【科学者#033】高度な数学が分からなかった科学史上最高の実験主義者【マイケル・ファラデー】
今現在、科学を研究するには数学が必須になっていて、科学を学ぶには数学が分からないと理解できないと思われています。
しかし、科学者の中には大学に行くことができず、高度な数学が理解できなくても科学史に絶大な影響を及ぼした科学者がいます。
今回は、高度な数学が分からなかった科学史上最高の実験主義者であるマイケル・ファラデーを紹介します。
マイケル・ファラデー
名前:マイケル・ファラデー(Michael Faraday)
出身:イギリス
職業:化学者・物理学者
生誕:1791年9月22日
没年:1867年8月25日(75歳)
業績について
静電気量の単位『ファラド(F)』は、1881年にパリで開かれた国際電気会議でファラデーにちなんでつけられました。
これは、ファラデーが電磁気学や電気化学の分野で多大な貢献をしたので、そのファラデーに敬意を表したものになります。
さらにファラデーは、、ファラデーの電気分解の法則を発見しています。
この法則が凄いのが、電子の存在がまだ発見されていなかった1833年に、ファラデーは電気分解における物質の変化量と電気量の間に関係性があることを実験的に発見します。
ちなみに電子は、ジョゼフ・ジョン・トムソンが1897年に発見したので、それよりも前にイオンの存在などを提唱していたことになります。
さらに、ファラデーは次の語句も提唱しています。
電気分解(electrolysis)
電解質(electrolyte)
電極(electrode)
陽極(anode)
陰極(cathode)
イオン(ion)
陽イオン(cation)
陰イオン(anion)
この他にも、ファラデーの業績は多くあり、ファラデーの名前が付いたものだけでも、
ファラデーの電磁誘導の法則
ファラデー効果
ファラデーケージ
ファラデー定数
ファラデーカップ
など多数あります。
生涯について
フェローになるまで
ファラデーの父親は鍛冶屋で、母親は農家の娘でした。
父親は健康状態が悪く、家族を養うことができず、ファラデーたちは貧困に苦しんでいました。
そこで、ファラデーが13歳の時に家計を助けるために、本屋に働きに出ます。
そこでは、1年間は小間使で雇われたあと、見習い製本業者として年季奉公に入り7年間働きます。
ファラデーは、この時期に仕事の合間に本を読んで様々な知識を身につけました。
21歳の時には、仕事で手掛けた「ブリタニカ百科事典」に載っていたカルヴァーニやヴォルタの電気実験に強い興味を抱き、自分でもやってみたいと思うようになります。
1812年には王立研究所で行っていた、第24回で紹介したハンフリー・デービーの市民を対象にした講義に出席します。
そして、講義のすべてを注意深く聞きメモを取ります。
その後ファラデーは王立協会の会長のジョセフ・バンクス(1743-1820)に「どうずれば科学的研究に携わることができるのか?」という手紙を書きます。
しかし、返信を貰うことはできませんでした。
1812年10月には、見習い期間が終わり製本業者として仕事に就きます。
この時期にもう一度ファラデーは科学者に手紙を送っています。
その科学者というのは、1812年に市民講座に参加したときの講師をしていたハンフリー・デービーになります。
ファラデーは、デービーの講義で取ったメモのコピーも一緒に送るのですが、バンクスの時とは違い返信が返ってきます。
しかし、デービーはファラデーに製本業を続けるようにアドバイスをします。
デービーは手紙で「科学は過酷な愛人であり、金銭的な観点から言えば、彼女の奉仕に専念する人にはあまり報われません」といいます。
しかしながら、その後デービーは助手と喧嘩し、助手を解雇してしまいます。
この事で、デービーはファラデーに声をかけ、1813年から王立研究所の職に就くことになります。
1813年10月には、デービーはファラデーを助手兼秘書として18ヶ月ヨーロッパ科学ツアーに出発します。
そこでは、アンドレ=マリ・アンペール(1775ー1836)や
アレッサンドロ・ボルタ(1745ー1827)
などの主要な科学者と出会います。
そして、このときにフランス語やイタリア語の知識を得ます。
その後ロンドンに戻ると王立研究所の助手として働き、実験室で化学実験を行います。
1821年には、サラ・バーナードと結婚します。
同じ年の1821年には電磁気回転の実験に成功したり、1823年には気体の液化に成功します。
これらの業績により、1824年には王立協会のフェローに選出されます。
しかし、この時デービーはファラデーを助手としか考えていなかったので、ファラデーがフェローになるのが許すことができず、一人だけ反対しました。
フェロー選出後の業績
ファラデーは1825年にはベンゼンを発見したり、1831年には電磁誘導を発見しています。
1832年にはオックスフォード大学から名誉博士号を授与されたり、1833年2月には王立研究所の化学のフラリアン教授になります。
その後、さらにファラデーは次々に様々なものを発見しています。
1833年 電気分解の法則を発見
1838年 真空放電のファラデー暗部の発見
1845年 ファラデー効果を発見と反磁性の発見
1862年 光のスペクトルに及ぼす磁場の効果の実験
さらにファラデーは、1826年に王立研究所で子ども向けのクリスマス講義を導入しているのですが、1860年にはこのクリスマス講義で「ロウソクの化学」という有名な講義を行っています。
ファラデーという科学者
ファラデーは清廉高潔の人柄だったといわれています。
1857年には王立協会の会長職、1864年には王立研究所の所長の就任を断っています。
生涯高い地位を求めず、ファラデーは「私は最後までただのマイケル・ファラデーでいたい」といいました。
そんなファラデーは、1858年まで王立研究所の一室に住んで質素な生活をしていました。
しかし、1858年にファラデーの身体を心配したヴィクトリア女王がハンプトン・コートの宮殿をファラデーに無料で住めるようにしました。
若いときは貧困に苦しみ、十分な勉強ができなかったファラデーですが、働き先の製本業の合間に本を読み知識を身に付け、科学への熱意からデービーに手紙を送り助手になりました。
そして、そこで様々な化学実験を行い、重要な発見をします。
ドイツの物理学者のフリードリッヒ・コールラウシュは、「ファラデーは真理を嗅ぎつける」と表現しています。
そのくらい、ファラデーは実験においての嗅覚が鋭く、高度のな数学の知識がなくても歴史に名を残す偉大な科学者になりました、
今回は、高度な数学が分からなかった科学史上最高の実験主義者であるマイケル・ファラデーを紹介しました。
この記事で、ファラデーのことに少しでも興味を持っていただけたのなら嬉しく思います。
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