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続:タテ書きヨコ書きに関するモヤモヤ

先回、中途半端で終わってしまったので、もう少しまとまった結論に至りたいと考えたのと、実際にブログはヨコ書きであるが、紙の本ならタテ書きにするという習慣があるので、なぜそうなのかについて、何らかの考えを持ちたいと探ってみた。

実際、ヨコ書き原稿を出版しようとした時に、タテ書きに直しましょうかと編集者に言われたことがある。そこには、事前にタテでもヨコでも一緒でしょうという前提で話していたのだと思える。単に表記の違いだけだと。

日本では、本は大部分がタテ書きだから、タテでいいんだという思う込みがあって、そう話したのだと思う。しかし、すでに議論してきたように、そんな簡単な話ではない。もっと、重要なというか違う次元の問題がありそうである。

それは、日本語そのものの問題というより、語りだすということにおいてはおなじなのだけれど、書きつけるというエクリチュールとしては微妙に変化するということではないだろうか。
ディスクールとエクリチュールの問題というよりかは、エクリチュールそのものに内在する問題であって、どう書くか? どう描くというような文体的な問題に近いのではないかと思う。

これが、ディスクールなら、どう話すのか? というようなトークの問題に近いようにである。

そうだと仮定してもう一度元に戻って考えてみる。

三浦つとむ『日本語はどいう言語か』(講談社学術文庫)版を確認する

先回、三浦つとむの議論している部分を確認する目的で、講談社版を手に入れて、熊谷高幸の三浦の議論の部分を確認してみた。

それは第2部の冒頭に「日本語の特徴」として一章を設けている部分だ。

第1節 日本語は膠着語である
第2節 日本語はヨコ読みはなぜ読みにくいか
第3節 目玉「理論」の二つのまちがい

より成っている。

すでに、ヨコ書きは読みにくという前提からスタートしている。

文脈は、日本語はインド・ヨーロッパ語とは違い、語が変化したり、男性・女性の区別がなくて、単語そのもは変化せず、文法上の関係をしめす語をくっつけて使う言語だという説明からはいって、もう一つの日本語の特徴として「敬語」があるという特徴で締めくくっている。そしてヨコ書き表現が読みにくいという説明に入るが、これは先回のブログで述べたように一段一段で読み取っていくのか、語そのもを追っかけていくのかの違いだという。

そして「目玉理論」というのは、目玉は二つヨコに並んでいるので、ヨコ書きだと一目で多くの文字が見えるという理論だ。読みやすいはずだと。

しかし、それが間違っているというのは、①見えたからと言って読んでいるわけではない②ヨーロッパの言語と日本語では文字の組み方が違うということを無視しているという。

たしかに、①の見えていると読んでいるとは違うだろうし、②の文字でもヨーロッパ語は単語の長さが個々別々であり、単語単位である。しかし、日本語は一語一語が独立しているが、長さは限られている。長いのは漢字熟語ぐらいではないか。

そこで、日本語は語に注目するので、語から語へと流れていく。ゆえにタテ書きの方が読みやすいのだとしていた。
そして一歩進んで、タテ書きの特徴をのべている。

その文字の中に単語を区別し、その単語の意味を区別し、その単語の意味を読みとりながら、単語の平面的なつながりの背後にある立体的な書き手の思想をつかむという、精神的な作業をすすめなければならないのです。

p-97

しかし、これは別にタテ書きでなくとも可能なので、特にタテ書きの特徴とは言えないのではないだろうか。ヨコ書きの小説であれ、タテ書きの小説であれ、読み終えたら、なんだっただろうとメタ意識が生じるわけで、かならずしもタテ書きのみの特徴とは言えないだろう。

ちなみに、この引用の後に続けて、「この作業が妨害されると、読みづらいと感じるわけです」とある。作品をまるごとということではなく、部分々でも背後にある書き手の思考の動きを追っているということなのだろうか。
それはかなり、随筆的な文章であって、タテ書きでも平面的で字面だけの文章も多いのであって、必ずしもタテ書きの文章だけの特徴とはいえないだろう。

ただし、のちに述べるけれど、ヨコ書きで書いたものをタテ書き表記に直してみるとかなり「感じ」が変わるのと、文字を追加しないと文章にならないことを経験した。
(実例はのちにリンクを張る。)

そこで、もう少し考えてみようと書庫を探してみると金谷武洋『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)と瀬戸賢一『日本語のレトリック』(岩波ジュニア新書)を発見した。なぜ書庫なのかというと、これまで読んだ本の中で記憶から探し出してみようと考えたからで、ネットで調べるといったってどうしらべていいかわからないからで、ともかく参考になるものはないかと探してみたのだ。自分の頭の中にあるものを探してみるということだ。ネットで探してみると言ったって、誰も考えたことのないようなものは探しようがない。実際、熊谷本のレビューを見てみたが、そのような問題意識はないようだった。

金谷武洋『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)と瀬戸賢一『日本語のレトリック』(岩波ジュニア新書)

金谷武洋の本は、どこまでも日本語に主語はいらないという主張を繰り返すような本で、あらゆる角度から同じ主題をあつかっている。そして、実はヨコ書きの本なのだ。読みにくいいを証明するような本でもあり、なんとも内容といい、その記述というのが頭に入ってこない。

ヨコ書きで、主語がなければ、長い文章では、なにを言っているのかわからないだろう。モントリオールで日本語教育をしているというけれど、これではわかりづらいだろなと思える。
でも、この主語がなくても可能だという日本語の特徴がなにか関係していると思う。

瀬戸賢一の『日本語のレトリック』は岩波のジュニア新書の一冊として出版されたが、ジュニアだけでなく多くの人に手を取ってもらいたいと数量限定で出版されたものだ。ここには30のレトリックが紹介されている。

レトリックそのものが、タテ・ヨコ問題に関係してくるのかというとどうも違うようだ。すでにテクニックではないからだ。

何に一番近いのかというとやはり「文体」ではないだろうか?
瀬戸はこう述べている。

文章には調子があります。つまり、文体とかスタイルとか言われるものです。とくに冒頭は気をつかいます。右に述べたように、話題がそれほどポピュラーではありませんから、できるだけ読者の目線と同じところで、語りかけるような気持ちで書き進めることにしました。

p-181

右に述べたようにとはレトリックのことをさしている。あくまで著者がそのように読者を想定しているということであって、それが「です・ます」調になっているのでもあり、「日本語の豊かな文章表現を学ぶ」というコピーがついているのだと思われる。豊かな文章表現といったって、要は内容でありコンテンツの面白さがないと意味がない。なんか皆さん勘違いしているような気がする。

しかし、ここで注目するのは、「文章には調子があり」と「文体」「スタイル」という言葉だ。これは個々のレトリックではなく、文章全体にかかわっている。どう、表現するのかという問題なのだ。

そうすると、タテ・ヨコも書きたい内容がどちらに適しているかという問題であって、ヨコをそのままタテにしても、その逆でもそのままでは済まない。

実際、2から3件ほど、ヨコのブログをタテのロマンサーで表示してみた。

先回のブログ
note版

ロマンサー版

実際にやってみると、いくつかの文章を加えたし、「てにをは」もすこし変わった。なによりも文章内容の強弱が変わったように感じた。
ああ、これはヨコ書きで書いたからだと感じづにはおられなかった。

その逆を試みてみると、なんだか軽くなって、思いが伝わらないのではないかと感じるものになってしまっている。

これはあきらかに、どう表現するかの問題だと思う。
タテがいいかヨコがいいかの問題ではない。書き表したい内容によっているのではないだろうか。なにをどう表現するかによって文体を選択するようなものではないのだろうか。

そうすると、表現としての言語、特に書くというレベルでのプラクティスの問題ではないだろうか。

例えば理数系の本をタテ書きで書かれていると読みにくい。読み物ならまだしも、論文がタテ書きでは読めたものではない。数学の教科書がタテ書きだったどうする。数式を見るのにいつも本を傾けなければならないだろう。

Wikiによれば、ヨコ書きは、「外国語、数学、科学、音楽などに関する専門書、つまり、横書き言語、数式、楽譜を含むよな文書のほとんどで使われている」とある。でも、SNSをはじめ、このnote.comでもヨコ書きだ。例外はいくつもあって、むしろタテ・ヨコを併用しているようである。これが現実だろう。

あえて、タテ書きじゃないとだめだという根拠はないように思う。それでも、タテで書きだすのかヨコで書きだすかによって違いがあるような気がする。

なぜなんだろう?

それは、おそらく表現としての言語という問題ではないだろうか。
そうだとすると、吉本隆明の言語美*が参考になるかもしれないと気づいた。

*吉本隆明『言語にとって美とはなにか』で展開された理論

そこで、手近にあった『日本語のゆくえ』を手に取った。

吉本隆明『日本語のゆくえ』(光文社)

この本は、吉本隆明が母校の東京工業大学で講演した内容をもとに構成されたもので、2008年刊とあるので、その前年ぐらいだろうか。講演なので、平易な語り口で述べている。それもこれまでの思考を集約するようなものなので、わかりやすい。

この本の第2章に「言語空間の構造化」という章がある。
そこに、品詞を分類して、自己表出性の高いものと指示表出の高いものを分類して、図にしている。(p-79)【著作権の問題から許可を得ていないので引用できませんが】

自己表出性の高いものから順に感動詞、助詞、助動詞、副詞、形容詞、動詞、代名詞、名詞の順になる。指示表出の高いのは、その逆ということだ。

感動詞といえども、まったく自己表出だけということではなく、その割合がたかいということで、言語はどちらかに分類されるというよりは、自己表出と指示表出の織り成すものであるという説明がされている。

指示表出というのは「机」とか「電灯」とかそういうものとして考えやすいという発言からはじめて、「使用性といいいましょうか具象性といいましょうか」と話して、語の持つ指示性を多く含んでいる性質を指摘している。逆に自己表出というのは、指示性よりも自己の思いが言葉になって出てきたという性格の強いものになっているということをしめしている。
実際の言葉は、この二つの性質の織り成すものであり、それが言語だというわけだ。

この理論から類推すれば、タテは自己表出性が強くて、ヨコは指示表出性が強いとは言えないだろうか。
むしろ、ヨコは指示性が強いと、逆にタテは何とか思いを伝えたいという自己表出性が強いと。
でも、指示性のみと言っていいような法律の条文もあるので、必ずしもタテ・ヨコが該当するわけではないだろう。
かなり、シーケンシャスな文書においてということだろう。つまりは一つながりの文章においてということではないか。そうだとすると小説とかエッセイを含めたいわゆる読み物である。

そこで、思い出したのが、平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』という短編集で、ここでタテとヨコ作品が混在していた。
詳しくは、次回に。 
(続く)


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