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【科学史年表】1700年~1749年



1700年

2月8日ダニエル・ベルヌーイ誕生

ダニエル・ベルヌーイ

ダニエルは、はじめは医学の研究をしていたのですが、途中から数学の能力を開花させ、レオンハルト・オイラーと共に研究し多くの業績を残しました。
しかし、途中から父親との関係が悪くなり、ダニエルは数学の研究から離れてしまいます。
その後は、数学への熱意が冷めてしまい、数学とは違う分野である天文学や航海の分野で多くの業績を残しています。

7月11日ゴットフリート・ライプニッツ ベルリンの科学アカデミーが設立され初代会長に就任

1701年

エドモンド・ハレー イギリス南部の潮汐と海岸を調査
アイザック・ニュートン ルーカス教授職を辞める

1703年

3月3日ロバート・フック(67歳)死去
クリスチャン・ホイヘンス 『屈折光学』を出版
エドモンド・ハレー オックスフォードのサヴィル教授職に任命される
11月30日アイザック・ニュートン ロンドン王立協会会長になる

1704年

2月16日アイザック・ニュートン 『光学』を王立協会に提出
11月30日アイザック・ニュートン 『光学』の印刷を開始する

1705年

アイザック・ニュートン アン王女によりナイトに叙される
エドモンド・ハレー 彗星(ハレー彗星)が76年周期であるという予測
ヨハン・ベルヌーイ バーゼルに戻る
ヨハン・ベルヌーイ バーゼル大学でギリシア語の教授職に就く
ヨハン・ベルヌーイ ヤコブ・ベルヌーイが亡くなる⇒数学の教授職を得る

1707年

4月15日レオンハルト・オイラー誕生

レオンハルト・オイラー

オイラーは亡くなる1783年までに500余の論文を発表しました。
これは、人類史上最多と言われる膨大な量の論文や著書になります。
さらにすごいのは、オイラーの死後半世紀にわたってオイラーの論文は刊行されます。
死後に刊行されたものを含めると論文の数はおよそ900と言われています。ニュートンの運動方程式を微分形式で表したのもオイラーがはじめてで、数学や物理学で多くの業績を残しています。

5月23日カール・フォン・リンネ誕生

カール・フォン・リンネ

幼少期から植物が大好きで「小さな博物学者」と呼ばれたリンネは、大人になり分類学において多大な功績を残してくれました。
そんなリンネは、現在では分類学の父と呼ばれています。
リンネの死後、仕事は息子のカールに引き継がれるのですが、カールはリンネの死から5年後に急に亡くなってしまいます。
そのため分類学の研究は、リンネの弟子であったカール・ツンベルクが引き継ぐことになります。

1712年

9月14日ジョヴァンニ・カッシーニ(87歳)死去

1715年

ダニエル・ベルヌーイ バーゼル大学で学士試験を受ける
ダニエル・ベルヌーイ バーゼル大学で修士号を取得
11月14日ゴットフリート・ライプニッツ(70歳)死去

1718年

ダニエル・ベルヌーイ ハイデルベルクで医学を勉強する

1719年

ダニエル・ベルヌーイ ストラスブールで医学を勉強する

1720年

エドモンド・ハレー 王室の天文学者(グリニッジ天文台長)に任命される
レオンハルト・オイラー(14歳)バーゼル大学に入学
ヨハン・ベルヌーイ オイラーに個人授業を行う
ダニエル・ベルヌーイ バーゼル大学へ戻り医学博士号を習得

1722年

アイザック・ニュートン 調子が悪くなる

1723年

レオンハルト・オイラー 神学の研究をはじめる
8月26日アントニ・ファン・レーウェンフック(90歳)死去(気管支肺炎)

1725年

ダニエル・ベルヌーイ イタリアからバーゼルに戻る
1月アイザック・ニュートン 激しい咳と肺の炎症、さらに痛風になる

1727年

3月2日アイザック・ニュートン 最後の王立協会の司会をする
3月31日アイザック・ニュートン(84歳)死去
レオンハルト・オイラー サンクトペテルブルクの科学学士院で働く
ダニエル・ベルヌーイ オイラーと出会う

1731年

10月10日ヘンリー・キャヴェンディッシュ誕生

ヘンリー・キャヴェンディッシュ

キャヴェンディッシュは、生涯が謎に包まれている科学者で、詳しいことがよく分かっていません。
イギリスの化学者で発明家のハンフリー・デービーは、キャヴェンディッシュが亡くなった後に「ニュートンの死以来、キャヴェンディッシュの死ほどイギリスが大きな損失を被ったことはない」と讃えています。
生きている時からその才能に他の科学者が驚かされ、さらに亡くなってからも未発表の実験記録から色々な科学者よりも先に発見していたことが分かり、さらに私たちを驚かせました。

1732年

カール・フォン・リンネ ウプサラの科学アカデミーがラップランドの探検のために融資をしてくれる

1733年

ダニエル・ベルヌーイ サンクトペテルブルクを離れる
9月13日杉田玄白 誕生

杉田玄白

杉田玄白は外科の技術が大変優れており、「病客日々月々多く、毎年千人余りも療治」と称されます。
小さい頃から家業の医学修行に加え、医官や儒学者からも学び、藩医や町医者としても活躍します。
そしてオランダ語の医学書である『ターヘル・アナトミア』に感動し、前野良沢、中川淳庵とともに翻訳し『解体新書』を出版しました。

1734年

ダニエル・ベルヌーイ パリ科学アカデミーの賞に応募⇒父親と共に大賞を取る
レオンハルト・オイラー 画家の娘のカタリーナと結婚

1735年

3月26日ベンジャミン・トンプソン誕生

ベンジャミン・トンプソン

トンプソンは、奉公先で火薬の技術を身に付け、その技術を使い科学者として、そして政治家としての地位を築き上げ、様々な分野で活躍しました。
トンプソンの業績により、熱素説の問題点が明らかになってきて、さらに熱力学が発展していたっと言っても過言ではないのかもしれません。
さらにトンプソンは、貧民救済など広い分野で才能を振るいました。

レオンハルト・オイラー 右目を失明
カール・フォン・リンネ 『自然の体系』を出版

1736年

1月19日ジェームズ・ワット誕生

ジェームズ・ワット

子どもの頃は家庭で主に学び、その後は通常よりも早く技術を身に付けて、蒸気機関を改良し莫大な財産を築きました。
そして、引退したあとも意欲的に自宅の工房で発明を続けたワットは、現在の機械技術の発展にはなくてはならない人物になります。
ワットは、仲間と思慮深い討論を行い、自らの視野を広げることに関心を持ち、友人とは良い関係を長く続けることができたと言われています。

1月25日ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ誕生

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ

実はラグランジュは、マリー・アントワネットの家庭教師も勤めていました。
自分を助けてくれたアントワーヌ・ラヴォラジエも、そして自分の教え子だったマリー・アントワネットも、フランス革命によりギロチンで処刑されます。
ラグランジュは「なぜ私が残されたのか分からない」と、このことについて一生苦しみました。
数学をほぼ独学で会得し、そしてオイラーに見いだされたラグランジュは、イタリア、ドイツ、フランスを渡り歩き、その時の情勢に翻弄されつつも数々の業績を残しました。

1737年

カール・フォン・リンネ 「ラップランド植物誌」を発行
カール・フォン・リンネ 「植物属誌」を執筆

1738年

ダニエル・ベルヌーイ ハイドロダイナミカ(Hydrodynamica)を出版
ダニエル・ベルヌーイ ベルヌーイの定理を発表
11月15日ウィリアム・ハーシェル誕生

ウィリアム・ハーシェル

ハーシェルは生涯で400台以上の天体望遠鏡を作成します。
その中でも最も大きいものは、焦点距離12m、口径126cmの反射望遠鏡になります。
ハーシェルははじめ音楽家として生計を立てていたのですが、途中から天文学に興味を持ちだし、自分で望遠鏡をつくり天王星や土星の衛星など偉大な発見をします。

1739年

ヨハン・ベルヌーイ ハイドローリカ(Hydraulica)を出版
カール・フォン・リンネ サラ・モレアと結婚

1741年

レオンハルト・オイラー ベルリンの科学アカデミーの会員になる
カール・フォン・リンネ ウプサラ大学の薬学の教授になる⇒すぐに植物学の教授に変わる

1742年

1月25日エドモンド・ハレー(85歳)死亡

1743年

8月26日アントワーヌ・ラヴォアジエ誕生

アントワーヌ・ラヴォアジエ

ラヴォアジエは、潤沢な資金があったことで、より優れた実験器具を作ることができ、その器具を使い多くの業績を残してくれました。
そして最後は、市民のため税を減らそうと努力はしていたのですが、徴税請負人という職のためギロチンで処刑されました。
そんなラヴォアジエの処刑を嘆き天文学者のジョゼフ・ルイ・ラグランジュは、「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現われるには100年かかるだろう」と言い、他にも多くの科学者がラヴォアジエの処刑を悲しみました。

1745年

2月18日アレッサンドロ・ボルタ誕生

アレッサンドロ・ボルタ

ボルタはボルタ電池を発明し、動物電気はカエルの筋肉自体に蓄えられたものであるというガルヴァーニ説を否定しました。
そしてこの電池ができたことにより、ハンフリー・デービーの電気分解による元素の発見へとつながっていきます。
さらにボルタは、実はベンジャミン・フランクリンとナポレオン・ボナパルトの崇拝者でした。

1748年

1月1日ヨハン・ベルヌーイ(80歳)死去

1749年

ヘンリー・キャヴェンディッシュ(18歳) ケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学
3月23日ピエール=シモン・ラプラス誕生

ピエール=シモン・ラプラス

ラプラスは、数学や科学で多くの業績を残しつつも、ナポレオンの審査に関わったりと政治面でも活躍しました。
フランス革命から、ナポレオンの政権下、そして王政復古後の激動のフランスを生きぬいた科学者になります。
さらに、ラグランジュやラプラスを創設メンバーとしてエコール・ノルマルが設立されています。


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