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【科学者#100】様々な論争を繰り広げた科学の歴史を変えた最後の錬金術師【アイザック・ニュートン】
科学史において、歴史を変えたと言い切れる科学者は、それほど多くはないと思います。
アリストテレス以来の自然科学分野において、実験的事実の定式化に成功し、科学の転機をつくったひとりの科学者がいます。
今回は、様々な論争を繰り広げた科学の歴史を変えた最後の錬金術師であるアイザック・ニュートンを紹介します。
アイザック・ニュートン
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名前:アイザック・ニュートン
(Isaac Newton)
出身:イングランド
職業:自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者
生誕:1643年1月4日
没年:1727年3月31日(84歳)
業績について
1664年から1666年は、ニュートンの脅威の年と言われているのですが、この時に微積分、運動、光学、重力の分野で画期的な発明、発見をしました。
ニュートンは1665年夏から1666年4月末まで、大学がペス トで休校したため実家に戻ります。
この時に、万有引力について発見したと言われいます。
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生涯について
ニュートンは、父親が亡くなってから3か月後くらいに、未熟児で誕生します。
ニュートンが3歳の時には、母親が63歳の男性と結婚するのですが、これはニュートンの養育費を得るためではないかと言われています。
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この時、ニュートンは母方の祖母と共に残ったため、母親とは別れて暮らすことになります。
1653年8月のニュートンが10歳の時には(もしくは14歳)、母親と結婚した男性が亡くなったため、母親がニュートンのところに帰ってきます。
その時、弟と2人の妹も一緒に帰ってきます。
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1655年にはグラマースクールに入学するのですが、薬剤師の家に下宿していおり、この時に医薬の調合に興味を持ちます。
ニュートンは、屋根裏の自分の部屋を道具類でいっぱいにし、水車などの模型を作っていたり、この頃に絵も上達しました。
学校でのニュートンは首席で、いじめてきた少年を徹底的に打ちのめしていたと言われています。
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1659年には学業を途中でやめて実家に帰るのですが、母親に無理やり連れだされて家の手伝いをさせられます。
実家は農園だったのですが、ニュートンは母親のいうことは聞かずに、大勢を殴り、さらに妹も殴り、召使といざこざを起こし、仕事をさぼり、馬を逃がしたりと、色々と問題を起こします。
そのため、大学に入る準備をするために学校に戻ります。
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1661年には、入学試験を合格してトリニティ・カレッジに入学します。
この時ニュートンはサブサイザーとして入学しているのですが、このサブサイザーとは一般自費生の下僕として生活費を稼ぎながら勉強する学生になります。
最終的には、スカラーと呼ばれる奨学金を支給される学生になります。
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実はニュートンはメモ魔で、読書の成果を書き込んだノートや講義の内容、家計簿などが残っています。
1664年から1666年には驚異の年と言われているのですが、この時期に有名な業績をいくつも発見しています。
1664年には、デカルトの「幾何学」と「近代解析学」の研究に取り掛かるのですが、ニュートンは証明をせずに、ほとんど直感により理解することができたと言われています。
1665年には、微積分法の基本定理を発見します。
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1665年1月20日からは力学の衝突についての研究をしており、「運動の法則」という論文にまとめようとします。
同じ1665年には、バチュラ―・オブ・アーツの学位を取得し大学を卒業します。
1665年にはロンドンでペストが流行し大学が休校したため、ニュートンは1665年夏から1666年4月末まで実家に帰ります。
1666年初頭には三角形のガラスのプリズムを入手して、それを用いて色彩現象について試みました。
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1667年10月には、フェローの選考試験を受け、合格して下級フェローになります。
1668年7月7日には、マスター・オブ・アーツの学位を授与され、上級フェローになります。
1669年2月23日には、反射望遠鏡についてニュートンのノートにはじめての記述がありました。
1669年内には反射望遠鏡を作成して、倍率は40倍近くであったと言われていおり、年末には倍率は150倍になりました。
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ちょうどこの頃に、『化学の劇場』という錬金術の本を購入するのですが、ニュートンは1669年を境に錬金術関係の本を広く読むようになり、生涯で175冊の錬金術の本を持っていました。
そして、第11回目で紹介したロバート・ボイルと出会い、1691年のボイルが亡くなるまで錬金術仲間として文通を続けます。
この他にも錬金術の仲間としては、ジョン・ロックやニコラ・ファシオ・ド・デュイリエがいます。
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1669年のはじめの方に、ジョン・コリンズがニコラス・メルカトルの「対数技法」を、ニュートンを指導していたアイザック・バロウに手紙で送ってきます。
バロウはコリンズへの返信に、双曲線に関する論文があり、さらに素晴らしい才能の人物がいると書きます。
1669年8月下旬には、バロウはニュートンが書いた「無限級数による解析」をコリンズに送ります。
そして1669年10月に、コリンズはニュートンの論文の写しを何人かの文通相手に送ります。
このことにより、ニュートンの名前が科学者の間で有名になっていきます。
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1669年10月29日には、ルーカス教授職に任命されます。
ちなみに当時のルーカス教授は、
・毎週「幾何学・天文学・地理学・光学・静力学・あるいは他の数学的分野のもの」を購読、解説する
・毎年講じたうち10構分の写しを大学図書館に納める
・毎週2時間割いて学生の質問を受ける
・学期中はずっと学内に居住する
・重大な罪があった場合は罷免される
というルールがありました。
この中で重大な罪とは、不敬罪、異端、教会分離罪、故意の殺人、重窃盗罪、姦淫、偶像崇拝、偽証罪があります。
姦淫は、結婚についても禁止されており、当時の大学教授が結婚していないのは、このルールによるものでした。
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1670年1月にはコリンズとの文通を始め、コリンズは自分の仕事にニュートンを引き入れようとします。
そして1669年から1671年には、ニュートンはコリンズとバロウの仕事に協力します。
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1671年12月31日には、ニュートンの望遠鏡がロンドン王立協会に送られ、1672年1月11日には、この望遠鏡が評価されロンドン王立協会の会員に選出されます。
この頃の1670年代初頭には、ニュートンの髪が灰色に変化したため、自分が結核になったのではないかと疑います。
これは、ニュートンが行っていた化学実験に水銀を使った実験があり、そのせいだと言われています。
1672年2月15日には、第13回目で紹介したロバート・フックが、ニュートンの論文に対する批判を王立協会に提出します。
そのため1672年6月11日に、ニュートンはフックに返信を送ります。
しかし、この返信がフックに対してかなり攻撃的で、このことによりフックはニュートンに関して邪魔してくるようになります。
1672年12月には、第14回目に紹介したクリスチャン・ホイヘンスからも批判を受けます。
このことに嫌気がさしたニュートンは、1673年2月にロンドン王立協会の初代事務総長であるヘンリー・オルデンバーグに脱退したいとの手紙を書きます。
オルデンバーグは年4回の会費を無条件で免除することを申し出て、ニュートンはこれを受け入れます。
1673年には、ホイヘンスの批判に対する回答を送るのですが、その時ニュートンは怒りを隠すことなく書きます。
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1674年には、フランシス・ホールから色彩理論についての批判を受け取り、1675年初頭には、ホールから第2信が届きます。
ロンドン王立協会は、事実を確かめるために公開実験の実施を手配するのですが、この実験結果が文句ないと言ったのはロバート・フックだけでした。
1675年11月には、フランシス・ホールの要求書を受け取り、実験の手順書を書き上げ自分の正しさを確認してくれた人たちの名前をあげます。
そして1675年12月7日に、「観察についての論考」「光についての仮説」の2つについての論文をロンドン王立協会に送り、これが王立協会で朗読されます。
実は、この論文の中でニュートンはフックのことを悪い感じで取り上げてしまいます。
このことに、フックが怒るのですが、これを受けてニュートンも怒ってしまいます。
実は、オルデンバーグとフックも仲が悪く、フックはオルデンバーグがニュートンを煽っているのではないかと思うようになります。
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1676年1月20日には、フックからニュートンへ直接手紙を送ります。
この時の内容としては、
・自分は争いごとを嫌っていること
・誰に発見されたものであれ真理を手にしたいと願っていること
・ニュートンの論文の価値を認めていること
・2人が哲学的問題を私的に論じ合えるような文通をしたいこと
などが書かれていました。
これに対してニュートンは
・口論を避けたいこと
・私的な文通の申し出を受けること
などを書きます。
しかし、これ以降2人は私的な文通を始めることはありませんでした。
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この頃にニュートンはある問題を抱えます。
当時、大学で働くには国教会における聖職者の資格を得なければならず、ニュートンは聖職位につくかフェローを退くかを迫られていました。
このことで1675年1月に、ニュートンはオルデンバーグに手紙を書き、オルデンバーグのはたらきにより、1675年4月27日に「ルーカス教授職は自ら望むのでない限り聖職位に就くことから免除される」ことが決まります。
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1676年6月13日には、第18回目で紹介したゴットフリート・ライプニッツとエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスにあてて、数学に関しての手紙を1通書き上げます。
この手紙には1676年7月26日にオルデンバーグを通して2人におくられるのですが、さらにライプニッツ対しては1676年中に2通書いて送ります。
それが「先の書簡」と「あとの書簡」になるのですが、この手紙が40年後にライプニッツとの先取権の争いにおいて大切な手紙になります。
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1677年6月11日には、ライプニッツから賛辞あふれる返信をもらい、文通の継続を懇願されるのですが、オルデンバーグはニュートンは別の問題に専念しているとライプニッツに伝えます。
1677年9月5日にはオルデンバーグは亡くなるのですが、ニュートンはライプニッツへ手紙の返信を送ることがなかったので、文通は途絶えてしまいます。
1679年9月29日には、4か月間大学を離れ、母親の介護のため実家で過ごすことになります。
ニュートンの母親は、ニュートンの弟が悪性の熱病を患ったときに、看病にに出かけたのですが、その後母親も熱病を患ってしまい亡くなってしまいます。
そして1680年6月4日に、埋葬されます。
この時期は、沈黙の歳月と言われており、多くの時間を神学の研究にあてます。
実は、1679年末頃にフックから手紙が届き、以前の文通を再開するように呼び掛けられます。
フックは、第2回目で紹介したヨハネス・ケプラーの運動に関する研究について、自身の仮説に対してニュートンの意見を求めてきました。
ニュートンは、家庭の問題で忙殺されていたためこの申し出を断ります。
1684年6月には、デビット・グレゴリーからの手紙を受け取ります。
その手紙の中で、ニュートンに対して世間は、ニュートンの発見を本にすることを待ちわびていると伝えます。
このことで、ニュートンはプリンキピアの出版に乗り出します。
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1685年からの2年間はプリンキピアに没頭します。
1686年から1687年には第17回目で紹介したエドモンド・ハレーがプリンキピアを出版するために、自分自身の活動のすべてを犠牲にし協力してれます。
そして1676年春はプリンキピアの第一篇が完成し、王立協会に提出します。
しかし、このプリンキピアを見たフックが、重力が距離の2乗に反比例するというものは自分がニュートンに伝えたと主張します。
このことにニュートンは激怒するのですが、この時はハレーがなだめてくれるのですが、ハレーはニュートンとフックとの板挟みで悩んでしまいます。
最終的には、ハレーはプリンキピアの印刷についてすべて面倒を見ることになります。
1687年には、プリンキピアの第二篇、第三篇を王立協会に提出し、その後出版されます。
そして、1687年7月5日にはハレーがプリンキピアに関するすべての仕事を終えます。
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1690年ごろ、トリニティカレッジが財政危機になり、1688年から1690年まで配当金を払うことができなかったので、ニュートンはロンドンで職探しをすることになります。
そのため、ストレスがたまってしまい、激しいうつ状態になり、不眠、消化不良、物忘れ、誇大妄想などが症状としてあらわれます。
しかし、これらの症状は錬金術で水銀を使っていたので、水銀中毒ではないかと言われています。
1691年には、造幣局の会計検査官の職に関しての手紙を書いてくれるようにジョン・ロックに頼みます。
その後1696年3月25日には、ケンブリッジ大学を去りロンドンへ行くのですが、ルーカス教授職は1701年に辞めます。
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ロンドンに行ったニュートンは造幣局に勤めることになります。
働きはじめたニュートンは、まずは各作業を注意深く研究し、1696年の6月には大蔵省に昇給を要望し成功します。
1699年12月25日には、造幣局の長官が亡くなったためニュートンが長官に昇格します。
ちなみに、前任の長官はほとんど仕事をせずに、ニュートンにすべて任せていました。
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1703年3月3日にはロバート・フックが亡くなり、ニュートンをロンドン王立協会会長に選出する準備が整えられます。
そして、同じ年の11月30日には会長になり、評議会の運営に努めました。
ニュートンとフックは仲が悪かったので、今まではニュートンは会合に参加しなかったのですが、会長になってからはほぼすべてに参加します。
ニュートンは協会の会合での実演してくれる人(実験などを実際にやってくれる人)を獲得するため、功労金を与えることにします。
このことにより、会員数は2倍以上になり、会合の水準は高まりました。
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1704年2月16日には、出版に対してうるさく言うフックが亡くなっていたので、『光学』を王立協会に提出し、同じ年の11月30日から印刷を開始します。
1705年には、アン王女によりナイトに叙されます。
1711年以降、王立協会の会合の水準は上がり続けており、ニュートンに反発する人もいたのですが、ニュートンの地位は固いものになっていきます。
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1722年春には、ずっと調子が悪くなり、1725年1月には激しい咳と肺の炎症、さらに痛風になります。
1727年3月2日には、ニュートンは最後の王立協会の司会をして、同じ月の3月20日の1時ごろにニュートンは亡くなります。
ニュートンという科学者
ニュートンは、生まれる前に父親が亡くなり、母親が再婚したため、幼い頃は母親と離れて暮らします。
その後、10歳ごろに母親は弟と妹を連れてニュートンのもとへ帰ってくるのですが、子供の頃のさみしさから母親に対して執着心が強いと言われています。
さらに、ニュートンの性格としてはひねくれもので、神経症で、小さい時は妹や召使などを殴るなど問題行動を起こしていました。
大学に入学してからは研究に没頭し、多くの業績を残しています。
しかし、大学の財政難により大学を去り、造幣局に勤めるのですが、そこでも才能を発揮します。
造幣局に勤めてからも研究を続けるのですが、その生涯で様々な科学者から批判を受け、それに対応することに嫌気がさしてしまいます。
今回は、様々な論争を繰り広げた科学の歴史を変えた最後の錬金術師であるアイザック・ニュートンを紹介しました。
この記事でニュートンについて興味を持っていただけると嬉しく思います。