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霊的開眼とは何か 第3章古井由吉『神秘の人々』

第三章 古井由吉『神秘の人びと』
 
霊的開眼は何も仏教だけのものではないので、キリスト教に目を向けてみよう。それでもその世界はあまりに大きな世界が広がっているので、取りつく島もないようである。ふとしたことで読んだ古井由吉の『神秘の人びと』をたよりに探求すべく議論してみよう。
『神秘の人びと』というのは、古井がマルチン・フーバーの訳書を読むという形式で綴られたエッセイ集である。エッセイといっても随筆などではなく、「試論」と訳したほうがいいような文章である。論は論だけれども評論という現在の状況に照らし合わせての発言というものではなくて、時代を超えているといっても良いかもしれない。ただし、書き下した年代は、1994年10月から1996年1月までの雑誌『世界』に連載したとあるから、その時代状況を無視するわけにはいかないが、特別に時代を表するような文言は登場しない。
この時期というのは例のオウム真理教の起こした事件のど真ん中であり、宗教体験たるものが、そして宗教的な境地といったものが、旧来の宗教からはオウム真理教を批判することができていなかった時代であった。
仏教界は、このオウム事件が大きな起爆剤となって、新しい方向へと進んでいったが、キリスト教関係の動きについては寡聞にして事情をよく知らない。
オウム真理教の瞑想などを直接批判するということが、その時代にはできていなかった。現在なら、あれはどうも嘘くさいということが言えるのに、それがわからなかった。意味ありげに、麻原彰晃は、宗教的には相当の力量のある人だというような発言が知識人からあって、それに翻弄されたりした。
ここでも先の井上日召と同じようにテロ事件が起きているんだけれども、この娑婆世間的には肯定することなどできはしない。そこで得た教訓は、宗教体験と言い、宗教心を問題にするのは、いつも個人の内部での現象なのだ。教団なり宗派なり集団化した宗教は問題にしないということだった。

このことに深入りしていったら一つも先へ進まないので、深く立ち入る事はしないけれど、あくまで、神秘的な体験ないし宗教的な体験に関心があったとしておこう。
私自身は後年になってこの本を読んで、これは評論でもなくエッセイでもなく立派な一つの文学作品だと感じていて、多数ある小説群の中でもかなり優れた作品に入ると考えている。「エッセイズム」という小説からエッセイへの接近と逆にエッセイから小説へと接近する漸近線上をすれすれのところに位置するものだと考えている。
学術書のようでもなく、解説書でもない、まして命題を立てての論でもない。論理があるかと思えば筆者自らが、知識の及ばないところと告白する、そんな部分もあって、そうかと思うとドイツ語の原書を訳してみるという訳者になったりするという記述もある
何もここで本の解説をしたいわけではなくて、これまでの形式に則っていては示し得ないものがあるという意味をこめて、その体裁を述べているのであり、この今、書き下している文章もそうありたいということなのだ。稚拙であったとしても、回りくどい言い回しでないと霊的開眼の意味を伝え切れないと思うからだ。
 
それでは本文に入っていこう。16編があるうちの最初に注目したのは「虚白の部屋」と題されたエッセイでイタリア中部のフォリーニの女性アンジェラという人の告白記が紹介される。これはマルチン・フーバーの『神秘体験告白集』の中に見えるという。この人も12世紀後半の人であるらしい。
そうらしいというのは、神秘主義と言えば、マイスター・エックハルト(1260ごろ―1328?)をあげることができるが、同じころの年代なのではないかと考えられるからだ。
エックハルトというと「彼は何も見なかった→無を見た。そしてその無は神であった」というリフレインの繰り返しのような人であるから、その語るところはよくわからない。
そこが、神秘主義の神秘主義たる所以であるけれど仏教の悟りだって、神秘と言えば神秘なのであって、その言辞を持っては語りえないとしているので同じ体験だとも言えるのではないか。
そこでこの本のエッセイのタイトル「虚白の部屋」というのは、荘子「虚室生白」を意味しているので、虚しい部屋にこそ光がくっきりと浮き上がる、心を空しくすれば真理が明らかになる。というような意味なのだろう。
冒頭、古井の訳出したアンジェラの文章は以下のようだ。


 
―ある時、わたしの魂は高く掲げられ、そしてわたくしはそれまで一度としてそのように神を感じたことのなかった大いなる明瞭さにおいて、それまで一度として経験しなかった完全なる観じ方によって、神を観じた。そしてわたくしは神の内に愛を見なかった、わたくしは以前に抱いていた愛を失った、私は非愛となった。


 
神を感じたけれど、その神に愛は感じなかったので、私も愛がなくなって非愛になったんだと言っている。信仰を失ったのだろうか? そうでもなさそうである。
愛をたとえば「かけがえのなく大切に思うこと」としてみると神は私を愛してくれなかったから、私も愛さなくなった。かけがえのないものではなくなったと告白していることになる。


 
―私は非愛となった。そしてそののち、わたくしは神のひとつの闇の内に観じた。闇の内に観じたのは、神は思惟あるいは理解され得るものよりも大きな善であるからだ。思惟あるいは理解されるものは、何ひとつとして、神のもとに至り着かない。


 
ここには、二つのことが書かれている。一つは神と闇の中で出会ったこと。二つ目は思惟あるいは理解では神にいたりつけないことだ。思惟はおそらく言語思考のことを指しているのだろうから、我々の言語思考では神にいたりつけない。仏教的には言語思考では悟りに至れないという事態と似ていると考えられる。
神を闇の内で見たというのは、古井の解釈では、思惟も理解もいきつけぬ境位ないし彼方と読めるとしているが、本来次元の違うものなんだ。そして闇の内というのが面白い。井上日召は明るく輝く世界を見たといい、アンジェラは真反対の闇の内だと言っているのだ。ここが面白い。
そこで信仰を失ったのだろうかというとそうではない。いや愛を失ったアンジェラは逆にゆるぎない信仰と希望と安泰を神から与えられたのだといっているのだ。なぜ?
そこには断食が一つの引き金になっているらしいのだ。


 
ある日、断食期間中のこと、わたくしには自分の心が干からびて敬虔の念も失せたように思われた。そこで神に祈って、わたくしには善きものがすっかり尽きておりますので、どうぞ御手からおあたえくださいと申し上げた。すると魂の眼がひらいて、私は近づいてくる愛を見た。


 
その愛というのが「三日月の形」をしていたというのだ。三日月っていうのがどういうことなのか古井もわからないという。「三日月上の女王」なる聖母像もあるので、なんだかの愛の象徴の一つなのだろうとしている。
ただし、ここに形象として現れているということが重要で、先の章でも述べたように形象は確かに登場する。決してそれをもって云々できないが、形象は語るときには、有意なアイテムで、形象は同じでも、小説でもこれがあるとないとでは説得力が違うといって良いだろう。それはこの告白文を惹きつけるものにしている。
問題はそこではなくて、断食中に飢えて干からびているときに、神に祈ったところ「魂の眼がひらいて、私に近づいてくる愛を見た」と言っているところだ。
おや、愛をなくしたと言ってたのじゃなかったっけと思うかもしれない。
実はアンジェラの語る体験にあたる二段目が先の非愛を語るくだりだったのだ。第一段はやはり愛がやってきていたというわけなのだ。
なぜ、古井由吉が第二段から初めて第一段に戻り、そして第三段に向かって書き進めたのかは、やはり構成の仕方に工夫をしてみせたからというより荘子の虚しい部屋に光が差し込むという事態を強調したかったからではないだろうか。
そして非愛の第二段目でアンジェラは過激なことを口走る。


 
―あの(闇の内の)善を観ずる時、その中にあるかぎり、わたしはキリストの人性(人間としての存在)のことも、神人のことも思い出さない。姿形をもつあらゆる物のことを思い出さないのだ。しかも何も感じていない。


 
ここが、先に触れたエックハルト的にしてエックハルトたるの言い回しになっている。まさにすべてを感じている。つまり観自在菩薩なのだ。そして何も感じていない。つまり空なのだ。そのようにアナロジーすれば、決して理解が及ばない事はないだろう。
問題は闇のうちに善を感じる感じ方だ。
ここがすごくキリスト教的というか、人間臭いというか、なぜ振り向いてくれないんだから「そなたはわたしであり、わたしはそなたである」という交流があるというのが特徴的なのかもしれない。
それはそれとして、この第二段目の締めくくりは以下のようであったことが興味深い。


 
―あの方からわたしが離れると、世界がわたくしを駆り立て、わたくしの心にとまるものすべてがわたくしを駆り立て、あの寝台をいよいよ求めさせる。こうしてわたくしの欲求は、期待の憂愁のために、死の苦しみとなった。


 
ここの「寝台」というのは、十字架のことで十字架神秘主義とよばれるという。また「死の苦しみ」というのは「絶対の苦」と訳せるとしている。この苦しみは性愛的な、いとしさへの苦しみを想像させる。むしろ人間的な苦しみというより煩悩そのものではないなろうか。
そうでないと解釈するなら、この苦しみは何だろうか。前段で「わたくしの生はひとつの死となる」と訳された部分は、ドイツ語的には「わたくしの生きているのは、死につつあるのにひとしい」としたほうが正確な訳だといっているが、十字架のあなたを想像していると歓喜し、そこから去りたくないという愛着を切々として述べているのだ。そしてそれは死につつあると。どう死ぬんだということが重要だと思われる。
神を語る愛着を煩悩というのはおかしいがかもしれないが、神であってほしいと願うのはやはり煩悩のひとつだろう。
ただ、どうしても気になるのが、「私の生きているというのは死につつある」という表現だろう。そして魂の展開の第三段階に入る。
古井はこの境界に入ると、どうしても「呆然と空転」すると躊躇するが、その訳出した部分を見てみよう。


 
―そしてわたくしは、これまでわたくしの享受していた、私にとって愉楽であった、そのすべてから去ることになった。それは生命であり、その極めて深い共通Gemeinschaftであり、この共通こそ永遠の神がせつに愛し、ひとり人にあたえたものであり、わたくしもまたこれに平生の喜びを見出していたものである。つまり、生ける神のひとり子の、その貧しさのうちに、その苦痛のうちに、その侮蔑のうちに、私の安息と寝所もつねにあったのだ。これをわたくしは去ることになった。さらにまた、あれほどにわたくしを喜ばせていたところの、神を闇において観ずるという、あの完全なる観想からも、外へ置かれた。わたくしはあのように大きな聖別と平和をめぐまれたあの完全な状態から去り、今ではあの以前の状態をどのようにも心に浮かべることができない。思い出せるのはただ、自分がもはやそれを持たないというばかりだ。


 
闇の中で神を観想するということからして神が顕現し、「名状しがたい明るさ」において与え得るという。
ここでも、またコメントを挟みたいところであるがそれは差し置いて先へ進もう。
その展開の後をたどっていくと、次は古井の地の文章だ。


 
まず初めに、神は魂にその姿をふたとおりに現すという。第一に内面、わたくしの魂の内において。するとわたくしは神の現に在るものとして(つまり、目のあたりに)認め、そして神があらゆる自然の内、現に在るあらゆる物の内にあることを知るという。その先がなかなか過激なのだ。
―デーモンの内にも善き天使の内にも。地獄の内にも、天国の内にも、姦通の内にも殺人の内にも…


 
一見してすぐにわかるように、すでに善悪を超えている。ここでも一言はさみたいところだが、古井のこの後をたどってみよう。


 
この記は、比類を絶した〈超状態〉の内へと突入したきりで終わっているのではない。この状態もまた過ぎる。間歇する。人は日常に復する。手記をまた途中からたどると―grob―greatという形容詞の反復をいちいち訳し分ける姑息さにもう疲かれたので、すべて「大きな」と訳させてもらうことにして―しかもそれ(神への大きな認識)は、それほどに大きな明らかさでもって、それほど大きな甘美さをもって、そしてそれほど深い淵において、魂seele=soulに分かちあたえられるので、それに(自分で)到達できる心Herz=heartはあるものではない、そう述べた後で、であるからわたくしの心もまた、それの過ぎたのちには、それについて何事かを理解することも、それについて何事かを思考することも、至ることができない。ただひとつ、それは神によって魂に贈られること、魂はそこ(その恵)において高く掲げられること、そうでなければ心はその境地に至るまでけっしておのれを張りひろげることはできないこと、それを知るばかりである、とある。あきらかに日常において無際限なる〈神秘体験〉の言葉によるよりも、思惟の限定によって述べているのだ。


 
「人は日常に復する」と言っているところは、親鸞ならば還相廻向のことであるし道元ならば現成である。魂の超状態に収まっているわけではなく、現実に戻ってきているのだ。仏教でいうならば涅槃に入って、そこで終わっているわけではなく、この娑婆世間という日常に戻っていることを指している。それは「無際限なる〈神秘体験〉の言葉によるよりも、思惟の限定によって述べて」ということによってもわかる。つまりカテゴリ化した世界での思惟で語っているということによって、日常のこの世界に戻ってきているのだ。
そして感動的と口走りたくなるいが、と前置きして次の言葉を訳出している。


 
―そしてたとえわたくしが外側から少々の哀しみや喜びを受けることがあっても、魂の内側にはひとつの部屋kammg=chamberがあり、その中へはどんな喜びも哀しみもあるいは何らかの美徳への、あるいは何らかの名状すべからざるものへの愉楽も、入りこむことはない。そこに至るのはあの唯一の善だけなのだ。


 
なんの善かといいと神の善なのだろう。仏教でいえば、仏性のことか? 魂の中の特別の部屋とは何だろう。さきの我々のシェーマでは、〈私〉であり「第五図」であり、涅槃なのか。この世の価値判断に入ってこない世界=部屋なのだということになるのだろう。
 そして、ここで終わっておけばいいものだが、追記している。なぜこんなにしつこくくり返し繰り返すのかというと、それは比較に比較をかさね、否定に否定を重ねても最高に至ろうとする衝動が自分のなかにも埋め込まれているからだと告白している。
 もちろんそんな思いは、私の中にもあって、それは否定できない。なぜなら本稿もこの衝動に促されているからだ。宗教家でもない私が、信仰告白をする気はないし、ましてや道徳家でもないので、神の善とか涅槃に常住するわけでもない。しかるべくして落ち着く先に落ち着いて、だれもが非難しないような結論におちつくつもりもない。一介の文学者として、詩人として真実が知りたいだけなのだ。真実がわかるなら地獄に落ちてもかまわない。救われなくったっていい。
 
最後に、フェリーニョのアンジェラは、神の啓示を千度にわたって体験したという。「つねに新しく、つねに異なった風に」と。つまり神の啓示は再現性があるということだ。千度にわたってセックスをしました。それは常に新しく、つねに異なった風にという意味合いとどれほど違っているというのか?
元に戻って、タイトルの「虚白の部屋」というのはどういう意味だったのだろう。アンジェラのいうchamberのことだったのか。そうだとすると、虚白ではなく、千度にわたって邂逅したというのであるから、どうもおかしい。
 
もう一つは、古井の「『魂の日』ふたたび」と題するエッセイで、エックハルト自身が登場する。『魂の日』というのは、一九九三年に発行された『魂の日』(福武書店)に所収されている同名の短編のことをさしている。短編といっても連作短編なので、帯には長編小説とうたわれている。大病を患って病中病後の体験が生々しく反映されているので、その短編に登場する「魂の日」に「過去も現在も未来もひとつにふくむ今」という文言が付されていた。
その今のことをさして、エックハルトと議論しているのが、このエッセイのタイトルなのだ。
エックハルトの解釈よりも、さもエックハルトに寄り添うかのように、単独の議論をすすめている。「魂の日」はなにか、「神の日」が何であるかについては、このエッセイではよくわからない。これはエックハルトの書いたテキストではなく、説教を文字お越ししたものであるので、それは著作にはない情緒的なものもふくまれるし、エロス的でもあると話をふりながら続けられる。
今回も、長々と発言を追うのではなく、一つのことだけに限って書き進めよう。
あまりにひろく構えていては、収拾がつかないしコンセプトがずれていく。
私の主題に限定して述べていこう。


 
――それ故わたくしは神に願う。われを神からも免れさせ給え、と。わたし本来の存在は、神を被造物の始まりとしてつかむかぎり、その神を超えたところにあるからだ。その本来の存在においては、神のあらゆる存在とあらゆる差異を超えたところにあり、わたし自身もかしこにあったのだ。そしてわたし自身を意志し、わたしを認識し、わたしというこの人間を創るに至った。それ故わたしは、永遠であるわたしの存在によれば、わたし自身の原因であり、時の中にある生成によれば、そうではない。(a)それ故わたしは本来生まれていない。そして生まれていないというありようによれば、けっして死ぬことはない。生まれていないというありようによれば、わたしは永遠であった、いまも永遠であり、永遠に永遠であろう。(b)生まれたというありようによるわたしなるものは、死んで消滅するだろう。それは死すべきものであるからだ。それは時とともに亡びる。
 (c)わたしの誕生において、万物は生まれた。わたしはわたし自身の原因であり、そして万物の原因である。もしもわたしがそれを意志しなかったならば、わたしも万物もなかっただろう。しかし(d)わたしがなければ、「神」もないだろう。神が「神」であることの、わたしは原因であるからだ。わたしがなければ、神は「神」ではない。しかしこれは、(e)そなたたちの是非とも知らなければならぬということではない。
(abcdeに分けた)


 
これはエックハルトの宗教体験の核というか、中心にあって、「聖なる宗教体験」とでも呼んでもいいものだろう。
(a)「それ故わたしは本来生まれていない。そして生まれていないというありようによれば、けっして死ぬことはない」というのは、永井均哲学によれば、〈私〉のことだ。〈私〉は生まれていないから死ぬことはないのだ。
(b)「生まれたというありようによるわたしなるものは、死んで消滅するだろう」というのは「私」のことだ。普通に考えて、生まれたから死ぬということを言っている。概念化して私をとらえて、他の人も生まれて死んでいくので、私だって死んでいくんだと概念として、カテゴリとして捉えた「私」だから死ぬだろうということだ。
(c)「わたしの誕生において、万物は生まれた」というのは〈私〉の誕生の時で、あるとき、気づいたら〈私〉がいたのだ。なぜか〈私〉だけが居たのだということだ。その〈私〉によって世界は開闢したのだ。その世界しか、〈私〉にとっては知りようがないという世界だ。
(d)「わたしがなければ、「神」もないだろう」というのは、これも〈私〉のことだ。〈私〉が神を作り出したのだ。〈私〉がいなければ神も存在しない。それは〈私〉の神だからだ。
(e)「そなたたちの是非とも知らなければならぬということではない」というのは、これは〈私〉(この場合エックハルト自身)に起こったことだから、それは①知りようがないということと②そなたたちには別様にあらわれてくるかもしれないということをさしている。
 このことを繰り返せば、つぎのようになるだろうか。
①〈私〉は本来生まれていないから、死ぬことはない。
②「私」は生まれたから、死んで消滅する。
③〈私〉は〈私〉の誕生において万物はうまれた。わたし自身の原因で万物の原因である。「万物の原因」に引っ掛かるかもしれないが、万物は外部にあるわけではなく、あくまで〈私〉のつくりだしたものだということになる。
 三っの条件を強引に、内山曼画とつなぎあわせて、ムリヤリに形式化してみると次のように
なるだろうか。
 
〈私〉は=本来の私=第五図
「私」は=娑婆世間の私=第四図
 
 ただ、エックハルトが違うのは、③において、〈私〉の存在によって、神は「神」になったのだけれど、それを「是非とも知らなくてはならぬことではない」としていることだ。
 それは古井は「知らずともよろしい」と受け取ったと最後に記している。ここには、いま提示したような構図の理解ではなく、〈生前〉(生まれる前)という観念にこだわっていて、そのことが問題視されているからである。
 こう言ってしまうと、前世のような輪廻の観念が出てくるようだけれども、そうではなく、単に生まれる前の自分もこんなだっただろうと眺める経験をしたということを語っているだけなのである。


 
 先年、頚椎の手術をうける前日ではなくて、前々日のことだ。大事を明後日に控えて、しかし中一日がはさまるせいか、好天の春の日が遅々として進まない。そのうちに、この一日もどうせ過ぎ去る、過ぎてみれば造作もないものになるが、しかし、この今の今においては、どうしても過ぎ去らない日のように感じられた。過ぎ去っても、過ぎ去らぬ日として現に残るだろうと思った。すると奇妙なことに、今ある自分が、このいよいよ日常的な自分が、ときおり、そのまま生前の自分のように眺められた。


 
 このような、「生前」だったのだ。そして、それは「知らずともよい」といたわられる言葉として受け取ったのである。ここには、先に示した私の解釈とはことなる解釈がある。生前がどうであったかということではなく、生前もこんなだったという思いは、実にリアルであるけれど、エックハルトは〈私〉は永遠であるというのだから、永遠なのであろう。しかし、私から見れば、それは永遠ではない。永遠に変わらないものなどなにもないという前提に立っているから。
 ところで、「生前」とは普通は前世の意味ではなく、生きていた頃のこと、死ぬ前のことを意味する。そうすると、古井は「生前の自分のように眺められた」というのは、既に死んでいて、そこから眺めているという意識だったことになる。臨死体験でのように死に行く自分を眺めていたというような意味なのだろうか。そうだとすると「知らずともよい」というのは、どういうことだろう。死んでから自分を眺めるというような事は考えなくても良いという意味になる。
その眺めた自分が永遠でない事は、間違いないだろう。
しかしここへ至る「魂の日」と「神の日」の理解を深めないと、どうしても理解されないだろう。
いよいよ厄介で大変なところに入ってきたが、ここは、もう少し探ってみようにも知識とともに理解の及ばないところがある。それはそもそも信仰と言うものがないからなのかもしれない。
ここで古井が意図したいくつかの観念を抱え込んだまま、次へ行ってみよう。
 

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