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宮沢賢治の法華信仰の核



宮沢賢治が法華経の16章「如来寿量品」を読んで感激して、信仰を深めたことはよく知られている。しかし、どこに感激したのか、何をどう受け取ったかのことは触れられていない。信仰は信仰として、文学とは分けて考えられるのが普通である。そこには宗教は文学とは分離されている。宗教を排除しようとする傾向がある。扱うときは、賢治は敬虔な法華信者でした、というように突き放している。
しかし、法華経は賢治そのものだし、切り離すことはできない。
そこで、賢治が何に覚醒をもとめたのか、悟りとして何を得たのかという点についてのみに限って探究してみたい。
概略的な知識から入るのではなく、むしろ信仰ないし、仏になるという成仏という覚醒に中心をおきたい。

かつて、私は「如来寿量品」のどこに感激したのかがよくつかめないでいた。何に感激したんだろうということが、よくつかめなかった。

それが、ある仏教の師の法話を聞いていて、ひょっとしたらそうかもしれないと気づいたことがあった。
それは、宮沢賢治とは関係のない文脈で話されたのだが、如来寿量品の巻末に出てくる言葉であった。

毎自作是念
以何令衆生
得入無上道
速成就佛身
毎に自らこの念を作す。『何をもってか衆生をして 無上道に入り 速に仏身を成就することを得せしめん』と
どのようにして、かれらを「さとり」に導こうか。どのようにして、かれらに仏の教えを得させようか」と考えて、世間の人々に、それぞれに語るのだ(岩波文庫)

この仏の教えを得させるためには、巧妙な手段を使ってでも、世間の人々を導きなさいということではないかと感じとった。
師に「宮沢賢治も如来寿量品に感激したと言っていますが、この部分でしょうか」と質問すると、師は「そうだと思う」と答えていた。どこまで、賢治のことを知っているのか知る由もなかったのだけれど、この時、賢治が花巻を出奔して国柱会の門をたたいた時に対応に出た、高知尾智燿から受けたサジェスチョンがその時念頭にあった。
その時のサジェスチョンというのが、次のようだったとされる。

童話であろうが、心象スケッチであろうが、短歌・俳句であろうが、法華経の正しい信仰をもった作者が、この信仰のやむにやまれぬ発露として表現された芸術的作品を法華文学といったように思う

このように高知尾智燿は「宮沢賢治の思い出」の中で述べている。賢治はそのサジェスチョンに忠実に、次々に童話を作成していったとされる。
この初期童話たちは、少年少女期の終わりからアドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとってゐる、とされるように人としての本質的な存在を問いかけてくるものだった。「若いなぁ」と感じるあの年老いた大人たちの発する感慨を打ち破るようなものだった。

それは高知尾智燿のことばから推し量るなら、それが入信への導き(誘い)の手段だということでもある。

賢治がこよなく愛した菩薩に常不軽菩薩(じょうふけいぼさつ)というのがある。この菩薩は街で通る人を見かけると駆け寄っていって「私はあなたを軽蔑しません。あなたは修行して仏陀になる人だからです」というのだ。
言われた側の人は「なんか気持ちの悪い奴だな」と感じるかもしれないし、怒りに任せて殴りかかるかもしれない。殴り掛かられてもそこから逃げ出して、反撃せず遠くから同じことを言い放つという。言われた人は初めは気持ち悪がるが、何度もあると心を動かされるというのだ。思いもよらぬことを、そしてそれが否定しがたい正しいことを言っているというので、心の底はおだやかではない。そして、靡いていくという人間心理に訴えている。
これは手段であって、こんな手を使っても、仏道へと引き込め、または教えを知らしめよということだろう。
賢治の初期童話には、このことを強く意識した作品が並んでいる。*

*特にどれということもないが、例えば「よだかの星」なんかはインパクトを与えている。


そうすると、賢治が感動したのは、やはりこの部分だったのではないだろうかとひらめいたのだった。

そのものである『如来寿量品』の内容は、どうだったかというと、七喩の第七と言われる「良医と王子の比喩」が語られる。
それは百人の子供たちを抱えた良医がある時地方の診療のために出張していた時、子供たちが毒薬を飲んでしまった。それを聞いた良医は急いで帰国して良薬を調合したところ、半分の子供たちは、それを服用して本心に帰るが残る半数の子供たちは「いずれ父が対処してくれる」と服用しなかった。良医はやむなく他国に向かい、「父死す」の報を届けた。
それを聞いて残っていた半分の子供たちも驚いて服用して本心に戻ることができたという譬喩である。もちろん、この父死すの報は嘘であり、方便であったということだ。
一般的には、この品の主題は、仏陀の導きに目覚めなさいということであるが、こんな技巧をもってしても、仏陀の教に導くという譬えであり、また説教的に解くべきであるという姿勢であったとみられる。
もちろんこの品の前段は仏陀が久遠の過去に成就したことを釈尊のお言葉によって明らかにするという趣旨で、如来は歳をとらないし、寿命は永遠であるということがこの品のタイトルになっている。それだけ素晴らしいということであるが、どうも賢治が反応したのはやはり最後のこの部分だろうと思われる。教えを聞こうが聞くまいとあなたの自由ですよという態度ではない。押し付けがましくも、むちゃぶりしてでも教えを説くこと、入信させることがその人にとっても重要であるとともに自身の信仰の証でもある。賢治が父親に逆らってまで改宗を求めたのは、このことに由来していると思われる。(父は敬虔な浄土真宗の信者であった)
しかし、その情熱は純粋に法華信仰から来るものだったのだろうか?
どうも違うように思われる。
法華信仰という意匠をまとっているが、それだけではないだろう。
法華信仰で十分だったら、法華信仰だけをやっていればいいのに賢治はそうではなかった。戦前の法華信者たちと同じようにそれをテコにして行動へと拡大していったのである。
その意味では戦前は浄土教より法華経の方がラジカルであった。行動へと落とし込んだものだと言える。賢治の入信した国柱会もそうであったし、世紀のテロリスト井上日召だってそうだった。
これは、法華経による日蓮宗というよりも、「日蓮主義」として思想史では登場しているけれど、釈迦がどこかに行ってしまっては「南無妙法蓮華経」だけになってしまう。南無妙法蓮華経至上主義になってしまっては「南無釈迦牟尼仏」が消えてしまったら、もうそれは仏教ではない。
日蓮主義にこだわると本論から外れるので、これ以上は議論をしないが宮沢賢治がその中の一人に数えられている事は言うまでもない。
本来の田中智学の教えた日蓮主義が、単に宗教だけではなく、政治・経済・文化・芸術などの幅広い社会的な領域へと広げよう外発的な運動であったから、これはこれで時代の産物である。
時代をラジカルの部分としてとらえたとして、そこに含まれない賢治の核とは何だったのだろうか?
ここで試みようとしているのは、法華信仰の側から見た賢治解釈でもなく、賢治側から見た法華の世界の事でもない。賢治の信仰というか心の核心がいわゆる悟りであったとしたら、そこから賢治がどう発露していったのかという探究である。
私のとらえた悟りの核から見た賢治はこのように見えるのだという視点である。
なぜ、こんなにも主観的なことを言い出すのかというと、あくまで主観で捉えないとどうしてもこぼれ落ちてしまうものがあるからだ。
冒頭になぜ「如来寿量品」に感激したのかとかよくわからないと書き出している。本当は賢治の頭の中で起こった現象だからわかるはずは無いのだけれど、自分なりにどうしても腑に落ちなかった。法華経に何ら関心がないためかもしれない。また現実には生きた時代状況が違うかもしれないのだが、文学としての賢治はよくわかった。しかし宗教と深く結びついている賢治の理解ができずにいた。
しかし、それらが別ルートで自分の覚醒というか、悟りになるものを体験して初めて、ああそういうことかということが理解できた。
これは何も主観的な思い入れという事だけではなくて、いやそうではなくて主観的にしかわからない、という純客観なるものなど存在しないし、かつそれも幻想の一つだという考えに至ったからで、これは哲学的には永井均の位置に当たっていて、すべては私の内部で起こった現象にしか過ぎないという理解によっている。
その立場から見れば、どう見えるのかということである。そこはいとも簡単にこれは賢治の頭の中で起こった現象であって、法華はその手段として使われているということだろう。
現実に語りだす材料として使われているのではないだろうか。すると賢治の本質とは何だったのだろうか。
それは父政次郎氏が通夜の席でふと漏らしたという「自由奔放な天馬」と表現している事はヒントになるかもしれない。

「あれは若い時から手のつけられないような自由奔放で早熟なところがあり、いつ、どんな風に天空に飛び去ってしまうか、はかり知ることができないようなものでした。私はこの天馬を地上につなぎとめておくために生まれてきたようなもので、地面に打ち込んだ棒と網との役目をしなければならないと思い、ひたすらそれを実行してきたのであります」と

と述べていたそうだが。この「自由奔放な天馬」ではなかったか。早逝ではなく、生ききったとも語っている。
これは私なりに語り直してみると、賢治の持った〈私〉というものが関心のおもむくままに展開していったのだと言える。それは、すでによく語られるように石への興味であったり、同人誌の発行という文学であったり、仏教の関心も真宗から法華へと興味の対象が移って行ったりした。農業については農業学校であったから、科学への関心も高かったし、そのほかエスペラント語、レコード収集そして楽団を組むまでに行っている。東京好きで頻繁に上京していた。極めて多方面に関心を持って展開している。これはとりもなおさず〈私〉の展開であって、各作品に残っているように顕現された。
すでに万巻の賢治本が出版されているし、かつ星の数ほどの論文もある。既に語られているかもしれないが、その〈私〉と言うのは「透明な幽霊の複合体」というわたしと捉えられていたし、(『春と修羅』の冒頭の所)それは「久遠実成の本仏」とも考えたので、その〈私〉という電燈をともすその光を送信してくれる本体であると考えていた。「一なる本体」があって、それは永遠の仏、つまり久遠実成の本仏と考えていたのである。
そうすると、賢治の形而上学はやはり「一なるもの」が存在するという側にある。「一なるもの」をもとめるとともに、そこから全てが展開するという側の形而上学であり、スピリチュアルであった。そうすると釈迦が消えても不思議ではないわけだ。
なぜなら釈迦はそんなものは無いと言ったのだから。
永遠不変の実体というものはないとして空としてとらえたのに、いつしかその空がそのまま180度反対に移って実体としての空になり果ててしまったように、大乗であるはずの法華も実体としての空に変化してしまっている。
ともかく賢治は一なるものを求める側の形而上学であった。
これが賢治の法華信仰の確信であり、それが故にクリスチャンとも語り合える、交流が可能であるのであった。
実に敬虔なクリスチャンであった高瀬露への手紙の下書きが残されている。「宇宙意志」という言葉で表現している。これが「一なるもの」を指すのだろう。


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