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志賀信夫「貧困理論の再検討―相対的貧困から社会的排除へ」(法律文化社)読書感想

 本書は、現代の貧困理論である「社会的排除理論」について体系的に述べられた唯一の本といっても過言ではないように思う。しかし、日本においても「社会的排除」という言葉を使用する人は増えたが、それは日本語として単に社会から排除されている状態を示すに過ぎないものが圧倒的である。
 「貧困の存在を認識すること」と「貧困を知ること」は同義ではない。同様に「社会的に排除されている人がいることを認識すること」と「現代の貧困理論である社会的排除理論を知ること」も同義ではない。貧困問題が深刻な社会問題であることは多くの人びとの共通認識となっているが、日本では貧困が何を意味しているのかをめぐる理解、つまり、「貧困観」がバラバラである。これは、「貧困とは何か」という根本的な問いから出発する「貧困理論」ではない「貧困論」ばかりが先行していることが原因である。 
 著者は、「日本において貧困についての理論的研究が少ないため」と述べるが、本書は、貧困概念の歴史的変遷を考察し、現代の貧困理論として社会的排除理論を日本の貧困研究ではじめて体系的にまとめあげたものといえるのではないだろうか。

 また著者は、貧困理論は、単なる理論研究ではなく、現場での実践や当事者の語りなどによって得られた協働作業の結果の一部であるべきだと述べる。当事者が置かれている現実、そして対人援助や地域における実践、制度・政策が直面している限界性を知るからこそ反貧困としての貧困理論が必要なのである。
 これは本書の「あとがき」で述べられているように、著者が研究の原点となったという著者と長い付き合いのあった59歳でこの世を去った方の「悲鳴のような、擬音を発することしかできず、今は大きなパンチを貰って立っているのがやっと」という吐露に向き合い、「まず彼のことばにできなかったことばと向き合う必要があった」と率直に述べるように、当事者の声を理論的に言語化したいという強い動機と真摯な姿勢が本書には貫かれている。

 著者も述べているが、「貧困とは何か」という問いの答えは、意外とシンプルで誰もが直感的に気付いてはいる。そうであるにもかかわらず、本書は難解である。それは、反貧困の社会政策や社会的包摂の戦略の形成を射程に入れているからである。そうしようとすると、人それぞれ異なる「幸福」を社会政策のなかでどのように実現しようとするのかという困難な問題に直面してしまうのである。しかも、現在の社会は基本的に資本主義であり、労働の疎外の克服の可能性を模索しながらも、社会が容認できない生活状態をどのように認識してきているのかを記述しようとなるとどうしてもある程度の難解な理論が必要となってくるのである。しかし、裏を返すとこれまで日本では例えば経済学など他の分野と違い、貧困についての理論的研究があまりにも少なかったことによる私たちの馴染みのなさ故であることにも気づく。

 第1章では貧困の「記述的概念」と「規範的概念」という区別の必要性を述べることからはじまる。著者は、M・ウェーバが「価値判断の伴う論断や自分の理想を擁護すること」と「事実の科学的論究」が混同され、専門研究においてもなお広範にいきわたり、しかももっと有害な特性の1つと述べていること、また、A・センが(何がその時代の基準となるべきか、私の価値観はどうあるべきか、これらを全て私はどのように感じるかという)「道徳や主観的探究」と(何がその時の基準であるかという)「現在広まっている規範を描写すること」は区別する必要性を述べたことを引用して、本書は記述的概念による社会科学的な理論的再検討としての現代の貧困問題である「新しい貧困」に対応する貧困理論を提示することであると宣言する。
 規範的概念が求める完璧な正義とは何かという議論も大切だが、「記述的概念」として現実の社会の規範を正確に認識したうえで、不正義を除去するためのセンの「比較アプローチ」こそ重要であると。そして貧困の「概念」・「定義」・「基準」を「記述的行為」として、理論的に整理をする。   
 貧困の概念とは、貧困の意味が歴史的に、例えば絶対的貧困(動物的生存)から相対的貧困(共同体的生存)へ拡大してきたからこそ、新たな貧困の定義=従来の定義との区別が必要となること、この概念や定義が理論的に説明されなければ貧困の基準も根拠を欠いたものとなるのである。
 著者も述べるように「貧困研究の発展のためにも、このような最も基本的な事柄の確認から出発することは決して無駄ではない」し、貧困の「概念」が拡大する契機について理解するためには確認しておかなければならない大前提なのである。この気づきこそが本書の重要な論点の一つでもある。

 第2章では、「貧困の概念を拡大させる契機」として、まず「承認論」として「人間が他者の人格を自分と同様に自由で独立した存在であると認め、これを尊重すること」という定義を支持した上で、著者は、さらに「共同性」に関する議論が承認論のなかに含まれるべきだと指摘する。共同性はその「広がり」=どこまでの人びとを仲間とみるか、と「深まり」=どの程度の「平等」を達成すべきか、に区別して論じる必要があると述べる。
 これは①どのような人びとの自己決定を、②どの程度認め合っていくのかという非常に重要な論点となるもので、さらに「あるべき平等」と「どのような不平等を許容できないのか」という区別をロールズの正義の二原理を引用しながら、「追求すべき理想の提示」と「現実問題に対応する具体的な政策形成のための議論」(例えば、アファーマティブアクション(積極的差別是正措置))を分け、前者の重要性も踏まえながら、後者の議論の掘り下げの重要性を述べるのである。これは前述したA・センがロールズを引用し述べる「完全に公正な社会とはどのようなものか」と、現実問題として「何が選択されるべきか」というその背後にある実践的理由に注目することと対応しているように思う。
 そして、「何についての不平等なのか」という問いを置き去りにしたまま「許容できない生活状態」に関する議論を先に進めることはできないとし、A・センを引用し「自由の平等」、つまりあるべき最低限度の「自由」の保障こそが、現代の貧困問題に対応する理論の中核に据えられるべきであると結論付ける。
 そして現代の貧困理論である社会的排除理論は「自由」へのアプローチであり、このようなアプローチが可能となるのは、貧困概念の拡大の契機を共同性概念に求めることによるのであり、共同性概念を含めた承認論の検討こそが貧困概念へのアプローチを可能とさせると述べる。

 第3章では「貧困理論の変遷過程」として貧困学説が、絶対的貧困理論から相対的貧困理論へ、そして社会的排除理論へと展開した貧困概念の拡張及び再定義の歴史が述べれている。
 そして貧困概念の拡張の契機は、前章で述べられたように、「共同性」の「広がり」と「深まり」によるものであるということを歴史的にも検証している。このような観点で貧困理論を提示しているものは本書のみでないだろうか。つまり、社会における社会規範の変化を「共同性の広がりと深まり」と捉え、それこそが「容認できない生活状態の範疇の拡大」を促し、貧困概念が拡張されてきたのである。その意味でも、社会的排除の理論は貧困を最も広い意味で定義するものであり、社会政策の基盤にある考え方を相対的貧困理論の最低生活基準、すなわち消費生活の保障から、諸個人に対する社会的力の付与・保障にまで拡大するのである。この部分に社会的排除理論の歴史的意義が発見されるのである。
 このように社会的排除理論は、反差別の視点とも親和性を持ち、一体的な解決の必要性の理由を得ることが可能となる。

 第4章では、「社会政策における社会的排除概念」としてヨーロッパにおける社会的排除概念の特徴を述べる。
 まず、1992年のEU欧州委員会は社会的排除の定義として「権利から個人や集団が排除」されることなどが容認できない生活状態として指示されていること、1993年の欧州委員会の社会的排除概念の定義は、「権利」とは「市民」としての「権利」であり、その「市民」は特定の家族共同体の役割を担っている男性や女性などの属性や家族や企業などを前提とした組織の成員としたものでもなく、市民社会の個人として考えられていることを紹介する。
 イギリスにおける社会的排除概念の紹介においては、1997年ブレア政権で「社会的排除対策室」が設置され同室による社会的排除概念の定義は財・サービスの欠如の問題(特に低所得の問題)だけでなく、「能力」や健康状態、そして「差別」まで射程にいれていることがわかる。
 対策室は2006年に「社会的排除タクス・フォース」と名称変更され、その協力のもとにまとめられたレヴィタスらによる論考では、社会的排除概念の定義は、経済のみならず「文化」・「政治」それぞれの側面において、資源・権利・財とサービスが不足している、もしくは拒否されている、そして社会において大多数の人々には開かれている通常の関係性や活動に参加することができないこと、が含意されている。そして個人の生活の質のみならず社会全体における「公平性」と「結束」が述べられていることがわかる。      フランスにおける社会的排除概念の紹介においては、1998年反排除法がすべての人に基本的権利への効果的なアクセスを国のいたるところで保障することを目的としていること、RMI(社会参入最低所得手当)の制度第1条があらゆる形態の排除を解消することを目的としていること、そしてRMIを分析したロザンヴァロンが言及した問題意識として「社会的権利」「政治的権利」とのあいだの古い対立を乗り越えることが提案され「正義」や「公正」を定式化し直して、連帯のかたちを新たに創造すべきと述べたことなど紹介されている。
 社会的排除理論の意義は著者が述べるように「シティズンシップの権利という視点を理論的な整合性をもって貧困理論に導入できる」という点にある。これは、シティズンシップの権利の十分性に関する議論を惹起するものである。
 著者はそれを「労働の権利」によって特徴づけられると述べる。なぜならば、再分配の最初のものは労働によるものであり、社会保障や社会福祉による再分配は、歴史的にみると、労働者の労働生活をめぐる諸問題を解決するために生まれてきたという側面がおおいにあるからである。A・スミスが「国富論」において「富とは権力である」と述べたことを踏まえ、この権力と対峙するには市民的権利に属する「労働の権利」の普遍化と実現が必要であると主張する。
 なお、第2章では、共同性概念を含めた承認論の検討こそが貧困概念へのアプローチと述べる一方で、現実に起きている人種や民族、国籍や社会的身分等での差別やシティズンシップの権利の十分性が、「労働の権利」のみによりどう解消されるのかという疑問が残る。

 第5章では「貧困理論とケイパビリティ・アプローチ」としてA・センのケイパビリティ・アプローチを積極的に貧困理論のなかに位置づけていく、ケイパビリティは潜在能力と訳されることも多いが、簡単に表現すれば、ある個人が財・サービス等を使用して得ることが可能な自由の範囲、あるいは実際に選択可能な選択肢の広がりを示す概念である、この自由の範囲、あるいは選択可能な選択肢の広がりは、能力、財、環境の組み合わせによって構成されている。つまりセンのケイパビリティ理論も「自由」に注目するものであり、EUによって採用された諸権利にもとづくアプローチにかなり類似している。
 例えば、同じ「所得」であっても、その人が置かれている「環境」によって、その人が持っている「能力」「属性」によって獲得できる「自由」の広さは異なることは、例えば、社会的環境(社会保障)がより充実している北欧諸国とそうでない日本、交通インフラが充実した東京都内と自動車がないと買い物もできない地方では、人びとの自由には大きな格差があることは読者においても想像は容易なはずである。
 著者はセンのケイパビリティ・アプローチは、従来の貧困を補完するものではなく、相対的貧困理論によって捉えることができない現代の貧困問題を理論的に説明するための非常に重要な要素であるとする。そして社会的排除理論が提示するシティズンシップの権利の実質性という貧困理論の新たな展開を特徴づけるのは市民的権利に属する「労働の権利」であると強調する。
例えば1980年代以前、女性にも「労働の権利」は形式的には付与されていたが、その実質性が問われるようになったのは社会参加概念の変化と歩みをともにしている事実がある。
 したがって「労働の権利」に手を付けない社会的権利は、例えば竹中平蔵などの新自由主義者が唱えるベーシックインカムに対して、対抗できないどころか、従来の貧困概念に基づく財・サービスの要求の繰り返し以上のことを意味しない可能性を孕むこととなる(例えば障碍者の方の働く権利を保障しないまま、金銭給付で置き換えることなど)。
 著者はそこで、エンプロイアビリティという概念に注目する。雇用確保力と訳されるが、エンプロイアビリティは単に個人の能力だけでなく、社会的環境などの関係性によって構築される(例えばある産業が衰退し雇用が減少した場合、個人の能力は同じであってもエンプロイアビリティは低下する)もので、ケイパビリティ概念と共通した特徴がある。これらはどちらも自己決定できる自由に着目する概念だからである。
 なお、センのケイパビリティ・アプロ―チは、モノの消費に焦点化した貧困理解の不十分性を指摘する理論的根拠を与えるが、どのような場合であれば十分性が確保されるのか(つまり貧困でなくなるのか)ということについて積極的に提示するものではないという疑問に著者が答えた箇所というのがわかりづらいのも事実である。ケイパビリティを貧困問題に応用しようとするとき、健康に着目すべきなのか、教育に着目すべきなのか、あるいは自尊心に着目すべきなのか、どこに着目すべきなのかが曖昧であり、セン自身もリストを提示することは「先験主義」であり、必要のないもので、何が重要な「機能」であり、何が社会が保障すべき機能(functioning)であるのかは我々の議論にかかっていると述べているが、著者はそれを「労働の権利」と位置付けることを主張しているのだと私は理解した。

 第6章は「貧困理論の新たな展開」として、社会的排除概念が新たな貧困理論ではなく、これまでの貧困理論を補完するものとする立場の論者への批判、センのケイパビリティ理論が、マルクスのいう資本主義による疎外論からの視点がないという主張への反論がなされている。そして本書が述べる「自由」とは、マルクスが「資本論」で述べる「自由の王国」などの社会像における人間の生き方と重なるものであると述べる。マルクスは、資本主義的生産様式のもとでは、労働を自分自身の生存の手段とせざるをえないことによって、それが自由な生命活動として成立しなくなることを述べるが、社会的排除理論は、その要素である「労働の権利」の実現により、「疎外された労働」に対して「疎外されない労働」を提示する可能性を述べるのである。絶対的貧困理論⇒相対的貧困理論⇒社会的排除理論という歴史的変遷は、動物的生存⇒共同体的生存⇒市民的生存という変遷の歴史を記述したものであり、人間がその疎外された本質を取り戻していく過程であるからである。このように社会的排除理論をより包摂的な社会を目指す肯定的な契機として模索する際に貢献すべき理論として位置付けようとする著者の姿勢が顕れている。
 なお、「自由」に関し、センの使用するFreedomと著書が使用するLibertyの違い及びFreedomを指向するという重要な要素を排除していないという部分はとても高度な議論で難解である。私は、自由の記述的概念がLibertyで、規範的概念がFreedomだと一応は理解した。

 以上のとおり、本書は貧困を考えるうえで大前提として押さえておくべきたくさんのものが理論的に述べられている。したがって本書は212頁しかないものであるが、私のようなものにはきちんと理解するのにとても苦労したのも事実である。特に、第6章で述べられるマルクスと関連付けられる「労働の権利」の解釈の妥当性は、それが具体的な社会運動論の展望を展開するまでに至っていないので抽象的すぎて理解が難しかった。しかし、昨今、マルクスを再評価し、新たな解釈を提示する出版物が多くみられるように、これらの本と併せて読めば、貧困をはじめとする生活問題が「資本―賃労働関係」から生じ、固定化され、助長されている現状を踏まえ、少なくともその趣旨の理解は進むかと思う。社会保障制度や人権は「労働者間の競争」を規制するために労働者が自ら勝ち取ってきた歴史的な成果物であり、日本において社会保障が削減・後退させられているということは、こうした競争規制が弱体化するということでもある。貧困は、社会保障・福祉の直接的な利用者だけの問題ではなく、労働との問題において重要であることを示した点は、大いに参考となる。

 さらに本書は、貧困が差別の問題と根を同じくしていることのヒントを与えてくれる。著者が述べるようにシティズンシップに基づく「社会参加」は、シティズンシップの諸権利に基づいて自己決定できることによってその諸個人の生活を形成していく過程であるが、このシティズンシップの諸権利とは「社会的権利、政治的権利、市民的権利」をその主要な要素としており、シティズンシップに基づく「社会参加」を特徴づける重要な要素として著者が示す「労働の権利の実現」のためには、かつて女性の労働の権利が形式的であったがその権利を実質化すること、つまり「最低限の自由の平等」として「女性に対する差別をなくす」ための闘いによることが必要なのである。
 「新しい貧困理論」としての社会的排除理論の述べる社会参加は、「メンバーシップ」によるものではなく、「シティズンシップ」に基づく「社会参加」であるということは、女性や障碍者、性的マイノリティ、人種、民族、地域、社会的身分などの差別等をなくすことであり、モノの給付だけでなく「自由」「権利」の実現である。したがって、社会的排除理論はメンバーシップを否定するものではなく、マイノリティのメンバーシップの承認を促進するシティズンシップともいえる。
 本書のあとがきで述べている今後の諸課題の検討や本書でふれられなかったという「市民」概念の日本を含む東アジアでの有効性や、「自己決定」概念を「共同的自己決定」と表現し、説明すべきものであろうという理由については気になるところであるが、それを踏まえても本著は、反貧困を目指す人にとって、現代の貧困である社会的排除理論を理解するうえでのバイブルである。さらに反差別などの社会問題を一体のものとして、より包摂的でより公正な社会を目指す理論としても活用が可能である。私も本書に多くの示唆を受けた。私も同様であったが最初は通読するのが難しくても、直感的にでも気になったキーワードなどをつまみ読みしながら、またA・センなどの著書をあわせて読みながらでも、じっくり時間をかけ、読み返しながら、理解を進めてほしいと思う一冊である。

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