
人生は芝居のごとし、でも主人公になれるのは期間限定なのか?
「人生は芝居のごとし」とは、かの福沢諭吉による言葉。
福沢は、この例えを用いて独立自尊を説いた。似たような言葉に「自分の人生の主人公は自分」と聞くことも在るし、ニーチェも「自分は自分の主人にならなければいけない」という言葉を残している。
主体的な姿勢は、自分の人生をドライブしていくのに役に立つ。
しかし、それは心や身体が若く精力的な時期に限られるのではないか?、と以下の動画を見てふと思った。
「徘徊する劇場」。どういうことかというと、閉じられた劇場の舞台で芝居をするのではなく、日常の街角で稽古が繰り返され、本番が催される。本番では演者と観客が一緒に移動する。舞台自体が徘徊する徘徊劇場。
主人公だけはプロの役者。それ以外はみんなアマチュアで、お店の人や警察官は実際にその街で働く「本物」とのこと。その座組といい、舞台といい、まさに現実と非現実の境界が曖昧になる不思議な空間だ。
動画に現れた日本人演出家の菅原さんは、その不思議な感じを「認知症の人の世界に寄り添う感覚に似ているのではないか」と表現した。
なるほど。。。境界が曖昧になる、って鍵かもしれない。
認知症は種類によって症状の違いは在るが、現実・非現実の境界が曖昧になるのは大なり小なり共通するし、認知症と言えば高齢者の印象が強いから、高齢者に限った話に聞こえる。
しかし現実と非現実の境界を認知するようになる前、つまり幼児期もその境界は曖昧だと思う。空想世界を楽しめる年頃だから、当然寓話も信じることが出来る。「サンタクロースは来てくれるかな?」とか「大きくなったらスーパーマンになる」と真顔で言えるくらいに曖昧だ。
現実・非現実の境界が曖昧では、現実社会で自立的に生きることは困難だ。空想世界で生きる幼児も、認知症を抱えた高齢者も、ともに家族や福祉の助けが必要な存在。現実社会で自らの人生を切り拓く意欲があっても、自分の思うように好きには出来ない。受身の姿勢を強いられてしまう。
「人生は芝居のごとし」、「自分の人生の主人公は自分」
現実社会の環境を強いられる幼児期や高齢期では、自分を自分の人生の主人公にできても、人生の演出は困難になる。繰り返される環境変化への適応でしんどくなる。そりゃ、能動的に演出できる空想世界に遊離していくのも自然な成り行きだ。実は、誰もが自分で自分の人生の演出家に成りたいのだ。
今の自分は心身ともに精力的。能動的に人生を創造できる今は、自分の人生の主人公であり演出家でもいられる。しかしそれは人生の限られた一時期に与えられた貴重な機会なのだろう。そう考えると、その資源に恵まれている今に、心から「有り難い」と感謝する気持ちが湧き上がる。
そう、自分の人生の主人公にはいつでもなれるけれども、自分の人生の演出家になれるのは期間限定、のようである。
さて、今回の考察は幼児や高齢者の立場に立つ訓練になった。これを考察ではなく、疑似体験ができたら、他の多くの人にも良い学びになるはずだ。
現実と非現実の境界が曖昧な徘徊劇場と、現実に非現実を重ね合わせるAR(拡張現実)。超アナログと超デジタル。違いは大きいが、目に映る風景は通じるものが在る。これらを融合させたり発展させたりできれば、認知症高齢者や幼児が生きる世界を仮想体験する仕組みを開発できるかも。
さらには、他者の靴を履く(エンパシー)の一助になるかもしれない。