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【科学者#041】独学で数学を会得した天才で"電気学のニュートン"と呼ばれた科学者【アンドレ=マリ・アンペール】

電気関係の単位と言われると、ボルト、アンペア、オームの3つが出てくると思いますが、前回はボルトの単位のもとになった科学者であるアレッサンドロ・ボルタを紹介しました。

実は電流の単位であるアンペア(A)も人の名前にちなんだ単位で、ボルタと同じ時代を生きた科学者になります。

今回は、独学で数学を会得した天才で"電気学のニュートン"と呼ばれた科学者であるアンドレ=マリ・アンペールを紹介します。



アンドレ=マリ・アンペール

アンペール

名前:アンドレ=マリ・アンペール(André-Marie Ampère)
出身:フランス
職業:物理学者、数学者、電磁気学者
生誕:1775年1月20日
没年:1836年6月10日(61歳)



業績について

アンペールの業績としては、アンペールの法則というのがありますが、現在の日本では右ねじの法則と呼ばれることが多いです。

これは、中学校の理科の授業では電流と磁場の関係を教える際に、右ねじの法則として教えるところが多いからです。

このアンペールの法則は、電流を流したときに、電流の方向を右ねじが進む方向とする場合、右ねじが回る向きに磁場が発生するというものです。

このアンペールの法則は、その後第36回で紹介したジェームズ・クラーク・マクスウェルによってさらに発展した形になります。

そして、古典電磁気学の基礎方程式であるマクスウェルの方程式のひとつになり、アンペール-マクスウェルの式と呼ばれています。



生涯について

アンペールの父親はフランスのリヨンに家を持ち、リヨンからわずか10kmの所にあるポレイミューのカントリーハウスを所有していた裕福な男性でした。

1782年に、父親は息子の教育をより良くしたいと思い、ポレイミューで多くの時間を過ごし、学校には通わせずに優れた教育をアンペールにしていました。

13歳のときには、最初の論文である『円の弧と同じ長さの線を作成する問題の解決』をリヨンのアカデミーに提出します。

しかし、微積分を研究していなかったため、あまり評価されませんでした。

そこでアンペールは、ジャン・ダランベール(1717~1783)の微分計算についての論文を読み始め、さらに数学を学ばなければいけないことに気がつきます。

ダランベール

そして、微積分についていくつかレッスンを受けたのち、第19回で紹介したレオンハルト・オイラーと

第30回で紹介したヨハン・ベルヌーイの研究をはじめます。


14歳のときには、ドゥニ・ディドロ(1713~1784)とジャン・ダランベールの百科全書20巻を読破しています。

ディドロ

その後は、10代後半までには第29回で紹介したジョゼフ=ルイ・ラグランジュの「解析力学」(1788年刊)を独学で完全に習得します。


1789年7月14日には、バスティーユ襲撃によりフランス革命が始まります。

リヨンが包囲され、さらに街が陥落し、父親がギロチンで処刑されます。

この事でアンペールは、ショックを受け18ヶ月間研究を止めてしまいます。


その後、ジュリーという少女に恋に落ちたことで、やる気を取り戻し、研究を再開します。

はじめアンペールは、恥ずかしがりやで自分自身をうまく表現できなかったので、ジュリーはアンペールに対してあまり魅力を感じなかったらしいです。

その後1797年に2人は婚約するのですが、アンペールは生計を立てることができた方が良いと考え、数学の家庭教師をはじめます。

そして1799年に結婚し、1800年には息子が生まれます。

のちに、この息子は西ヨーロッパ言語の文化的起源を研究します。


1802年には、リセ・ジュローム・ランドの物理学と化学の教授に任命されるのですが、妻は病気だったので妻と息子を残してアンペールだけブールへ行きます。

1803年には、ゲームの数学的理論をパリ科学アカデミーに提出します。

しかし、その論文を読んだ第39回で紹介したピエール=シモン・ラプラスが間違いだと気づき手紙で指摘します。

ラプラスのおかげで、その後アンペールは論文を修正して再版されます。



同じ年の1803年の7月には、妻が亡くなってしまいます。

アンペールは妻との短い結婚生活の大半が別居していたことに罪悪感を覚えます。

1804年にはリヨン大学の数学教授に任命されるのですが、その後リヨンを離れてパリに行くことを決めます。

1806年8月1日には、パリでジャンヌ・フランソワーズ・ポトと再婚し、1807年7月6日に娘が生まれます。

しかし、1808年に法的に別居し、娘の親権をアンペールが手に入れます。



1816年までに光の波動説を強く支持し、オーギュスタン・ジャン・フレネル(1788~1827)に同意し、微粒子理論を提唱していたジャン=バティスト・ビオ(1774~1862)とラプラスに反対します。

フレネル
ビオ
ラプラス

ちなみに、アンペールとフレネルは良き友人となり、1822年からフレネルが亡くなる1827年まで、フレネルはアンペールの家に滞在していました。

1826年には、フランスの大学であるコレージュ・ド・フランスの教授に任命されます。



アンペールという科学者

アンペールは、13歳のときには論文をアカデミー提出し、数学の勉強が足りないと思い、ほぼ独学で数学の知識を身につけました。

そして、その数学の知識を使い、電気や光などの様々な分野で活躍しました。

そんなアンペールを第36回で紹介したジェームズ・クラーク・マクスウェルは『電気学のニュートン』と呼びました。

ニュートンは数学を力学に応用した科学者ですが、そんなニュートンようにアンペールは数学を電気に応用し偉大な業績を残してくれました。

今回は、独学で数学を会得した天才で"電気学のニュートン"と呼ばれた科学者であるアンドレ=マリ・アンペールを紹介しました。

この記事でアンペールのことについて少しでも興味を持っていただけると嬉しいです。

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