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【科学者シリーズ#089】日本の科学の発展に貢献したが日本への出入りを禁止された科学者【フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト】

科学史において、色々な科学者が交流することで科学が発展していくことがあります。

ヨーロッパの場合、若い頃から違う国の大学へ留学することができた科学者も多くいます。

しかし、日本人が海外に渡るということは簡単ではなく、さらに鎖国していた時代に海外の知識を得るには大変でした。

そんな中で、西洋科学の知識を日本に伝え、その後の日本の科学の発展に大きく貢献した科学者がいます。

今回は、日本の科学の発展に貢献したが日本への出入りを禁止された科学者であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを紹介したいと思います。



フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

名前:フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
   (
Philipp Franz Balthasar von Siebold
出身:ドイツ
職業:医者・博物学者
生誕:1796年2月17日
没年:1866年10月18日(70歳)


業績について

シーボルトは当時の日本に西洋医学を伝え、その後の日本の医学に多大な影響を与えました。

さらに、日本に鳴滝塾を開設し、日本人に西洋医学や自然科学など幅広い分野を伝えてくれます。

そこでは50人以上が学び、有名な蘭学者や蘭方医が誕生します。

この他にも、日本で生物、民族、地理など様々なものを収集し、西洋における日本学の発展に大きく貢献しました。

特に、生物標本や生物図などは、当時ほとんど知られていなかった日本の生物について重要な研究資料になりました。


生涯について

シーボルトの祖父と父親は、ヴュルツブルク大学の医師で、父親は医学部産婦人科の教授でした。

そもそもシーボルトの家系は、医者や医学教授を多数輩出している医学界の名門と呼ばれていました。

シーボルトは兄と姉が1人ずついたのですが、小さい頃に両方とも亡くなってしまいます。

1歳1か月のときには父親が31歳で亡くなってしまうので、母方の叔父に育てられます。

9歳の時には母と一緒にハイディングスフェルトに移住します。

12歳の時には地元の司祭になった叔父から個人授業を受けるようになり、さらにこの頃に教会のラテン語学校に通います。

1815年にはヴュルツブルク大学の哲学科に入学するのですが、のちに家族や親戚の意見に従い医学を学ぶことになります。

大学時代は、解剖学教授のイグナーツ・デリンガー(1770年5月24日 ー1841年1月14日)の家に住み、医学、動物学、植物学、地理学などを学びます。

イグナーツ・デリンガー

ちなみにシーボルトは、大学在学中に33回も決闘をして顔に傷をつくります。

これは、自分が医学の名門出身ということでプライドが非常に高かったからだと言われています。

さらに在学中は、デリンガーやネース・フォン・エーゼンベックから影響を受け、植物学に目覚めます。

ネース・フォン・エーゼンベック

1816年の20歳の時には、バイエルン王国の貴族階級にシーボルト家が登録されます。

1820年には大学を卒業し、医学の国家試験を受け合格します。

その後はハイディングスフェルトで開業したのですが、町医者だけでは満足できずに東洋学研究も始めます。

1822年にはオランダのデン・ハーグへ行き、7月にはウィレム1世の侍医からの斡旋をうけオランダ領の東インド陸軍病院の外科少佐に任命されます。

そして9月にロッテルダムを出航し、1823年8月には長崎の出島のオランダ商館医になります。

1823年秋には、『日本博物説』を脱稿しています。

ちょうどこの頃、出島の遊女である楠本たきと一緒になり、1827年5月31日には娘のイネが誕生しています。

楠木イネ

1824年には、出島の外に鳴滝塾(なるたきじゅく)を開設し、蘭学教育を行います。

この塾では、高野長英(たかの ちょうえい)、二宮敬作(にのみや けいさく)、伊東玄朴(いとう げんぼく)、戸塚静海(とつか せいかい)、小関三英(こせき さんえい)、伊藤圭介(いとう けいすけ)らに教えます。

高野長英
伊東玄朴
伊藤圭介

1825年には出島に植物園をつくり、1400種以上の植物を栽培します。

1826年4月には、オランダ商館長の江戸参府に随行し、桂川甫賢(かつらがわ ほけん)、宇田川榕菴(うだがわ ようあん)、島津重豪(しまづ しげひで)、奥平昌高(おくだいら まさたか)、最上徳内(もがみ とくない)、高橋景保(たかはし かげやす)と友好関係を築きます。

宇田川榕菴
島津重豪
奥平昌高
最上徳内

この時に、最上徳内からは北方の地図が贈られます。

さらに高橋景保からは、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの航海記である『世界周航記』と交換する条件で、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』をもらいます。

1828年には帰国しようとするのですが、先に出港していた船が難破してしまいまい、船の積み荷の一部が日本に流れ着きます。

このことが問題を引き起こします。

積み荷の中には幕府からの持ち出しを禁止していた、高橋景保からもらった『大日本沿海輿地全図』があったことが問題になり、幕府はシーボルトたちに対して地図の返却を要請したのですが拒否してしまいます。

そのため、シーボルトたちは出国停止処分を受けたのち国外追放処分になり、さらに高橋景保は獄死し、シーボルトに関わった人たち五十数人が処罰されます。

1830年にはオランダに帰ってきて、1831年にはオランダ領東インド陸軍参謀部付になり、日本関係の事務を任されます。

1832年には、これまで集めたコレクションを展示した『日本博物館』を開設します。

1845年の48歳の時には、ドイツ貴族出身のヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女が誕生します。

1854年には日本が開国し、1858年に日蘭修好通商条約が結ばれたことによりシーボルトの追放令が解除され、オランダ貿易会社の顧問として日本へ来ます。

1862年5月には長崎からオランダに帰国し、1864年には故郷のヴュルツブルクに帰ります。

そして、1866年10月18日にミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発し亡くなってしまいます。



シーボルトという科学者

シーボルトは医学界の名門であるシーボルト家に生まれ、医学の道に進んでいきます。

しかし、町医者だけでは満足できずに東洋学研究も行い、長崎の出島に来ることになります。

日本では様々なものを収集し、さらに鳴滝塾を開設し日本人への蘭学教育を行います。

しかし、江戸幕府から持ち出してはいけないものを国外に持っていこうとしたことが発覚し、最終的には日本から追放処分を言い渡されます。

今回は、日本の科学の発展に貢献したが日本への出入りを禁止された科学者であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを紹介しました。

この記事で少しでもシーボルトについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

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