どこへ向かうのか
どこかへ向かって歩く。歩けば歩くだけ、時間が経つ。
地球は丸いから、進んだ分、元いた地点までの距離は縮む。これは大事なことだ。
地球すら一つの方向に永遠に伸びていないのに、時間だけがそうだなんて、よく考えたらおかしな話だ。
だから2023年の次の年は2023年だし、11月21日の次は11月21日だし、8:50の次も8:50だ。そうして、認識のパラダイムシフトによって止まってしまった2023年11月21日8:50の中に、僕は生きたい。
とはいえ、夢もある。それほど大きなものではないけど。
いや嘘だ、そんなことを言って謙虚なふりで、自信がなくて保険をかけたいだけだ。有言実行を正義とする文化に顔向けができないだけで、本当は僕の夢は大きいのだ。
例えば社会を変える、とか。
この星のどこかで爆発が起きたら、1/nの小さな社会は変わるだろうか。
破壊は再生の序章でしかないなら、生まれることは終わらないのだろうか。
お腹が痛い。お腹の痛みには原因があって、そして今もお腹の中では何かしらの処理が行われて、いずれ痛みは消えて、そんな時間があったことも忘れてしまう。そうなったあとの世界では、「お腹が痛くなること」は僕から随分遠い空をくにゃくにゃ飛んでいる。
見えるか、あの雲が。あの悲しそうな雲が。ひとりぼっちで浮かんでは、何も言わず、僕らの知らないうちに消えてしまっている。
そんな雲が抱えている(かもしれない)孤独は、きっと僕には分かりっこない。
でも僕は僕なりに孤独だ。僕ら僕らなりに社会だ。雲と社会と孤独な僕(ら)の歪な三角関係に、神様か胎児に拍手をしてほしい。手を叩いて言葉もなく称賛して、本当の意味で笑ってほしい。
そんな様を見られるのなら、僕は僕らは、大した意味もなくとも、夢が夢のままでも、何もかも悲しくても、ずるずると生きるだけは生きられるだろう。
でもそれもないなら
穴のないニヒリズムにぐつぐつ煮込まれて、ちっぽけでカサカサな骨だけになってしまう。
骨に刻印はない。
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