カフカの手法を現在に生かす
今年の4月より始まった京都大学準教授川島隆氏による「NHKカルチャー教室のカフカ生誕140周年、1年で読む「変身」」の講座を視聴している。
目標としているのは、カフカについてもっとよく知りたいというよりは、カフカ以後の文学として21世紀に書いていく上でのヒントはないのかということだった。
文学も他の文化と同じように、現在の作品の上に積み上げていく、ないし、新たに切り開いていくものであろうから、文学作品も同じような状況にあるのではないかと考えられる。その書き方というか手法は、既に出来上がったものを駆使して、書き下すということではなく、あくまでその書き方自体も新しくなっていなければならないと考えてきた。
それは、現に存在する作品を対象にして、その上に加上していくわけだから、富永仲基ではないけれど、「加上の論理」なのだろうが、文学作品そのものとしては、むしろより切実な現実の方が先にあって、その現実からの表出でなければならないのであるが、そこには数多ある作品群は孤立して存在しているのだけで、つながりを持ち得ない。
いや、そういうよりも、むしろ同工異曲の同じようなものが並んでいるエンターテイメントの作品ばかりだと言っていい。ともかく、その種の文学批判は差し置いても、真に新しい文学は可能かと、考えると、やはり沈黙してしまう。たまたま私だけがそのような新しい作品に出会っていないだけなのかもしれないが、今のところ目にすることができない。
そんな偉そうなことを言うなら、自分で書けばいいじゃないかということなのだが、悲しいかな、その才能がない。カフカのとらえたいわゆる不条理なるものが、現在の状況を反映しているとともに、現在ではもう少し違ってきているという実感を持っている。そのもう少し違うという、その中身を描くことができない。
そこを探ろうとカフカを読み始めて、本まで出した。フランツ・カフカの文学をサラリーマン文学だとして本を書いた。
カフカのイメージは新しくなったように思うが、反応はなかった。今にして思い返せば、文章が稚拙だし、内容も自分勝手な解釈にはまり込んでいるので、これまでのカフカ研究の成果を踏まえての蓄積と関連付けをしていないということによって、他の研究との距離が取れないということだったと思う。
しかし、今となっては、この講座でも川島隆は「変身」はサラリーマン文学だと言ってくれているし、ほぼその解釈で問題のないところに来ているのではないだろうか。その文脈で言うなら、そのサラリーマンという職種というか、生き方が、カフカの時代とは大いに違ってきているところが挙げられるし、その実存も違ってきているということではないだろうか。でも今にして、まだまだカフカの描いたサラリーマンの実存は生きていて、実にリアルであるわけだけれど、一部そこから抜け出しているというか、はみ出している部分があることによって少し違ってきているのかもしれない。
問題は実存であるから、実存を描き出せば良いのであるが、カフカの描いた不条理だけではなく、不条理そのものが不条理でも何でもなくなるような事態に直面しているというか、そんな「叫び」をあげてみても何にもならないという状況に直面しているようにも思える。
そんな中での新しく書き出していくヒントはあるのかと。的確に目標に命中するかどうかはわからないのだけれど、試してみよう。
① 体験話法
カフカの文学手法として「体験話法」というのがあると川島は述べている。それは川島訳の『変身』の解説には次のように述べられている。
こういうものだった。
それに相当する部分の訳は次のようだった。
今回のオンラインセミナーでは、次のような例を挙げて説明していた。
直接話法:He said,”I am hungry”.
(1人称現在形)
間接話法:He said that he was hungry.
(3人称過去形)
1人称の現在形が3人称の過去形に変わると言うものだった。(これは時制の一致で過去形になると言う)
体験話法:He was hungry!
となり、!マークが入る。
この手法の効果については、「地の文と登場人物の心の声の境界線が分かりづらくなる。」
カフカは語りではなく、「自分のすぐ目の前にあるものしか見えていない主人公の視点と語り手の視点がぴったりと重なり合いがちなので境界線はなおさらわかりにくい」とさらに述べている。
この手法は「意識の流れ」の手法の登場によって廃れていったとあるが、語りのようで語りではなく、主人公の心の声だとすると、あらすじではグレゴールは死んでしまうので、死んでしまってからでもテキストは続いているという矛盾がある。その後の声は誰だと言うことにもなり。なんだか落ち着きの悪い作品ということができ、それが逆にまた効果を生んでいるということなのだろう。何が本当であり、何が本当でないのかわからないという効果を倍増している。
いや、そもそも虫に変身したということが、何かの象徴でなければ、本当じゃないのだから、何もかも本当ではないのだろう。
語り手がいないということがポイントなのかもしれない。
② 現在時制の使い方
もう一つは、今回の講義では扱われていないが、ポケットマイスターピースの『カフカ』(集英社)にある「巣穴」と題する作品の解題内にある次の文章だ。
その該当する文は次のように訳されている。
日本語ではよくわからないが、これもドイツ語ならば明確なのかどうかよくわからない。普通は「下手な文章」となってしまうんだろうが、特に感じないのは日本語のせいだろうか。これはそのまま日本語の文章として適用可能だとさえ思う。「方向喪失感」とあるけれど、そのような作用は習慣的事実の表明が、そのまま今始まっていくという文章になっているのだけれど、読者の方が適当に解釈して読み進んでしまうのではないだろうか。なぜなら、関心は巣穴というのが何を指しているのかを考えながら、読者は読み進んでいるから。
③ ではどういう日本語を使えばいいのか?
例えば、この2つのヒントから、日本語表現をするときにはどのように使えば良いのだろうか。
ポイントは
①誰が語っているのかわからなくなると言う事。
② どこにいるかわからなくなる方向喪失感
にあった。
これを実現しようとするなら、日本語ではどうすればいいのだろうか。そこで思いついたのが「てにをは)」をランダムに使うことによって可能になるのではないかと思いついた。
それは、自分のいつも書く文章を添削していて、いつも「てにをは」を校正しているからで、これでは日本語表現としておかしいと思える文章があるからで、その原因は書き出したときの想念が途中で別の方向に行ってしまっているからで、意味が通じないのだ。単に下手な文章ということなんだけれども、それをあえて作品上に並べてみたらどうなるかという事だった。ともかく、一度は使ってみたかった。
④ 実践してみる。
かつて4枚小説を書く会に参加していて、400字詰め原稿用紙4枚で作る小説ということをやっていた時期があった。そこで作成した作品があるので、それを例に使ってみることにする。
当の四枚小説というのは、誰もが知っているようなリアリズムの小説であって、物語のあらすじとその展開で読ませるもので、エンターテイメントに近いものだったのだが、あえてその方法を無視して作り上げたものだったので、酷評されたが、一人称の独白になっており、夢の体験というものになっている。(そのことはさておいて)
(昔の4枚小説の例)はっきりと1人称の独白になっている。
『夢だと知っていて悪乗りする』
地下鉄に乗っていたら、つい眠り込んでしまった。気がついたら駅で、ドアが閉まるところだった。あっ、しまったと思うがもう遅い。次の駅で降りてもいいやと思うが、車内を見渡すと誰もいない。そして車内灯も消えた。
わっ、車庫まで連れて行かれるのかと諦めかけたが、止まるような気配が見えない。決して早くはないけれど止まらずに動いている。それは単線になったのか、三方向が壁になった穴に向かっていくようだった。おなじみの閉じられた空間での不安というやつだが、不安はなかった。もう慣れっこになっていたからだ。それよりどこへ連れて行ってくれるんだという期待の方が大きかった。
どうもゆっくり減速して行くみたいでシートから立ち上がったところ、床が1メートル四方の正方形状にせり上がっていく。それにつれて持ち上げられボクは外へ放り出された。
見たこともないような街に立っていた。
おや、これは珍しいぞ。全く記憶にない街が出てきたじゃないか。初めての夢だ。特になんということのない婦人たちが、買い物するような格好で移動していく。小学生たちが帰宅するように、わいわい騒ぎながら、近くを通って過ぎていった。
すると、小学校の恩師に出会った。なぜ、ここで恩師と面会することになったのか、理解できない。
「どちらへ」
とつい声をかけた。
「キミも立派になったねー。嬉しいよ」
と言ってくれている。
「これから昼食会に行くよ、キミも一緒に来るかい」
そう言ってくれたので、ついていくと答えた。
讃岐うどんの店があってねと言うので、ええ知っていますと答え.先に歩き始めた。二人分は予約してあるということが前提になっているみたいだ。あれ、通りを間違えたのかな。知らないのに知っているふりをして答えたがわかるはずもないのではないかとボクは不思議に思う。知りもしないことを知ったかぶりして、道に迷ってしまった。後についてきたはずの、先生とその教え子たちの集団がいなくなっている。慌てて近くを通る人にこの辺にうどん屋はありませんかと尋ねてみる。誰もが怪訝な顔をして知らないと言う。目の焦点が定まらないような中年の女が、腕を振って「あっち、あっち」と言っている。通りをもうひとつ向こうの意味かだったのだろうか。とっさにボクは駆け出した。おそらく近いんだろう、看板を探して、通りを走り始めた。焦る動悸だけが全身を満たしている。すると釜揚げうどんの看板が目に入った。ここで店内に飛び込むとすでに恩師と教え子たちが釜揚げうどんを口の中に吸い込んでいる。まるで蛇を丸呑みしている大蛇のようだ。妖怪たちかなのか?
「よくわかったね」と恩師はいう。
「普通ははぐれてしまうと絶対に再会しないんだけどね」
「そうですか。何となくぴんときたんですよ」
と厚かましくも生徒たちの間に割り込んだ。
別にうどんを食べたかったわけではないのに、なんとなく競争心に駆られて、ボクは仲間入りを目指そうとする。生徒たちは決して歓迎してくれているわけじゃない。小学生の時代も疎外されてきたからそんな扱いは何でもないとボクは思う。無視されることには慣れている。こんな時は、無理矢理話しかけるのがいいのだ。変に黙っていたらろくなことがない。
「君は何年前に教えを受けたの?」
すぐ隣の太い子に声をかけた。
「何年って、ちょっと前ですよ」
話しかけてくれるなという相手の思いは伝わってくるが、あえて無視する。
「そうなの? ところでどのあたりがいちばん好きなのかなぁ」
全く会話になっていないが多分どうでもいいんだ。会話しているふりをその他の大勢が見ているだけでいいんだから。あいつ、隣の子と話しているぞと分かってもらえればいいんだから。
「どのあたりと問われても……」
不機嫌になっていく。
「まぁまぁ、そのへんでいいじゃないですか」
恩師が割って入ってくれた。
恩師というのはいつも平等にそれぞれの子どもたちの顔を立ててくれるから、こういう時は一歩下がるというのがいいんだ。ボクはそれをよく心得ている。
そもそもが、地下鉄の車両内で眠り込んでしまったのが始まりだった。
これを、「てにをは」変換して、語句をすこし変えてみる。
【夢だと知っていて悪乗りする】
地下鉄に乗っていたら、つい眠り込んでしまった。気がついたら駅で、ドアが閉まるところだった。あっ、しまったと思うがもう遅い。次の駅で降りてもいい。車内を見渡すと誰もいない。そして車内灯が消えた。
わっ、車庫まで連れて行かれるのかと諦めかけたが、止まるような気配が見えない。決して早くはないけれど止まらずに動いている。それは単線になったのか、三方向が壁になった穴に向かっていくようだった。閉じられた空間での不安というやつだが、不安はなかった。もう慣れっこになっていたからだ。それよりどこへ連れて行ってくれるんだという期待の方が大きかった。
どうもゆっくり減速して行くみたいでシートから立ち上がったところ、床が1メートル四方の正方形状にせり上がっていく。それにつれて持ち上げられ〈こいつ〉は外へ放り出された。
見たこともないような街に立っていた。
おや、これは珍しいぞ。全く記憶にない街が出てきたじゃないか。初めての夢だ。特になんということのない婦人たちが、買い物するような格好で移動していく。小学生たちが帰宅するように、わいわい騒ぎながら、近くを通って過ぎていった。
すると、小学校の恩師に出会った。なぜ、ここで恩師と面会することになったのか、理解できない。これも夢特有の現象だ。
「どちらへ」
とつい声をかけた。
「キミも立派になったねー。嬉しいよ」
と言ってくれている。
「これから昼食会行くよ、キミも一緒に来るかい」
そう言ってくれたので、ついていくと答えた。
讃岐うどんの店があってねと言うので、ええ知っていますと答え.先に歩き始めた。すでに予約してあるということが前提になっている。あれ通りを間違えたのかな。知らないのに知っているふりをして答えたがわかるはずもないのではないかと〈こいつ〉は不思議に思う。知りもしないことを知ったかぶりして、道に迷ってしまった。後についてきたはずの、先生とその教え子たちの集団がいなくなっている。慌てて近くを通る人にこの辺にうどん屋はありませんかと尋ねてみる。誰もが怪訝な顔をして知らないと言う。目の焦点が定まらないような中年の女が、腕を振って「あっち、あっち」と言っている。通りをもうひとつ向こうの意味か? とっさに〈こいつ〉は駆け出した。おそらく近いんだろう、看板を探して、通りを走り始めた。焦る動悸だけが全身を満たしている。すると釜揚げうどんの看板が目に入った。ここで店内に飛び込むとすでに恩師と教え子たちが釜揚げうどんを口の中に吸い込んでいる。まるで蛇を丸呑みしている大蛇のようだ。妖怪たちか?
「よくわかったね」
普通ははぐれてしまうと絶対に再会しないんだけどねと言う。
「そうですか。何となくぴんときたんですよ」
と厚かましくも生徒たちの間に割り込んだ。
別にうどんを食べたかったわけではないのを、なんとなく競争心に駆られて〈こいつ〉は仲間入りを目指そうとする。生徒たちは決して歓迎してくれているわけじゃない。小学生の時代も疎外されてきたからそんな扱いは何でもないと〈こいつ〉は思う。無視されることには慣れている。こんな時は、無理矢理話しかけるのがいいのだ。変に黙っていたらろくなことがない。
「君は何年前に教えを受けたの?」
すぐ隣の太い子に声をかけた。
「何年て、ちょっと前ですよ」
話しかけてくれるなという思いは伝わってくるが、あえて無視する。
「そうなの? ところでどのあたりがいちばん好きなのかなぁ」
全く会話になっていないが多分どうでもいいんだ。会話しているふりをその他の大勢が見ているだけでいいんだから。あいつ、隣の子と話しているぞと分かってもらえればいいんだから。
「どのあたりと問われても……」
不機嫌になっていく。
「まぁまぁ、そのへんでいいじゃないですか」
恩師が割って入ってくれた。
恩師というのはいつも平等をそれぞれの子どもたちの顔に立ててくれるから、こういう時は一歩下がるというのがいいんだ。こいつはそれをよく心得ている。
そもそもが、地下鉄の車両内で眠り込んでしまったのが始まりだった。
作品以外は、先に「カフカ『変身』川島隆新訳本を推す」のブログでも取り上げていて、同じことを角度をかえて繰り返している。あの時は、川島隆訳の紹介ということだったが、よほど気になっていたのだろう。今回はオンラインの講義に触発されて、なんとか実作につなげてみたいという欲求にかられている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?