います。

そして、翌年には今度はヤングがアラゴのもとを訪ねたりと交流を持ちます。




ヤングという科学者

ヤングが生きていた時代は、アイザック・ニュートンがイギリスの科学者から高く評価さていたため、ニュートンと矛盾することを提唱すると笑われてしまいました。

ニュートンは光の粒子説を提唱していたため、ヤングの光の波動説も批判されてしまいます。

この光の粒子説と、光の波動説は長年科学者の間で論争が繰り広げられます。

ヤングは小さい頃から神童と呼ばれ、特にはじめは語学系で才能を発揮します。

その後は医学を様々な学校で学び、他の数学や物理学は独学で習得していきます。

そして、医学、物理学、音楽など幅広い分野で活躍しました。

今回は、ニュートンと違うことを提唱し嘲笑された科学者であるトマス・ヤングを紹介しました。

この記事で少しでもヤングについて興味を持っていただけると嬉しく思います。


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