情報発信衝動、平和の願い
なんかさ、世の中、情報過多になってるじゃん。
家のポストに入るDMとか、バーニラバニラうるさいデコトラとか含めると、商品のプロモーションが殆どかもしれない。
でもネットの社会でみんなが見たり聴いたりするものって、大概は個人発信のものが多くない?その個人も芸能人に限らず、一般の市民。
SNSで芸能人をフォローするけど、もともと情報を発信する立場にあるわけではない市民の情報もよく見てる。自分も含めて、市民が積極的に情報を発信している。したくて仕方がないのだ。
どうして?
今の御時世、コロナもあって、人と交流する機会が減ってるよね。そうじゃなくても、自分の信念、そこまでじゃなくても素直な気持ちをなかなk言えない。同調圧力がきつくて、引きこもりも不登校児も増えている。
素直な想いを安心して吐露したり、素直な想いへ安全な?反応を得ることがなかなかできない。反応はいつも非難めいていて「そんなこと考えるのお前だけ」「みんな違うよ」と排除する。
理解できないけど、理解したいという姿勢の人はありがたい。そういう人から批判的に「なんでそう思うの?」と反応していただけるのがありがたい。
脊髄反射的に「そうそう、わかる!」と同調を得られず不機嫌になる。きっと、とにかく癒やされたいほど傷ついているのだろう。それは判るけど、非難ではなく批判なのに傷ついてしまうなら、公言しないほうがいいね。
「そっか、そう思うんだね」という反応、自分はこれも好きだ。
自分の想いが社会に存在することを承認するような言葉。「同じ想いになれるかわからないけど、君がそういう気持ちだということはわかったよ」。そういう思いが込められた反応。
自分が自分らしく居られないような同調圧力。自分らしく居たい、みんなそう思っているのに、自分を肯定するために、他人を否定する風潮がある。
それは、自分が自分を見失っているのだと思う。
いま、市民が各々に情報発信するのは、そんな同調圧力を壊したいから。
自分を見失っている自分と、自分を見失っている他者の間にある壁を壊したい。小さな穴をひとつひとつ貫通させて、少しずつ、壁の間の風通しを良くしたい。市民が発信する想いには、そういう平和の願いが潜在している。
そう思うのは俺だけかもしれないね。それでも良いよ。
大丈夫。くじけないから。
いつか通じるから。