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友達をつくるための体癖

友達が、いなかった。

教室ではいつもひとりぼっち。
机に突っ伏して眠っているフリをしたり、別にトイレに行きたくないのに行ったりして、休み時間を過ごした。

体育の授業などで「仲が良い人と二人一組になりなさい!」と言われるのが、苦痛で苦痛でしょうがなかった。
自分では仲が良いと思っていたジュンも、話したことがほとんどないハヤシと組を作るし、保育園で一緒だったシンヤは人気者で、同じく人気者のヤマちゃんと組む。

居場所が、なかった。

休みの日は兄と兄の友達と遊んだ。
「お前はなんで自分の友達を遊ばないんだ?」って兄の友達のフッくんに言われた。
何も答えられなかった。
友達がいないことが、ものすごく恥ずかしかった。

夏、年に一度のお祭り。
誘う人もいないし、誘ってくれる人もいない。

でも普段とは違った商店街を見たくて、親に「友達とお祭り行ってくる!」と嘘の元気を出して家を出て、一人きらびやかな雑踏の中へ。
一人でお祭りに来ていることを知られたくなくて、できだけ端っこの方を歩く。
「なんで一人で来てるの?」の答えになり得るだけの言い訳を胸に秘めて。
でも同級生を見つけた時には、小走りで逃げた。

それでも親と一緒の姿を見られるよりは、よっぽどマシだった。
そんなところを見られたら、きっと笑い者になる。
恥ずかしい奴だと思われる。

友達が、欲しかった。

ドラゴンボールを7つ集めて「シェンロン!友達をください!!」とでもお願いしたいくらいには。
ガンダムのプラモも、聖闘士星矢のゴールドクロスも、本当はいらなかった。

ただ、友達が欲しかった…

どうやって作るのか?
誰も教えてくれない。

気づけばどいつもこいつもいつの間にか友達がいやがる。
一緒に下校して、そのまま駄菓子屋で串に刺さった団子みたいな小麦のオヤツと発泡スチロールの飛行機を買って、公園で遊んでいやがる。

羨ましかった。
そんなふうに遊んでみたかった。
「どうやって友達になったの?」って聞いてみたかった。

でも、余り者同士でくっつくのは嫌なんだ。
トミちゃんやトトくんも一人ぼっちだけど、自分はそっち側の人間じゃないはずだ。
「アイツ、あんな奴と友達なんだぜ!笑える!」とか、言われたくない。
自分は、シンヤやヤマちゃんみたいな、人気者の部類のはずだ。

そう、自分は友達がいっぱいできる類の人間なんだ。

だってオレ、優しいぜ?
スポーツも勉強もあんまりできないけど、面白いぜ?
ガンダムもゴールドクロスも割と持ってるぜ?
ビックリマンチョコのシールも100枚あるぜ?
頼まれればキラのシールをあげるのもやぶさかでないぜ?

なんで自分のところに来てくれないのか…
オレは色々”持ってる”のに…

そうだ!
アイツらの方がおかしいんだ!!
オレの優しさや面白さを分かってないんだ!!!

だったら、もういい。
友達なんていらない。

どうせ水鉄砲で一人だけ狙われてギャハギャハと笑われたり、急勾配の堤防を前に「おい、オマエ行けよ」とか言われて無理矢理チャリンコで急な坂を下らされるんだ。
一緒にファミコンしてもオレだけリセット禁止なんだ。

アイツらはそうやって楽しむんだ。
人を笑い者にしやがって。
そんな低俗で低レベルな遊びには付き合ってられない。

でも、一人ぼっちよりは…

ねぇ神様。
ボクに友達をください。

もう嘘ついたりしないし、悪いこともしないし、人生の重要な場面でお腹痛くなったりしてもいいから。
あれだけ欲しかったネクロスの要塞のナイトが当たらなくてもいいから…

親に「友達がいない」なんて言えないんです。
心配させちゃうから。
先生に通知表で親宛てに「努力家で真面目だけど友達がいないのが心配です」なんてもう書かれるわけにはいかないんです。

友達を、与えてください…

…そんな小学生時代を、私は過ごしてきました。

だから少しは分かるのです。
大人になっても友達がいない人の気持ちが。
その人の孤独が。

大人になれば、友達は必要なくなる。
そう思う人もいるでしょう。

あえて言いたいのですが、大人だからこそ、友達は必要だと思うのです。
少なくとも、”友達ができてもいい人間”になることは。

子供の孤独もしんどいけれど、大人の孤独はもっとしんどい。
そのしんどさを感じなくさせるために、無意識に仕事だけに夢中になってそれが人生のすべてになってしまったり、無意識に”自分だけの世界”だけに閉じこもってその世界が世界のすべてだと思うようになってしまい、人生の楽しみを十分に味わえなくなってしまう。

大人だからこそ、友達を一人の人間として大切にできる。
友達と友達として、尊重することができる。

というか、尊重できない人は、友達が友達じゃなくなってしまうのですね。
離れてしまう。

そうしてしまうのは…
そう、体癖。

自分の体癖が丸出しになって、やらかしてしまうのです。
上からモノを申して敬遠されたり、”待ち”の態度でありすぎて太ぇ野郎になったり、相手に甘えすぎてエネルギーを奪われる気にさせたり。
そのやらかしの大部分は、相手を尊重していないことが原因です。

が、尊重できるかできないかは、体癖とは関係がありません。
それは体癖とはまた別の要素。
喜ぶべきことに、その要素は今からでもゲットすることができる。

ということは、今からでももっと人を尊重できるようになり、ということは、今からでも友達ができるようになる、ということ。
体癖は変えることはできなかったとしても、自分を変えることはできるのです。

「友達になりたい!」と思わせる人になりませんか?
友達になるチャンスを引き寄せてみませんか?

というわけで今回の『タイヘキストマガジン』は、”友達を作るための体癖”というテーマでお送りいたします。

私自身、今でこそ体癖や心理学を学んだことによって少しは人との和を尊ぶことのできる人間になれた実感はありますが、友達は少ないです。
今回のテーマは偉そうに言える立場にはないかもしれない。

それでも、十分。
数は少なくとも、私の友達は濃い。
少数精鋭です。

かと思えば、「友達は多ければ多いほど良い」という人もいる。
そういった方の話を聞いていると「おぉ、なるほど。それも一理あるな」とも思うのです。
そして、友達の多い方がいい/少ない方がいいというのも、実は体癖が関係しているのではないかと思われます。

今回はいつもの『タイヘキストマガジン』のように、種ごとで個別に書くというよりは、体癖を絡めて”友達を作るには、どうしたらいいか?”ということをメインテーマとしつつ、ざっくばらんに書いていきたいと思います。

と、その前に…
「友達とは何か?」について書いていく必要があるでしょう。
この”友達の定義づけ”も、体癖で違っているように感じるのです。

友達って何?

大学時代に一ヶ月だけ付き合っていた彼女がおりまして。
なんで一ヶ月しか付き合わなかったというと、”友達の定義づけがあまりにも違っていたから”という割とどーでもいーことが原因の一つとなって別れたからです(笑)

その彼女はことあるごとに「私の友達は〜」とか「私の友達の方が〜」と言う。
電話で1時間もしゃべれば、10回以上は”私の友達”という言葉を使うのです。

で「友達多いね。ワイなんて数人しかいないよ」みたいなことを言うと「え!信じられない!!友達が少ないとか、ホント意味わかんない!」と…

売り言葉に買い言葉。
名付けるなら”友達コンプレックス”を小学生以来引きずっていた私は、ちょっとムキになった。
図星を突かれたようで、ついつい口論をけしかけてしまったのです。

「じゃあ、あなたが言う”友達”って何なのさ?あなたが勝手に友達だと思ってるだけじゃないの?」と八種丸出しで聞くと「何それ!そんなことないよ!相手だって私のこと友達だと思ってるよ!」。
「なんで相手のことが分かるの?確認したの?」と八種と九種が混じったような底意地の悪さで追い詰めると、彼女は言ったのです。

「一度でもお茶とかお酒を飲みに行ったら、友達だよ!」

…この定義が、私には分からない。

お茶とかお酒を飲みに行ったばっかりに、「あ、この人とは距離を離して付き合おう」と思うこともたくさんあったからです。
私だってそう思われたこともあったでしょうし。

おそらく、彼女はこう言いたかったのでしょう。
「プライベートの知り合いは、みんな友達」。

知り合い=友達。
では、知り合いとは何か?という新しい定義づけが必要になってくるのですがそれは置いといて、この方程式を無意識に持っている人は意外にも多いような気がするのです。

彼女は今思えば…
側頭弓の出っ張りと白い肌からすると三種。
左右型にしてはくびれのないウエストからすると、七種か八種。
そのウエストの割には不自然なくらい脚が細く、肩が大きくて巻いている姿勢からすると、五種。
言動も大体そんな感じでした。

この中の、三種と五種は「知り合い=友達」の方程式を持っている人が多い気がするのです。
五種に関しては後述するとして、三種は横のつながりを大切にする人が多いですよね。
もちろん複合している体癖にもよりますが、三種は基本的には人懐っこいし、自分と相手の間に強いバリアを張る人も多くはないですね。

まして学生。
社会に出ておらず、プライベートもへったくれもないわけです。
言うなれば、学校の時間もバイトの時間も全部プライベート。
いや、”公”と”私”の違いについて学んでいるステージと言ってもいいでしょう。
そのライフステージであれば、彼女の言うことも一理も二理もある。

「で、あなたの言う”友達”って何なのよ?」と彼女からの反撃。

「よし!ワイのターンじゃ!」と息巻いたものの…
お恥ずかしながら、出てこない。
”友達とは何か?”という命題の言語化できる明確な答えを、その時は持ち合わせていなかったのです。

「いやほら、あれだよ…長い時間をかけてお互いのことを理解してさ…いろんな経験を一緒にいっぱいしてさ…喧嘩したりしても次の日にはあっさり音楽や映画の話をしている間柄…じゃないか?」と口ぐもる。

彼女はそれに「え?そこまできたら親友だよ?友達のハードル、高すぎじゃない?」と。

確かに、私自身「友達」と呼べる関係性のハードルは異様に高いのかもしれない。
”友達コンプレックス”を持っている人、あるいは過去に持っていた人の多くが、おそらくは高いのではないかと思うのです。

彼女とはそれからまもなくしてお別れしました。
なんだか、自分とは全然違う人間のような気がして、心が落ち着かなかったのです。
まぁ全然違う人間なんだけど。

それから何年か経って…
私は整体師の道を歩み始めましてね。

ある整体院(身体均整法の院でしたので正しくは”均整院”ですが)にスタッフ兼受講生として入らせてもらったのですが、売上がヤバかった。
で、院長が生き残るために行った施策が、MLM(マルチ・レベル・マーケティング)だったのですね。

院長は、三種七種(均整法の言い方ではF3とF5の混合)。
気分屋で圧が強い人だったのですが、MLMを始めてからはその”親”に面白いくらい感化されてしまって、発言がイタイタしいくらいに五種的になっていったのです。

「君もボクのやっているMLMをやるだろう?お金が欲しいだろう?じゃあやらなきゃ」と笑顔と強い圧で私に言うわけですが、やりたくない。
知り合いも少なく、友達と言えば元バンド仲間くらいしか私の周りにはいませんでしたし、五種的なMLMには引き込みたくないわけです。

お金だってそりゃ欲しいし、MLMの”親”達が言うことが本当ならどんなに素晴らしいことでしょうけど。
(一応言っておきますが、MLMを否定しているわけではありません。私も3つほどやっていた時期がありましたよん)

「いや〜でも紹介できる友達がいないんですよね〜」とのらりくらりと院長の追撃を免れようとすると…

「自分がやっていることを理解してくれない人なんて、友達じゃないよ。ボクの”親”もそう言ってたよ」と言う。

さらには「君、知ってるか?人が死ぬと平均して200人が弔問に来るんだ。っていうことは、その200人の人たち全員に声をかけることができるわけだよ。その中にはお金に困っている人もいるだろうから、どんどん声をかけてもいいんだよ。人間関係っていうのは、そう考えなきゃいけない」と、たぶん”親”が言った言葉をそっくりそのまま使って再追撃。

その言葉に、社会人になって”友達はキラキラしているけど自分は全然キラキラしていない”ということから再び友達コンプレックスをこじらせていた私は、MLMのことはどうでもよくて「う〜ん、友達ってそういうものかな?」と五種的な友達の定義づけの部分で引っかかったのです。

友達=自分を理解している人。

本当にそうだろうか?
自分は元バンド仲間のミチローやミッキーや、大学の同期のヒラバヤや長老やシュリやチューヤンのことを理解しているだろうか?
また、私は彼らに理解されているだろうか?

うーん、分からないぞ〜
じゃあ、私は何を怖れて院長の誘いを断ったのだろう?

たぶん、関係性が変わるのを怖れたのですね。
まず、「コイツはヤベェ領域に足を踏み入れた」と思って欲しくなかった。

MLMはやっていない人にとってはそんなふうに思われがちですね。
MLMを経験した今となっては、彼らの言い分が一理も二理もあるのがよく分かりますが、当時の私はイメージで「あぁいうのは人間関係が切れる原因になる」と決めつけていた部分はあった。

そして、何の利害もない関係から、利害を共有する関係になることを怖れたのです。
お金のやり取りがあったら、それは”友達”じゃない気がした。

けれど、利害関係が挟んでも友達でいられる人も、世間を見渡せばたくさんいますね。
会社の同僚、お客様と商品やサービスを提供する人、取引先、部下と上司、フリーランス同士、経営者同士…
後の話ですが、私もコロナ前は心理学の受講生とマネージャーとで毎年静岡県でキャンプをやっていましたし、弁護士として仕事をお願いしている元バンド仲間とはこないだHELLOWEENのライブを観に行きました。

それでも、当時の私の体癖と考え方では、”利害関係がある=友達でいられる”ではなかった。
”何だか気を遣わなきゃいけない人”になりそうで。

…友達って何だろう?
ひょっとすると、体癖ごとのその定義づけは、無意識的に違っているのかもしれない。

一種に「友達って何?」と聞けば、推定三種五種捻れの彼女や五種っぽいMLMの”親”と違ったことを言うでしょうし、二種でも四種でも六種でも、全然違うことを言うでしょう。

さらに複合しても定義づけは違ってくるでしょうし、個人の環境や歴史によっても、違ってくるはず。
つまりは、体癖別どころではなく、一人一人に”友達”の意味は違ってくるわけです。

そうなると、今回のnoteは書けない(笑)
ボヤッとしたものをボヤッとさせておくのが苦手な八種九種ですから、ここは明確な定義づけをしていく必要があるのです。

で、ありました。
「これなら否定できないだろう」というのが、意外な学びの中に。

それは…

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