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シンプルな情熱の意味―アニー・エルノー『シンプルな情熱』より
まずは、先にamebaブログに投稿した感想を引用してみる。
エマニュエル・トッドの新著を読んでいて、上巻がおわったので、同じく堀茂樹が訳している、アニー・エルノーを読んでみたという事だ。
どこかで書いているかもしれないが、エルノーを紹介されて、Amazonに注文しておいたものだ。
ごく短い小説だから、二時間もあれば読める。
長い訳者の解説文が付いている。
それはまだ読まずに、感想を書いてみる。
情熱というのはパッションのことで、実は恋のことをさすようだ。
内容は、不倫劇であり、妻子ある男が通ってくるという話の顛末だ。
おなじみのように始まったから終わるという展開であるが、面白いのは二人の関係を中心にドロドロした人間関係を描くのではなく、彼女の心に起こった現象を中心に進められる。
パッションという情熱を理知的に理屈っぽく語るという方法なのだ。
およそ正反対の脳の機能で、迫る。
おそらく語りたいのは、恋心であり、そのワクワク、ドキドキすることそのものが人生の「贅沢」だと言いたいのだろう。
しかし、内容は彼の考えに共感したとか、尊敬できるとかいった憧れでもなく、ただただ逢瀬をかさね、セックスしているだけだという展開だ。
シンプルな情熱は次のように変化するのだろうか。
シンプルな情熱
↓
シンプルな恋だけ
↓
シンプルな性愛
↓
シンプルなセックスフレンド+恋心
冒頭に言っている、ものを書くという行為が「道徳的判断が一時的に宙吊りになるかのようなひとつの状態に向かう」ということは実現したのだろうか?
反転して、「ものを書くという営みの時間は、恋(パッション)の時間とは、まったく別物だ」ともいう。
当然だろう。
「もし彼が今月末までに電話をかけてきてくれたら人道的活動組織に五百フラン送る」
電話と人道的組織となんの関係があるというのか?
「彼がいてくれたからこそ、私は、自己を他者から分離している境界に接近し、時折その境界を超えるようなイメージさえ抱くことができたのだ」
これは疑わしい。
等々の取ってつけたような表現をいれ、先の純粋な恋心を描こうとする。
人を好きなるのに理由はない。好きだから好きなのだというだけのことだ。
反対に嫌いになるのも理由はない。嫌いだから嫌いなのだ。理由を探しても仕方がない。
でも、好きなってしまった時のドキドキ感は至福のものだろう。
しかし、これを男の目からみると、こんな都合のいい女はいないのであって、やりたいときにだけ電話すればいいという関係なのだ。詮索しないし、気遣って自分からは電話してこない、関係の後も求めない。
主人公は、ある男の友達から夫ある女との不倫を聞かされて、その男の自慢話であって、その男は生きているという実感があったと発言したというエピソードを挿入している。
彼もそうなんだろうと予想するのだ。
オス生物にとっては、そりゃヤッター感はあるだろう。男ってそういうものだから。
こんな男だから、港々に女ありじゃないけれど、多数の浮気相手が存在するのだろうと予想できる。
エルノーは恋心を抱いたワクワク、ドキドキ感が人生の贅沢だと結ぶけれど、それなら別にセックスをしなくてもいいじゃないかと思うが、そこは、おフランスなのでこうしないと話にならないのだろう。
話題狙いと言えば話題作なのだろうが、男性作家が書けば、たんなる自慢話になってしまうだろう。でも、1991年の発行だから反響をよんだのだろうけれど、今なら話題にならないかもしれない。
このあと訳者、堀茂樹の長い解説文を読んでみて、修正する部分があるかどうかが楽しみだ。
この感想に何かつけ加えるものがあるのか? という前提で再度試してみる。付け加えるというよりすこしわからなくなったからだ。
たしかに、ワクワク・ドキドキの恋心をどう描くのかという事に関しては、理知的に描くということで、新しいのかもしれない。文学的には。
シンプルな情熱という事が性愛のことであったという事なのだけれど、うがった見方をすれば、この外交官に声をかけられ、うれしかった半面、これは作品にできるかも? と感じたこともあったのではないだろうか。それを、ドロドロした情念の描写ではなく、理知的に描いてみたという事ではないのだろうか。
世俗的な興味としての不倫の話、ではなく、また性的な興奮をもよおすようなことを目的にしたエロ小説でもないのだろうから、実態としては、年下の男、若いツバメと遊んでみましたという事ではないのかと考え込んでしまった。
その意味ではまさにシンプルな情熱で、単純(・・)な(・)情熱でしたという事だろう。まさにタイトル道理なのだ。
道徳的かどうかはしらないけれど、宙づりにされたことは間違いないだろう。こんなに私は逡巡しているのだから。
でも、私的にはただ単に「好き」というその感情を純粋に取り出してみるということは可能なのかという点に関心があったように思う。
彼がどうであろうと関係なく、自分の思いだけでスタートしていることだ。自立していると言えば自立しているのだけれど、時折、他者と自分の間の境界を超えるようだったという発言はどうなんだろう。錯覚ではないのか。
ここで、先に記した堀茂樹の解説にふれてみると、パッション(passion)とは、もともと外部からの被害を受けた時に生じる「苦しみ」「苦痛」「苦悩」を意味していて、pの大文字はイエス・キリストの「受難」のことだったとある。だから「情熱」は受け身の状態であること「自己の外側から自分に取り憑いて、自分を虜にする力」だという事だそうだ。恋に燃えるのも囚われた状態であり自我の昇楊でありながら同時に自律性の喪失であり、尊厳からの失墜であるとも言う。そうだとすると、「今の私には、贅沢とはまた、ひとりの男、またひとりの女への激しい恋(パッションとルビあり)を生きることができる、ということでもあるように思える」とこの小説を結んだことは完全にホールドアップした状態だと言えるのではないか。
また、シンプル(simple)とはフランス語では「単純な」「簡素な」「率直な」「気取らない」「お人よしの」「無知な」「素直な」の意味で、エルノーの情熱を特徴付けているという。
それは、二人の関係に未来も求めないし、ひたすら現在を求めるというものだったともあるので、そのことは苦しいけれど幸せになるという。
つまりは「恋に恋している」という事なのだろうか?
ここで私が問題にしようとしていることは、かつて「華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなりをめぐって」*ブログで最後に論じた「好きだ」ということと関係しているので、その打算的なことではなく、単に好きなるというのが捨て去るべき究極の煩悩というようなことではなく、もっと肯定的に捉えたいというか、どのような作用なんだろうという疑問だ。
*https://note.com/sodou2021new/n/n110b4865a15c
たしかに、「宙づり」にされている。
同じところをくるくる回っているようだ。
ひたすら、未来もなければ過去もない現在だけだというのが〈実存〉だとすれば、たしかに実存を生きたのであり、そこにおける恋心は贅沢だろう。
実存を描いてみたのだろうか?
そうだとするとかなり宗教的ではないのか。彼女は左翼だったから、宗教じゃないというかもしれないが、そこは未来もなにもなく、ただひたすら現在というのだから、ある種の悟り的だ。
しかし、その現在を求めるために周到に用意している。子供達には実家に来るときは先に連絡すること。こちらから男には連絡をとらない。二人の関係後に二人で暮らすなどのことを求めない。ひたすら彼のことを思って準備してワクワクして、また嫉妬してと準備している。
是だけの工夫をしての逢瀬なのだ。
「どんなもんじゃ」と言って見せたのか。
「好き」になんの理由もないことは先に述べた。好きだからすきなのだ。初めて会ってビビッて感じたそのものにも理由はない。
そうだとすると、実存であったという説が一番有力かもしれない。
実存に理由はないから、その面でも当てはまるし、書く行為とこの逢瀬の行為は別物だというのであるから、これも当てはまる。言葉で説明できないという事も当てはまる。セックスだけなのかそれともプラトニックなものもふくんでいるのか? そんなことも関係ない。それなら、唯の実存なのだろう。このように、解釈しようとすることも、解説にあったようにエルノーが作品について語ったということもほとんど関係ないのだ。世間に合わせて話してやっただけだとうそぶくだろう。
実存そのもに落とし込むことは確かに贅沢だ。
心煩わすことがない。
スッキリしているよ。
なぜか、謎が解けたような気がする。
先の「華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなりをめぐって」の原稿での疑問も氷解したようだ。もちろん当原稿の巻末の疑問のことですが。
その疑問はこうだった。
例えばそれは愛着の極みでもある恋愛をとってみるなら、愛することは執着だけれど、その果てにそこには如是の実相があって、むやみに否定することができないのではないかという点にある。
否定するも、実相なるものも関係なくて、そうだからそうなのだということにしか過ぎない。好きなってしまったことに理由はない。「如是の実相」が実存だとすれば、ただそうであるだけなのだ。
如是の実相とは実存のことだったのだ。それなのにあれこれと悩む。それは思考の世界であって、その思考こそが迷いという事だ。
好きなのだから、周到に準備して、スマートに賢く対応すればいいだけのことなのだ。アニー・エルノーのように見返りを求めない。しつこく付きまとはないという世間の常識だけでいいという事だ。
そう考えると実存ということも、何かを示す言葉だけでなくて、一つの状態、であるのかもしれない。かつて実存主義があったように。
哲学的には、実存は本質の反対であって、本質とは「なんだあるか」であったから、何であるかはわからない。ただあるだけを意味していた。それを味わうことは贅沢であると。
もうすこし語ってみようか。
実存といっても、哲学の用語にあるような、認識と存在の問題としての実存のことではなく、むしろナマに生きるというか、〈私〉論を持ち出すなら、〈私〉そのままとして生きる時間の贅沢と考えてもよいのだろう。
一個の生物個体としての〈私〉にもどること。世間的な関係のわずらわしさ、演技して生きている「私」からの解放として生きる時間のことだという意味だ。
当然、相手の彼氏はこの娑婆世間の人であるから、「私」を持っていいて、それで接してくるわけで、彼氏も実存を期待しているとは言い難いが、少なくともアニー・エルノーにとっては「好き」ないし「セックスにおぼれたい」という実存としての〈私〉は確保しようとしたと解すればということだ。
それは現在にすぎないから、ただただ現在だったのだ。
それはほぼ一年ぐらいで終わったらしいけれど、セックスをともなわない「好き」の実存でもよかったのではないだろうか。
こころは不安定で苦しけれど、至福の時であり「ぜいたく」な時間をもった。または、持とうとした。
かつての実存主義者たちは「実存は本質に先立つ」という本質をないがしろにするような思想とはちがっているが、だからといって現在の現実をもってしてそれをどう解釈するかを思索するような実存主義とも一線を画している。〈実存情況におく〉とでも言ってみようか。
いや、実存は「現実存在」の意味だったから、表現としてはおかしいけれど、そのようなものだったのではないだろか。