社会人A
心を亡くすと書いて忙しいと読んだ人は、 生きながらにして死んでいたのだろうか。 「あんな会社辞めてやる」がすっかり口癖になったあいつは、今日も仕事をしているだろう。いつかの居酒屋で「お前が辞めたら俺も辞めるんだけどなぁ」と言われた時、僕は笑いながら「馬鹿言うなよ」と返したが、本当は僕も同じ気持ちだった。いっその事、ハイボールをおかわりする感じで退職届を出そうか。 「俺はさ、世界を征服したら時間の概念を無くすんだ!」 「どしうしたの、急に」 「毎日休みにして、世界の進化を
僕には忘れてしまえたらと思う事が山程ある。 恋人を泣かせてしまったあの夜や、親に冷たい態度をとった日。家出をした中2の夏。試合に負けて泣いた更衣室。好きと言えなかった夕暮れの河川敷。作品への評価を受け入れられなかった試写室。不甲斐なさが充満する舞台裏。「2人で飲まない?」と言われて酩酊した午前3時。奥歯を噛み締めながら頭を下げた時に見えた靴先。このまま明けないでくれと願った長い夜。天才と出会った事。天才に負けた事。 「よくそんなことを覚えてるよね」と言われる事が恥ずか
こんな時代だから、誰がどんな悩みを抱えているかは分からない。どんな明るさの言葉をかけよう。 相談を受けている時、常に考えている事だ。 「大丈夫だよ」「私がついてるから一緒に頑張ろう」「分かるよ、分かる」 確かに励まされはするが、眩しすぎる。心の何処かで追い込んでいる感覚がある。時には暗がりに居たい時もあるだろう。なので、相談を受けているときは、ツマミをゆっくり回すような思いで、言葉の明るさを調整する。それでも僕は傷つけてしまう事もあるし、結果的に嘘になってしまった約束だってあ
年末の東京タワーには思ったよりも人がいて、 僕が想像していたものとは大分違っていた。 その殆どがカップルで、僕は異世界に入り込んでしまったような気がした。 ひと昔前「リア充爆発しろ」という一文が流行した。 その時は、人の幸せを喜べない人こそ爆発しろと思っていたが、今なら分かる。 「リア充爆発しろ」 最初に書き込んだ人は、きっと息苦しさから出した一言だったと思う。自分のせいだと分かりつつも環境のせいにして逃げ出したかったのだろう「あの時ああしていれば」「こう言っていたら」な
今日、セブンスターを吸った。数年ぶりに旧友に会ったような気分だ。昔、恋人にタバコは身体に悪いからダメだよと言われた。確かに身体に悪い味がした。 同時に懐かしさが込み上げてきて僕は少し、泣いた。 今の仕事には何不自由はないし、正直不満もない。 プロデューサーになりたいと言う夢も2年目にして叶った。上司にも同期にも恵まれ、色々な現場で可愛がられてて理想の社会人ではあるはず。 だけど、心の何処かで満足していない自分がいる。 本当にこのままで良いのかと毎日自問自答している。 この
「今日の感染者数、過去最高らしいっすよ」 まるで天気の話かのように僕は口にするが、 それが些か可笑しな話であることは心に留めておかなければならない。 平穏な日常は風化して、すっかり錆びついた。 都会での馬鹿騒ぎもそろそろお終いだ。 昔誰かが話していたような空想が、今や現実を支配している。 いや、現実なんて大抵は突如として変わるものだ。 その変化に僕たちはまた気づけず、抵抗出来ず、ゆっくりと負けていく。 マスクを外している人がいる。 彼らに奇異の目を向けて、何かを訴えようと
唯一、嫌われても良いと思っている人がいる。 友人Aとカテゴライズしている彼は、本当に酷い人間だ。アイロニストな彼は世界のあらゆる事を小馬鹿にしている。しかしながら、彼なりの芯はしっかりと通っているので、ある意味論理的というか、話していて飽きることはない。 僕は他人に好かれたいと思っている。それは自分の本性を知っているからで、それを見せてしまう事で、嫌われてしまうのではないかと酷く恐れている。 だけど友人Aに対しては例外だ。 もはや何を話そうが、それらを全てうわべである。 だ
夜の新宿駅東南口には雨宿りする人に溢れていた。 急な雨に佇む事しかできない僕は、壁に寄りかかながら、足早に歩く人々を眺めていた。 みんな、そんなに急いでどこに向かうのだろうか。 そして、僕は何処へ行けばいいのだろうか。 こういう時に限って、あの子から連絡はない。 彼女Aと最後に会ったのは今年の新年会だ。 どうでもいい二次会を抜け出して、 僕たち夜の街を彷徨っていた。 すっかり酔いは覚め、昔話に夢中なると、 「そんなこともあったね」と彼女は呟いた。 普段は強気な彼女も僕の前で
旅先で美術館に寄った。 芸術に触れるという行為は些かなりとも、良く思われたいという卑しさから来ているものだと思う。 正味、良く思われたいが為に入った美術館を僕は10分程度で満足してしまった。入館時の高揚感も惰性で減り続けており、僕はずっと出口を探していた。現代アートは特に理解し難い。現代のアートにも関わらず、コンテンポラリー過ぎるのか、何も伝わらない。まるで学生映画のようだ。ここにおいてプロとアマチュアを同じ土俵にあげてしまう僕にはきっと、芸術に触れる資格が無い。そんなことを
地元に帰る度に思い出す事がある。 高校時代の恋人Aは、上京する僕に「何で東京に行ってしまうの」と言った。その言葉がどれだけ時が経とうとも、ささくれのように少しだけ痛みを感じさせながら、心に残っている。12月初旬の真夜中である。当時の僕はその言葉には酷くゾッとしたもので、「まぁ、すぐに帰ってくるから」とあからさまな嘘をついてしまった。彼女は僕を地元に引き止めようとした唯一の存在であったことは確かで、今となってはもっと上手い返しが出来たらとは思っている。 それから数年間恋人Aと
昨日、友人Aとじゃんけんだけで新宿から自宅に帰れるかを実験していた。僕が勝てば右、友人Aが勝てば左、あいこは真っ直ぐというルールだ。後退だけは許されず、どんなに帰り道とは真逆になっても僕たちは進むことしか出来なかった。信号のたびにジャンケンをし、その結果に一喜一憂を繰り返す。気がつけば2時間近くたち、挙げ句の果てには丸の内線で池袋に向かっていた。正直僕たちは帰りたかった。その意思は顕著に互いの表情に表れていた。二駅過ぎた頃、僕たちふらっと次の駅で降りた。「もう僕たちは自分自身
初めて僕を担当する美容師は軒並み同じ言葉を言う。 「パーマかけてますか?」 僕は自嘲気味に癖っ毛なんですと返す。 すると美容師は必ず「これくらいゆるくかかってるのが流行なんですよ」と言ってくる。僕は少し驚いた後、知らなかったと返す。勿論、嘘である。何故ならこのやりとりをかれこれ5年間やっているからだ。 僕は5年間、無知を演じている。そして美容師の言う事が本当であれば、髪の流行はここ5年変わっていない。 そろそろ、僕の癖っ毛は殿堂入りするだろう。 ここにおいて悪者は誰だろうか。
久しぶりに会った昔の恋人Aは、以前よりも少し痩せていて、仕事の忙しさを感じさせていた。「この後どうしようか」何杯目かも分からないレモンサワーを飲み干し、僕たちは夜へ飛び出した。彼女と二人、猥褻な繁華街を抜け、次のお店を探していた。「大人ぶってBARにでも行こう」「いや、300円の中華でいいよ」そんなやりとりをしながら歩いていると、お店を探す事はすっかり忘れ、気が付けば昔話に夢中になっていた。 あの頃は二人だけの世界のように過ごしていた。幸せに目が眩んで、それまでの鬱屈とした日
たった厚さ1cmの携帯にこの世の全てが詰まっている。ただ、答えの出ない問いかけに限って、携帯はどうにも役に立たない。社会人になってから、相談をされる事が多くなった。時には居酒屋で、または帰りの電車で、たまにダイレクトメッセージで。場所は違えど大概は「好きなことをやりたい」という悩みであった。 先日元カノAが家に来た。今流行りの「夜中にいきなりのLINE」というやつだ。部屋の掃除を簡単に済ませ、元カノAが来るまでの間に念のためシャワーも浴びておいた。日付が変わる丁度間に玄関のチ
新宿駅の丸の内線のホームで、飛び込み乗車しようとするサラリーマンと肩がぶつかった。 僕は若干のイラつきを覚えたが、反射的にすみませんと言っている自分に気がつき情けなくなった。ホーム内に発車のベルが鳴り響き、電車がゆっくりと動き出す。僕はせめてもの抵抗として、サラリーマンの顔を見てやろうと振り返った。目の前を通り過ぎる電車、車両の中で肩で息をするサラリーマンの顔を見た。その人は大学時代の先輩Aだった。 「アクション俳優になるんだ」 先輩Aはそう言って卒業していった。僕が通って
いつかこの気持ちを無かった事にしてしまうのであれば、今伝えておいた方がいいかなと思った。 僕はその程度の理由で告白をした。出来るだけ飾り付けはしないように、それでいてピンセットで摘むように言葉を選んだ。勿論、この告白は自分へのケジメで、彼女Aから了承を得るためのものではなかった。それでも予想通りの返答が来ると、何処かで期待していた自分がいた事に気づく。そこから彼女Aと別れるまで何を話していたかは覚えていないが、彼女Aが横断歩道を渡る直前に振り向き「また飲みに行こ」と言った事