宮沢賢治「フランドン農学校の豚」再考
かつて、「フランドル農学校の豚」について稿をなした。今回再考してみることにしたのは、この作品が、ブラックユーモアというだけでなく、宗教的にみて一歩進んだものと気づいたからだ。
賢治は本当に貧しき人の味方なのか? 弱気人の味方だったのだろうか?
さきに、元の稿を載せる。
それはこういうものだった。
宮沢賢治「フランドン農学校の豚」考
賢治童話の中で、特異な位置をしめる「フランドン農学校の豚」は、これまでの賢治童話にはない、わかりにくい観念を扱っている。これを童話と言ってしまっていいのかわからないという戸惑いを覚える作品になっている。それは決して童話としてのぞましい終わり方をしているわけではなく、むしろ大人の童話といっても良い終わり方になっている。つまり黒いユーモアにふくまれる。しかしながら童話ではないとしても、昔話は一様に不気味なもので、直接、心に訴えてくるインパクトが強い、そのような昔話モノに近い。
農学校に飼われている豚が話し出すというのが奇妙なら、泣きながら死にたくないと訴えるというのも奇妙だ。そしておそらくこの哀れな豚君が主人公と思いきや、最後は屠殺されて肉の塊となってぶら下がっているという描写で終わっている。
主人公が、少なくとも語り口から主人公ではないかと思える登場人物が死んでしまうというのは、奇妙な作品と言っていいだろう。スタンダードな近代文学においては、主人公は社会との、そしてまた男女間のトラブルを起こしながらも成長していくというドラマがなくてはならない。その主人公が、内的苦悶と独白を行いながらあっけなく死んでしまうというのではまずはお話にならない。それでは、この作品がこれまでどのように解釈されてきたのかというと、生き物の命を食べること、特に動物を食べることを嫌った菜食主義を実践した賢治を思いはかって、人間に食されるために殺されていく豚に感情移入したのではないかとされている。しかし感情移入の割にはなんだかユーモアがあり、淡々と語っているのであって、そんな感傷はなかったのではないかと思われる。賢治作品は総じてメッセージ性が強いし、それは法華信仰に裏打ちされた求道的なものであり、世のため人のためであった。それを、賢治童話を嫌がる人にとっては善意の押し付けと映っていた。
しかし、この作品は善意の押し付けなどではない。むしろ逆の黒いユーモアになっている。そして主人公が突然死んでしまうという近代文学から一歩はみ出でた作品になっているのだ。
テキストそのものについて触れると「清書稿」と「初期形」が存在する。但しどちらも原稿の前一枚分が消失しており完成稿とも言えないものだ。清書稿と初期形の違いはシリアスな事態を清書稿では「叙情」で終わらせるという工夫がなされているが叙情になっていない。
とにかく豚は八つに分解されて便宜上雪の中に漬けられたのであります。(初期形)
豚はきれいに洗われて八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えてきたのだ。(清書稿)
どうだろう、夜は本当にいよいよ冴えてきたのだろうか。
同じように主人公とおぼしき存在が死んでしまうという作品が他にもある。それはほぼ同時代を生きたフランツ・カフカの『変身』だ。この有名な作品は、グレゴール・ザムザがある日、虫に変身する話であるが、この虫は誰にも聞こえない声で独白する。この虫が人間にもどることはなく死んでしまう。
一方豚君は人間が変身したものではないけれど、主人公とおぼしき存在が独白の果てに死んでしまうのは同じだろう。
およそ、いわいる近代小説になっていない。(註:もちろん物語というテキストもあるのであるが)
つまり、突然、空中に放りだされたような感覚に陥ってしまうのだ。なぜそうなるかというとこの奇妙な感覚はこの構成によっている。つまり主人公がある日突然死んでしまうという中途半端な構成になっているからだ。
しかしながら別様にはこの荒唐無稽な話ではなく、現在におけるリストラ労働者の話としても読めるのだろう。たとえばやめたくないと言っているのに会社のためだからやめてくれと言われているような状況である。泣いてたのんでも、何度頼んでもその逆に怒られるような始末なのだ。運命としては豚君の運命であるけれど、それは人の話でもあるのであって、不条理にさらされているのは何も豚君ばかりではないのだろう。
さらに言えばカフカの『変身』では虫に変身したことが家族への動揺を呼びおこし、そして長期化することにより肉親の情愛は薄れ、じゃま物扱いされた。その果てに毒虫は亡くなってしまう。しかし、そこにグレゴール・ザムザこそが一家の働き手であって、それにより成り立っていた両親や妹はどうしようもなくなってしまう。そして彼らが働き出すという新しい家族再生の物語となっている。
しかし、賢治作品はそうなっていない。「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです」と豚君は泣いて叫んでいるのに、校長も技師も学生も小間使いも誰も動揺をきたさない。むしろニタニタわらっている。そこには他者に影響を与えるドラマが生まれない作品となっている。いよいよ豚君の孤独は暗く深い。作品として見ても誰にも理解されない、また関係性を作りえない状況を表していると同時にそこには不敵な笑いを持って現れている賢治像があるだろう。屹立している賢治がいる。
むしろそんな自分を笑っているようにも見える。突き放して諦観しているように見えるが、むしろ、ほくそ笑んでいるのだ。
そのことは宮沢賢治の作品群が後にも先にも文学系譜のない独立した孤高の作品群だということがよく象徴しているように思える。宮沢賢治の前に宮沢賢治なし、宮沢賢治の後に宮沢賢治なしといわれる所以である。この日本近代文学にとっての得意な位置は、おそらくこの孤絶した文学観からやってきているのだろう。
そしてまさに、この豚君のように死んでいくのだろうと笑ったのだ。
関係性を持ち得ない関係というものがここにはある。愛情深い家族がいて、友人たちがいるのに孤絶した魂がある。豚君のように八っの肉塊にされるのだ。
このような、文章であった。
基本的には打ち間違い以外は校正していないが、文脈上は賢治の特異性に落としている。ブラックユーモアにしてしまっては、もったいないような気がする。
完成形には至らなかったが、むしろこう考えてみてはどうだろうか?
賢治の法華信仰の行きついた先にあるものなのではないかと。
そこには、食べる人も食べられる豚もとくに意味があるわけではない。そうあるからそうなんだというくらいのものだ。そこになんら思い入れはいらないし、救いなどということもない。
嫌だと言っても、屠殺され食される。動物は誰かの命をとって食べ、また食べられる。それは避けられない原理であり、世の常である。
1900年代初頭以来、そういうことが嫌で菜食主義(ベジタリアン)が現れた。最近ではビーガン(vegan)という人たちも現れているらしい。完全な菜食主義者で乳製品なんかも避けるとのことだ。植物なら他の生命をとって生きるのではなく、水と二酸化炭素と葉緑素と太陽光で栄養を作り出しているから、いいのだとするらしい。しかし、生命を食べるという点では同じなので、そこに甲乙はないだろう。
でも、人間は自分たちだけが、生命をいただいて、他の動物に食べられることはないというのは早計で、人間だってたべられるのだという認識がない。たとえば、人を襲うトラとかライオンというものではなく、むしろ細菌やウイルスによって感染して命を落とすことがあるというのは、「食べられている」ということではないのだろうか。人間というよりヒトだけが、他の動物の命をむさぼっているわけではない。しかし、1900年初頭のころは、菜食主義は流行ったようだ。それは人間への絶対的な信頼が揺らいできたからだろうとおもえるが、それはあくまで観念的なものだったのだ。思想史的に言うなら人間中心主義へ反省だったのだ。
カフカもベジタリアンだったし、賢治も一時ベジタリアンだった。
カフカも結核で亡くなったし、賢治もおそらく結核だろう。(急性肺炎による喀血とあるが、結核が疑われるのではないだろうか)肉をたべないので体が冷えている、抵抗力が低下そう考えるのだけれども。普通に肉も食べていたら、早逝することはなかったかもしれない。
それはそれとして、この作品には、そのような卑屈さは感じられない。罪深い人間という身勝手さへの反省は無いようにみえる。すると、この作品はどう解釈したらいいのだろう?
賢治が述べたように「宇宙意志」の実相なのだろうか? 娑婆世間の善悪を超えている視点なのだろうか。賢治が〈心象スケッチ〉と呼んだ方法による「どうしてもこんなことがあるようでしかたないということ」を書き下したのだとすれば、そこには善悪の彼岸は超えている地点の作品ではないかと考える。
そして特徴的なのは、それがもう豚君だけの運命ではなく、我々人間たちもそうなのだということであるとともに、そこには悲哀も暗さもないということだろう。
どうしても、そうなるに違いないそういうことを書いたんだという、ほくそ笑む賢治がいるのではないだろうか。
それは、もう人事も宗教も超えている。作品に登場する人間のエゴイズムを表現した〈北極の空のような眼〉というメタファーも超えているのだ。このメタファーにはまだ、娑婆世間が入っている。本来そこには北極も何もないのだから。人間のエゴイズムだって宇宙の意志*のひとつなのだから。そうなるようにそうなっているに過ぎない。そこにはもう法華信仰ということもないのかもしれない。いや、もう消えている。突き抜けている。
*高瀬露への手紙の下書きでこんな風に書いている。
「た ゞ ひとつどうしても棄てられな問題はたとへば 宇宙意志といふやうなものがあつてあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然 盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによつて行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなわち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。ところがそれをどう表現しそれにどう動いて行つたらいゝかはまは私にはわかりません。( 昭和 四 年、 高瀬 露への書簡下書き)
ここで注目するのは、幸福へとつながっているという宗教心を支持していることだろう。世界が偶然によっているという解釈はとらなかったということだ。それを科学ではなく信仰としたのだが、宇宙意志は幸福へ向かっていないということをうすうす感じているようにもおもえる。そんなことを考えるのは人間たちの自分たちへの憐憫であり、あり得ないことなのだ。
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