絵画展から観る新たなアートと時代への挑戦 (ゲルハルト•リヒター展より)
ゲルハルト•リヒター展
年を越してしまうと絶対見れないだろうなぁと
時間を見つけて訪館
恥ずかしながら東京での展示をSNSで見かけ
初めて知った口である。
東京開催中になんとか目論み、観に行きたいと思っていたが、コロナの影響でタイミング合わずであった
が、
なんと豊田市に巡回するとの事で希望が叶う。
愛知県に住んでいて最近でもっとも嬉しい事かも
それはさて置き作品を観て意外な事に気付く
初期の頃からの作品もあり、写真家か?
と思う作品群から始まり意外なサプライズも感じていると
次の作品群にNFTアートの様なデジタルモザイクの展示だ。
なぜここにこの展示?
ある意味最終系の作品ではとさらに疑問が続く
その作品群だけで、3回程周回したか、???を感じ
観ているとふとした事に気づいた。
もしやヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」に影響されている?
そんな事に気づくとようやく次の展示に
そこから何か謎が解けたかの様に彼の作品の
面白さが少しづつ分かってきた。
今回の一番の目的は彼の抽象画は、どの様なものか?
そんな事を見に来た訳だが、途中実験的にチャレンジしている作品を観て、彼が何にもがいていたか少しだけ伺えた様に感じた。
ネタバレにもなるので、あまり具体的には書けないが、
彼は恐らく画家でありながら写真への興味へ走っていたのではないか?
と思われた。
当時ベンヤミンが唱えていた写真技術で複製する事でのアートのアウラ(オーラ)が喪失する事への警鐘に興味を持っていたかの様に
写真を筆で捉え、そして絵画としてコラージュ?や組合せをし、これから来る。
そうした一連の流れを見ていくとある事に気づいた。
彼は既に、複写時代を見据えた
新たなアートが見えていたのでは…
ちょうどその頃、時代は工業製品をはじめとした
大量生産の時代に突き進んでいた頃である。
写真と言う技術が有れば、写実的な模写はどんどん必要がなくなるなる
絵画とはどの様なモノなのか、彼だけでなく多くの画家が持ち合わせていた不安であろう
そこで、彼はあえて写真を肯定的に捉え、写真と絵画の融合を目指したのではなかろうか。
先に紹介したNFTの様なデジタルモザイク画は、その延長で彼が感じた一つの価値観に感じる。
デジタル画の様で絵画であり、アウラを極限まで失わせて出来る新たな価値を
写真と言う技術が到来した事で、我々の生活は変化している。
今迄記憶と言う世界で残っていたモノが、ある時から鮮明な形で記録される事が可能になり、技術躍進は現代の我々が感じる事がほとんど出来ない、当時の人々は何か凄い未来の道具を手に入れた様な感覚を持ったのではなかろうか?
思い返せば、私も初めてMacに触った日の事を今でも覚えている。
30年以上も前の初期の頃のモデルであるが、グラフィックソフトを使うと、絵の具やマーカーを使わずしてどんどん絵が描ける。
当時、私はテキスタイルデザインをしていたので、グラフィックをパターン画として作成をしていた。
これは、分かりやすく言えばリピート画である。
いくつも同じ絵が繰り返される事で大きな面積のグラフィック即ち柄と言うモノが出来上がる。
そのリピートを検証するのに凄く適したツールである事に気がついた時の感動は、今言葉で置き換えようとしてもなかなか置き換えれる事が難しい位である。
少々話が脱線したが、私でもMacと初めて出会った時はこの様な感動を覚えた。
恐らくリヒターもこの様な新たなツールを手に入れた感動を得たのではなかろうか?
ただそうした中、長所だけでなく、短所を感じていた事も予想出来る。
それは、絵画がコピーされる時代を感じていたのかもしれない。
そのイメージが、写真を絵としておこす事や、モザイク画の様な色分解をしたかの様な絵にチャレンジしたのではなかろうか。
リヒターの絵画展では、何層にも色が重ねられた抽象画やドイツの歴史に目を奪われがちであるが、
私には、彼が時代と戦っていた様に感じた。
それは、人間の持つ創造をして描くと言う文化とテクノロジーの進化。
それを拒絶するのではなく、受け入れる事を。
そして、受け入れた中で生まれてくる新たな創造性とは何か?
こんな事を感じた。
先日ある面白い事を聞いた。
それは、我々の祖先のホモサピエンスは、道具や言葉と言う文明を何かをキッカケにして手に入れた事が、周りの動物やネアンデルタール人とは全く別の道を歩んできた事である。
リヒターの個展では、彼の抽象画までの道のりを観つつ、実験的な作品群を段階的に展示していただく事で、当時新たな技術と向き合う彼の姿を見た様な気がする。
それは、ホモサピエンスが生まれてきた宿命を受け入れていた事を、理屈ではなく、運命として受け入れ様と努力していた事とも感じた。
今、我々は、一つの岐路を迎え様とのしている。
それは、迎えくるAI時代である。
全ての事が、アルゴリズム化された時に幸せな暮らしは来るのであろうか?
社会は肯定的に捉えている様にも映るが、私には懐疑的に写っている。
その様な未来、そして未知の世界が来る事に対して、我々はリヒターの絵を見る事で何かを学ぶ事が出来る様な思いにもとらわれた。
産業革命以降、技術の進化は人類の生活を大きく変えてきた。富を手にし、多くの人が幸せになった様にも思えるが、その一方で、多大な戦争を繰り返す事や貧富の差を生む事、そしてテクノロジーに疲れ果て、心身共に疲れ果てる人。
我々は、本当に生まれてきたテクノロジーを使いこなしているのであろうか?
リヒターの絵画展を見ていると、このテクノロジーを肯定、否定する前に自ら実験的な試みを持ち、その価値がどの様な物かを自分で捕まえてみてはどうか?と言っている様にも感じた。
今回の絵画展では、一つの絵と言うより全体を通してその様な事を感じれる事が出来、絵画展を通して新たな価値を感じる事が出来た貴重な体験になった。
最後に)
ここまで読んで頂きありがとうございます。
リヒター展を通して感じた事を述べてみました。
この文章を通じて皆さんも何かを感じて頂けたら幸いです。もしコメントなどありましたら、お気軽に書き込み下さい。
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