東京#20
僕には忘れてしまえたらと思う事が山程ある。
恋人を泣かせてしまったあの夜や、親に冷たい態度をとった日。家出をした中2の夏。試合に負けて泣いた更衣室。好きと言えなかった夕暮れの河川敷。作品への評価を受け入れられなかった試写室。不甲斐なさが充満する舞台裏。「2人で飲まない?」と言われて酩酊した午前3時。奥歯を噛み締めながら頭を下げた時に見えた靴先。このまま明けないでくれと願った長い夜。天才と出会った事。天才に負けた事。
「よくそんなことを覚えてるよね」と言われる事が恥ずかしい。女々しい男だなと思われるんじゃないかという過剰な自意識に苛まれる。相手にとっては忘れて良い事なのだ。きっと僕にとっても忘れてしまえば良い事なのだ。そう頭で理解すればするほど、記憶は鮮明になる。神経過敏である事は自負しているが、殴られた青痣が消えずに一生残っていたら、誰だって途方に暮れる。
今日、急遽上司に呼び出された僕は、身支度を5分で済ませ家を出た。相変わらず東京の空は曇天で、夜には雨が降るとニュースキャスターが言っていた。しかし僕は新品のスニーカーで外に出てしまっていた。自分自身、こういう詰めの甘さが嫌いだ。真っ黒な道路と湿っぽさから、昨晩、雨が降った事が想像ができ、足元に気を使いながら小走りで会社へと向かった。横断歩道では数人のサラリーマンが、信号が青になるのを待っていた。僕が住んでいる新宿は昼夜問わず騒がしく、街の人達の表情もどこか忙しない。この街にいる人は皆、何かしらに追われている。それは約束であったり、仕事であったり、時間であったり。信号が変わると、一斉に皆が歩き出す。その時、雲の合間に一瞬隙間ができ、太陽の白い光が横断歩道に差し込んだ。その眩しさに僕は「夏が嫌い」と言った彼女を思い出した。
当時15歳だった僕は自信過剰な人間であった。今とは違い、なんでも出来ると信じていたし、自分は他の人とは違うんだと思っていた。それも全て崩れ去ったきっかけが、彼女との出会いだった。あの日、僕が塾の自習室で彼女に消しゴムを借りなければ、僕はもう少しまともな人間だった筈だ。
高校受験を控え、親に強制的に個別指導塾へ入れられた僕はよく自習室にいた。「自習室」とは名ばかりで、僕以外利用している人はおらず、学校帰りサボるには十分な場所であった。その日も僕は自習室で勉強をサボっていると、珍しく誰かが入ってきた。美人だったのは明らかで、僕は少しの間見惚れていた。彼女の肩に少しかかるくらいまで伸ばした黒髪はとても美しく、吸い込まれそうなほど大きな瞳は、相手の心を見透かすようだった。反対に僕は田舎丸出しのダサい髪型にジャージ。釣り合わないのは一目瞭然だった。しかし、僕は即座に「消しゴム貸して」とキッカケを作りにいく。彼女の瞳は驚きで一瞬丸みを帯びたが、すぐ元に戻り「勉強してなかったじゃん」と言い、僕を一蹴した。男はこういう時に限ってめげないもので、何か気を引けないかと彼女を笑わそうとした。当時の僕にとっての求愛行動はそれしかなかった。とうとう彼女は笑い出し「そんなに消しゴム貸して欲しいなら貸すよ」と使いかけのMONOを渡してくれた。
外に出ると冬の匂いがして、彼女の頬はすぐに赤くなった。たまたま帰り道の方角が一緒だった事もあり、二人で自転車を押しながら帰る。満天の星空の下に中学生の男女が二人。僕は高揚感に包まれながら、彼女の話を聞いていた。彼女は海沿いの街に生まれ、それでいて夏が嫌い。「夏に海へ来る人は馬鹿だよ。本当は冬の海が一番綺麗だから。というか私は山の方が好き」と誰に対して言っているかも分からない愚痴を、僕にぶつけてきた。内陸県で育った僕には、海に対して一定の憧れはあるが、なんとなく夏は行かないでおこうと思った。彼女は僕を横目に続けた。
「海はね、一人で黄昏れる為にあるんだよ」
「寂しくない?それだと」
彼女は一間置いてゆっくりと答える。
「よく大人はさ、人は誰も孤独じゃないって言うけれど、何処まで行ったって孤独だよ。自分を理解できるのは自分しかいないから。勿論、君も私の事を知った気になっているかも知れないけれど、何も知らないよ。それは私も君に対してそうであるように」
何故初対面の人にここまで言えるか分からないが、歯に衣着せぬ彼女の物言いは、生まれたての赤ん坊のように無垢であった。
30分ほど歩いたところで彼女は突然「私、こっちだから」と、青信号が点滅する横断歩道を渡り始めた。僕は慌てて彼女の名前を聞くと、彼女は道路の真ん中で立ち止まり、一拍置いてから振り返る。
「渚、それが私の名前」
信号の赤色と街灯の朱色に月明かりが入り混じった夜は世界で一番美しい色だった。
それ以来、自習室が僕たちの集合場所になり、講義がない日でも僕は塾に行くようになった。彼女の考えていることはいつも僕の予想だにしない事ばかりで、話題は尽きなかった。音楽は何を聴くの?と聞かれ、GReeeeNと答えると流行りの曲はクソだよと言い、翌日にFishmansのCDを渡してきたり、彼女はいるの?と聞かれいない答えると、君はロマンチストだからねとよく分からない理屈でため息をついていた。僕が見ている世界と同じ世界にいる彼女には別の世界が見えている。
テストの前日、僕は柄にもなく勉強に集中していた。今でもそうなのだが、僕はラーメンズのコントを作業用のBGMとして聴いている。コバケンがボケて、ギリジンが項垂れる。そして観客が笑う。全て知っているからこそ安心するのだ。
ドサッと隣の席に鞄が置かれる。僕は横目に渚を確認すると、渚は僕の顔に手を伸ばしてきた。そして、僕の右耳のイヤフォンを外し、渚の左耳に付けた。
「Fishmansじゃないじゃん」
「ごめん、まだ聴けてない」
少しむすっとしながらも「この人達だれ?」と問いかける彼女に、僕は熱心にラーメンズの説明をした。自ずと早口になる僕を遮って渚は質問をした。
「君は芸人になりたいの?」
「…うん。一応ネタも作ったりはしてる。まぁ、けどなれるか分からないけどね」
「分かんないよねー」
「え、こういう時って励ましてくれるんじゃないの?」
「それは私の役目じゃないよ」
「まぁ、たしかに。渚は何になりたいの?」
「分かんない。けど何者かにはなりたい」
「それってどういう…」
「いいんだよ、私の話は。面白くないし」
そう言って彼女は数学の教科書を開いた。僕は何か違和感を抱きながらも強く言及する事は出来なかった。
そして、その日を境に彼女は塾へ来なくなった。
当時、携帯を持っていなかった僕は彼女の連絡先は当然知らず、気がつけば彼女は退塾していた。僕は自習室の蛍光灯の明かりがやけに眩しかった気がしていたが、それも渚と話している時間があってこそだったと、薄暗い自習室を見て思った。
その後の僕は地元の進学校へ入学し、めっきりぬるま湯に使っていた。彼女に話した「芸人になる」という夢だけが、がらんどうの心に残っていた。何かをしなければならない。それは十分に理解はしていたが、具体的に何をすればいいのかが分からなかった。ただ、はっきりしていたのは、僕は彼女を忘れられないでいた。
とりあえず好きなコントは続けようと、授業中ネタを作っては定期的にクラスメイトの前で披露していた。それが少しずつ口コミで広がり、数週間後には見知らぬ先輩達に呼び出され披露するぐらいの知名度は得ていた。しかし、僕はそれ以上のものを渇望する様になっていた。
「一度でいいからテレビに出たい」
気がつくと僕は当時の相方にそう言っていた。相方は引っ込み思案な性格もあり、難色を示したが「チャンスが有ればいいよ」と了承した。そのチャンスもすぐにやってくる。
当時、U-20によるお笑いの大会が日テレで開催されていた。一次審査を悠々と突破した僕らは、長野県で唯一の選抜コンビで、かなり息巻いていた。テレビに出れば渚が見てくれる。その一心でネタを練習し続けた。
二次予選にあたるエリア大会。ここを突破する事が出来れば準決勝への道が繋がる。会場がある渋谷へ田舎から出てきた高校生二人組が息巻いて乗り込んだ。
自分たちの出番の一時間前に入ると、舞台袖近くの非常口には沢山の自称芸人の素人集団がいた。高校生の僕らを奇怪な目で見る人や、壁に向かってブツブツとネタを繰り返す人。知り合いがいるのか、仲間内で練習もせず談笑している人。
僕達はなんとか踊り場の隙間にスペースを見つけ、そこに荷物を置いた。人熱でむっとした踊り場で相方の顔は緊張で青白くなっていたが、それは僕も同じだった。この日は漫才をやる予定だったので、僕はきっかけとして「はい、どうもー」と小さく声を出した。相方は壁の方に振り向き小さく台詞を言うと、流れるような確認作業が続いた。「そんなんじゃあかん」と言ってきたのは、練習もせずに遊んでいた人のうちの一人だった。
「今、なぁなぁに練習しとったけど、それじゃお客さんに失礼や。今日の人達だって安いけど金払って来てんねん。だからきぃつけや」
僕達は幕仕立て上げるような関西弁で、説教風のダメ出しを食らった。呆気に取られる僕達をよそ目に、その人はまた仲間とふざけだした。
「開演しまーす」と気怠く投げかけるスタッフが入ってくると、さっきまでガヤガヤしていた非常口が静まり返る。忘れていた。ここは戦場だ。全員を殺さないといけない場所だ。僕達だけが生きて帰らないといけない場所だ。
進行をつとめていた若手芸人がステージから舞台袖へとはけていく。突如鳴り響く聞き覚えのない出囃子。トップバッターの大学生風のコンビが元気よく舞台へ出陣する。その声量に僕は何故だか勇気を貰った。「ビビる必要はない。戦える。俺は今のところ長野県で一番面白い高校生だ。俺が勝つ」そう思い込む事で弱い自分を押し殺した。
そして、とうとう僕達の出番がやってくる。進行に名前を呼ばれ、勢いよくステージ上へ駆け出た。自己紹介から掴みまで10秒。確かな笑いが起こる。僕はそこで理解した。観客は確実に僕たちにハマっている。ボケとツッコミの勢いはオチに向かって加速する。観客の笑い声も段々と大きくなっていく。
「もうすぐでネタが終わる。観客の笑い声を永遠に聞いていたい」
そう思った矢先、相方がツッコミを間違えた。観客は一瞬にして引いていく。僕は「お前がボケてどうすんだよと」突っ込むも、相方はネタに戻れないでいる。その目線の先にある観客の薄ら笑い。まだ取り戻せると思った僕は無理矢理本筋に戻ろうとするも、冷静ではない脳内で元に戻れる訳もなく、僕はオチの台詞を飛ばした。
空白とはこの事を言うのだろう。相方も観客も審査員も終わったなという顔で僕を見ていた。台詞が戻ってくるたった1秒の間が、僕のプライドを全てへし折った。
真っ暗な舞台袖に戻ると僕にダメ出しをしてきた関西人が僕の肩を叩いた。
「キミ、おもろかったな。けど才能だけでは勝てへん。場数を踏んだやつにだけが得れる本物を見せたるわ」
踊り場でふざけていた人とは思えないくらい真剣な顔だった。相方と思わしき人が後からやってきて、その勢いで二人は舞台に出て行く。そして、僕は初めて天才を見た。舞台袖から見える彼らは先ほどまで残っていたひんやりとし空気を一瞬にして変え、本物の笑いを提示していた。
そこから先の記憶はカビたビデオテープのようにモヤがかかっており、ハッキリと覚えているのは会場を後にしてマクドナルドのカウンターに項垂れる相方の姿だった。僕はカップの中に残った氷を口に含んだ。無機質な味が口の中に広がる。まだお互いに謝罪はしていないが、言わずとも自責の念は伝わっていた。
後日、決勝戦の模様は全国ネットでOAされた。各エリエアから予選を勝ち上がった人達をダイジェストで、紹介するVTRが流れる。その中に、ほんの一瞬僕達が映っていた。会場で観客を笑わせていた瞬間の映像だった。僕は何故だか安心してしまい、その反動で悔しさから涙を流した。
決勝の舞台では僕に本物を見せてくれた人が漫才を披露していた。
映画のような転機を迎えたのは、大会がOAされて2週間後の事だった。意識が高い女性ピン芸人が優勝したその大会は既に過去の産物とされ、優勝者をテレビで見る機会も無くなっていた。
その時の僕はといえばお笑いへの道は諦め、何故か演劇部に入部していた。「一緒に演劇をやろう」と声をかけられたのは、僕が文化祭でコントを披露した後のことだった。出番を終えた後、小柄な女性が近づいてきて「君の演技力は抜群にやばい」と偏差値が伺えるような誘い文句を言ってきた。僕は昔から誘われたら断りにくいタイプで嫌々ながら、入部をした。
ある日、僕が部活から帰宅すると祖母が「手紙来てたよ」と、僕に一通の茶封筒を渡してきた。差出人は渚だった。
手紙を受け取った週末、初めて聞く名前の駅で降りる。そこはいわゆる無人駅で、駅らしいものといえば、切符を箱に入れるだけの簡易的な改札のみだった。駅の外に出ると、夏の日差しが僕の顔を照らした。思わず目を細めた。カバンから手紙を取り出す。待ち合わせ場所は駅から少し歩いた先にある神社だった。
駅から神社までは日陰という日陰はなく、直射日光に照らされながらヘトヘトになるまで歩いた。手紙に書かれていた道を何度も確認し、ようやく辿り着いた神社は手入れがされていないのか、縁石の間からは名もなき雑草が生え伸びていた。鳥居をくぐり、木々の日陰の方を見ると陽炎の向こうに一人の女性が見えた。「久しぶり、芸人さん」そう茶化したのは紛れもなく渚だった。
久しぶりに会った彼女は日に焼けており、髪も頸が少し見えるくらいに短くなっていた。僕達は神社に併設された錆びついたベンチに腰掛け、互いの変化について話しあった。彼女から届いた手紙には僕がテレビに出ていた事や、何故引っ越しをしたのかが書かれていた。「あの時は何も言わずに居なくなってごめんね」と謝られたが、僕はその時の感情を上手く言葉に出来ず「いいよ」と返事をした。
彼女が僕の前からいなくなる日、彼女は元々引っ越しをする予定だった。一緒に暮らしている祖父の持病が悪化し、空気の良い田舎へ療養する為であった。彼女は僕と仲良くなるにつれ、その事が言い出せず、結果的に何も言わずに引っ越しをしてしまった。彼女には嫌いにならないでと言われたが、人を嫌いになれるほど僕は出来た人間ではなかった。それよりも、彼女が住んでいる街は海沿いにあった。この街の海は彼女に嫌われてはいないだろうか。
「少し歩こうか」と彼女に連れられた先にあったのは高校だった。
「私の教室来ない?」
「俺入れないしない?」
「大丈夫、私服校だから。きっとバレないよ」
そう言い、彼女は正門を目一杯に開け、誰もいない校舎に入った。僕はなんだか悪い事をしている気になった。ひび割れた校舎の壁、日が射す渡り廊下。彼女の日常に僕がお邪魔している気分だった。彼女はチラチラと僕がついてきているか確認しながら、なんだか嬉しそうに前を歩いていく。廊下から見えたグラウンドでは野球部が練習試合をしている。どうやら正門から入るのは悪い事ではなかったらしい。
「ここが私の教室」
そう言ってドアを開けて、彼女は僕を招き入れた。
「渚の席は?」
「さて、何処でしょう」
「こういうのは大抵窓側の席って決まってるんだ」
「残念、ど真ん中の一番前でした」
「風情がないよ」
「そんなものは大人が勝手に決めたものだから。固定概念に囚われてはいけないのだよ島田くん」
そういう時彼女はケラケラと笑い出し、僕もなんだか可笑しくて吹き出してしまった。僕達は互いに会えなかった時間を埋めるために、互いを理解しようと無垢な感情を曝け出していた。
「あ、テレビ見たよ。凄かったね」
「あんな一瞬なのによくわかったね」
「君の事だから、出るかなぁと思ってなんとなく観てたらホントに出たからビックリしちゃった」
「結局、予選落ちだから気づかないでくれた方が良かったよ」
「やめるの?芸人は」
「うん。あんな才能見せられたら敵わないって思ったよ。悔しいけど俺面白くないんだなぁって」
「元々面白くないよ」
「その冗談、今はきつい」
「うそうそ、ごめんって」
そう言って彼女は教室の窓を開ける。蒸し暑い夏の風が、彼女の髪を靡かせる。海が近いせいか少し湿っぽい。
「でも、そのあとなんだかんだあって演劇部に入ったんだ。そこでは演出をやってるんだけど、これが中々面白くて」
「なんか、その話長くなりそうだね。いい意味で」
彼女は窓際の机に腰掛け、どうぞと言った。裏方の面白さや、コントと演劇の違い。いつか渚にも見せてあげたいという願い。また早口になりかける僕を、今度は止めずに最後まで聞いてくれた。
「そう言えばさ、何で僕をここに呼んだの?」
「手紙に書かなかったっけ?」
「うん、確か書いてなかったと思う」
「呼んだ理由かぁ、うーん」
その時、廊下から誰かがやってくる足音が聞こえた。
「隠れよ!」
「え、なんで?」
「だって、君は他校の人だから!」
彼女に手を引かれ、教卓の裏に二人で隠れる。当然二人が入れるスペースはなく、僕達は出来るだけ身体をくっつけた。誰かが教室のドアを開け、忘れ物を取りに来た。椅子を引く音。目当てのものがあったのか忘れ物をした人は、駆け足で教室を後にする。僕はそんな事よりも僕の汗ばんだ手が彼女の細い手の中にある事に意識が行ってしまった。手を離そうとすると彼女手に少し力が入った。彼女の顔を見つめる。吸い込まれそうな程大きな目は、すっと綺麗な線になる。僕達はまるでそうであったかのようにそっと唇を重ねた。
遠くでは、野球部が四番バッターのホームランにはしゃいでいた。
駅のホーム。豆粒ほどの電車が遠くに見える。とうとう別れの時が来た。僕たちは言い尽くせなかった言葉達を胸にしまったまま、待合室のベンチに腰掛けていた。繋がれていた手には時を経た分の温もりを感じたが、それが何よりもさよならの代わりであった事もとっくに理解していた。
「渚が何者かになりたいって言ったの覚えてる?」
「そんなこと言ったっけ?」
「ほら、僕が芸人になりたいって話をした時に渚が言ったんだよ」
「よく覚えてるね」
「渚は、渚だから。何かを成し遂げても成し遂げなくても、君は変わらないよ」
「ねぇ、それ励ましてる?」
「もちろん」
「君はモテないでしょ」
「それ関係なくない?」
「ほら、もう電車来るから」
「今日、この日は一生忘れないよ。ずっと」
「ありがとう。君はきっと幸せになれるよ。だって私を見つけてくれたから」
僕達の会話に終わりを告げるように、発車のベルが鳴り響く。「またね」と言い、僕は電車に乗り込んだ。ゆっくりと電車は動き出し、段々と彼女の姿が遠くなっていく。揺れる稲穂、錆びれた平屋、陽が沈む海。手を振り続ける彼女。何もかもが通り過ぎていく電車の中で、僕は必死に渚の笑顔を脳裏に焼き付けていた。
彼女を知るほど、
彼女に近づくほど、
渚が遠くに行ってしまう感覚を受けたのは、
きっと僕が大人に近づいていたからだ。
社用の携帯がポケットの中で鳴る。電話主は上司だ。また番組でトラブルが起きた。世界がウイルスに侵されてから、緊急のトラブルの内容は大概似ている。僕は「対応します」と答えため息をついた。ぬるいビルの隙間風がシャツの裾を揺らす。渚がいなくたって夏は来る。悲しくはないけど楽しくもない。そんな当たり前のことを僕は何故か考えてしまう。「何者かになりたい彼女」が本当に求めていたのは「自分が何者かであるとして扱ってくれる人間」だったと気づいたのは、彼女が別れてからずっとあとの事だった。
僕は今、テレビに名前が載る仕事をしている。それは僕がこの世界で唯一「生きている」と証明出来るものだ。まだエンドロールはかからない。僕の終わりはもう少し先のようだ。それならば、いつか何処かの街の片隅で、彼女が僕の名前に気づいてくれるまでは、僕は成り損なった理想の成れの果てで生きるしかない。人との出会いで、僕が今生きていられるのであれば、僕の人生で忘れてしまいたい事なんて、何一つない。
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